もうすぐ絶滅するという、広告代理店の「テレビ局担当」の仕事について。

少し前の 電通報 でも紹介された『広告ビジネス 次の10年』(横山隆治氏ほか著)では、次世代の広告業界に必要とされない人材の筆頭として、「メディアの事情通というだけのメディア担当」が挙げられている。

 

僕はこの本を読んでコミュニケーションプランニングの仕事を志したこともあり、会社に入った頃は「バイヤーなど何の付加価値も身につかない肉体労働だ」と思っていた。

 

おそらくその気持ちは、大学1年生時に「こんなメディアをつくってみたい」と憧れた、渡邉正裕氏による有料課金型のメディア My News Japan の一つの記事に端を発している。キラーコンテンツの「企業ミシュラン」でとある広告代理店が取り上げられており、その中で、プランニングの仕事については「統計的スキルなどが身につき市場価値が高い」と評されていたのに対し、バイイングの仕事については肩書とゴルフについての記述しかなかったのを見て、当時の僕は「ふーん、メディアバイイングの仕事ってそんなもんなんだ…」と思ってしまったのだ。

 

しかし、テレビ局担当という仕事を1年間死に物狂いでやってみて、「バイヤーというのは、ビジネスの基礎を身につける上ではまたとないポジションだ」と思うようになった。

 

今日の記事では、20年後にはもしかすると機械に取って代わられているかもしれない「局担」という仕事で得られるものを、書いてみようと思う。

 

 

 

・「情報」を執拗に取りに行く姿勢が身につく

 

広告代理店におけるメディア担当というのは、例えるなら最後まで裏切ることのない二重スパイである。もちろん暗躍する舞台は広告代理店および媒体社だ。メディア担当が代理店と媒体社の双方からうまく情報を引き出し、双方にとって有益な未来を創りだすことができれば、それはメディア担当の付加価値となる。

 

メディアは広告枠を、スポンサーはおカネを持っている。一方、彼らを繋ぐ広告代理店は何も持っていない。「情報」だけが、機能会社である広告代理店に集まってくる唯一にして最大の武器なのだ。

 

例えば、媒体部にはまだオフィシャルになっていないテレビキャンペーンの情報を、社内の営業から入手したとする。すぐにその情報を媒体社と共有して、裏局(同じエリア内のライバル局の意。自分がTBSの担当であれば、日テレ、テレ朝、フジテレビ、テレ東が裏局となる)をどうやって出し抜き、たくさんおカネをもらうのか作戦を練るのもよいし、直近の他のスポンサーであまり出稿がなかったキャンペーンがあれば、「以前のあのキャンペーンであんまりおカネを持ってこれなかった代わりに、この案件を持ってきました!」と言って、媒体社に気持ち良くなってもらってもよい。

 

どんなに末端で下流の仕事であっても、川を遡って情報を取りに行く姿勢があれば、良い仕事ができるようになるものだ。局担というのは、そういった攻めの姿勢が身につくとても良いポジションだと思う。

 

 

 

・負け戦でも諦めない「交渉力」が得られる

 

上では「下流だなんだと言わず上流まで情報を取りに行くこと」などと書いたが、やはり仕事の性質上、会社の上の方で決まったことを確実に遂行しなければならないこともよくある。この時はさしずめゴルゴ13の気分だ。

 

基本的に、局担は「誰かのケツを拭く仕事」が多い。広告代理店というビジネスモデルの性質上、おカネが最後に流れ込むのがメディアだから、おカネにまつわるミスや緊急事態はまず間違いなく媒体部門に絡んでくるのだ。

 

「誰かのケツを拭く仕事」というのは、「普通に考えれば媒体社から怒鳴られてもおかしくない仕事」ということでもある。そこで媒体社を納得させられるだけの交渉が展開できるか否かで、その後の仕事の質は大きく変わってくる。

 

交渉において重要なことは、突き詰めると2つしかない。「武器になりそうな事柄を見出して組み合わせる力」と、「決して諦めずに妥協点を見出そうとする姿勢」。これだけだ。

 

例えば、発注書のキャンペーン期間が間違っていて訂正しなければならないという「尻拭い作業」が発生したとしよう。今CM枠は混み合っているのか、このスポンサーのコスト感は高いのか安いのか、期間が短くなったり混み合う時期に重なったりするのであればGRPを取りきるために号数(買付の基準となる視聴率の時期)を変えることは可能なのか…。そういった下調べを十二分に行った上で交渉に臨むのだ。コストの高いスポンサーなら仕方ないなと言って期間変更を受けてくれるかもしれない。号数が変えられるならできるかもしれない。それ以外にも、相手が「じゃあこうしてよ」と言ってきそうなことを先回りして調べておく。そして「無理だよ」と言われても「どうすればできる?」と食い下がり、妥協点を見出してゆく。バイイングの部隊は、指令を絶対に遂行しなければならないのだ。僕たちはゴルゴ13なのだ。

 

交渉というと、黒いものを白く見せる奇跡のようなマジックや、印籠のごとく相手がひれ伏する魔法の言い回しが存在すると思うかもしれないが、そんなものはない。相手が少しでも喜びそうな材料をあらかじめ見つけて提案する。そんな地味な作業の繰り返しなのだ。

 

 

 

・サラリーマンの「基本のマナー」を叩き込まれる。

 

広告代理店の媒体部門と聞いて最もオーソドックスに思いつくものと言えば「マナーの厳しさ」ではないだろうか。体育会系の極致とも言える業界の中で、エレベーターやタクシーの乗り方から宴席での振る舞い方まで、基本的な社会人マナーはすべて叩き込まれる。

 

こういった体育会系の風土が苦手だと言う人もいるが、僕は「宗教の異なる友人とレストランに行くのと同じだ」と思っている。

 

僕がかつてインドにいた頃、ヒンドゥー教を信じている友人と食事に行く時は、牛肉のみならず肉類は注文しないのが暗黙の了解だった(ヒンドゥー教では基本的に殺生が戒められている)。たとえその日肉が食べたくても、友人である彼ら彼女らの信じているものを尊重し、自分勝手に振る舞うことを慎む。それが互いを尊重し合うということだ。

 

体育会系の価値基準を信じている取引先や上司、先輩と相対する時も、これと同じではないだろうか。その人が「新人はエレベーターの操作パネルの前に立つのがマナーだ」「会食では取引先や上の人間が食べ始めるまで箸をつけないのが礼儀だ」と思っているのであれば、それに従ってやればいいのではないだろうか。どうせその程度の我欲を我慢したところで死にはしないのだ。

 

そういう姿勢を身につけておけば、今後同じような価値基準を持つ人と出会った時も、その人と円滑なコミュニケーションを取ることができるだろう。局担として社会人のマナーを叩き込まれておけば、将来的に絶対に損にはならないのだ。

 

 

 

・豊富な「クライアントリソース」に触れられる

 

広告代理店の醍醐味の一つは、その存在が自社のビジネスを世に展開する「事業会社」ではなくビジネスチェーンの特定の部分を受け持つ「機能会社」であるために、様々な企業のマーケティング活動に携わることができる点にある。コンサルティングファーム投資銀行、総合商社や広告代理店といった業種を希望する学生の多くは、この「機能会社」という点に惹かれているのではないだろうか。

 

その広告代理店の中にあっても、媒体担当は営業担当に比べ、より多くのスポンサーリソースに触れることができる。ぶっちゃけ、テレビのキャンペーンを提案するだけなら、自社で扱いのあるありとあらゆるスポンサーを相手にすることだって可能だ。

 

媒体社経由では、自社では扱いのないスポンサーや、他の広告代理店の情報だって知る機会があるかもしれない。局担というのは不思議なポジションで、業界的にはライバルとされる他店と一緒にその媒体社を盛り上げていくポジションだから、そうした他店の局担とともに局のゴルフ旅行に招かれたりする。そこで尊敬できる広告業界の先輩を見つけることだってある。僕は汐留のベテランの先輩から、会食におけるマナーをいくつか教わったりした。そういった交流があるのも、また局担ならではである。

 

自社のスポンサーのみならず、媒体社や他の代理店経由で知りえた情報すら「クライアントリソース」に数え上げて、それらを横一列に並び替え、自分の作業を過去から未来へと縦一列に並び替えて、媒体社にとってのネガティブな情報をポジティブな情報で味付けし、苦い素材を美味しく飲みこみやすく調理してゆく。それが、媒体担当というコックの価値なのである。

  

 

 

・「自分の存在意義」についてひたすら考えさせられる

 

局担というのは、常に誰かと比べられる仕事である。代理店の営業や業推からは「担当している媒体社を仕切れるか否か」を日々見られているし、媒体社からは「他店の局担と比べて良い作業をしてくれるか否か」を日々見られている。

 

そうして比べられた結果、営業から「お前の担当局はいつも良い時間帯にCMを流してくれるから」と言って発注をたくさんもらえることもあれば、テレビ局から「お前が言うのなら枠を出してあげるよ」と言われてサービス(無料)でCM枠をもらえることもある。もちろんその逆もあって、一度「ダメ」のレッテルが貼られてしまうと、挽回するのはなかなか難しい。

 

タダでさえ、業務内容的には「下流」で「受け身」になりやすいポジションだ。作業だけミスの無いように回して、馬なりに流すことは簡単にできる。だけどそれでは、「そこそこやる局担」にはなれても「コイツのためにやってやろうと思わせる局担」にはなれない。

 

自分のどういう資質を活かし、どういう仕事の進め方をしていくのか。突き詰めて言えば、自分の価値とは何なのだろうか。冗談ではなく、こういったことを日々考えさせられるのが、局担という仕事なのだ。若いうちからそんな風に「自分の存在意義」について問いかけることのできる仕事は、そう多くはないはずだ。そういう意味では、媒体担当になった人間というのは、幸せだと思う。

 

 

 

代理店の社内からは、ともすれば「誰にでもできる」「媒体社への連絡係」的な扱いを受けることもある局担という仕事だが、僕は決して、誰にでもできる仕事ではないと思う。

 

確かにそれは、クリエイティブの「作品」や、コミュニケーションプランナーの「アイデア」や、データサイエンティストの「仮説」のような、「その人にしかできないアウトプット」がわかりやすく見える仕事ではない。

 

だが、局担がやってくる一つひとつの作業の結果は、紛れもなく「その局担にしか出せないアウトプット」である。CMがどこに流れるかという線引き、新規キャンペーンに対する見積もり回答、そのすべてが「テレビ局と局担が二人三脚で考え、スポンサーに提出したメッセージ」なのである。

 

そうした「その人にしかできない作業」が存在する限り、局担という仕事もまた、絶滅することはないはずだ。

 

煽りのようなタイトルを付けたが、僕の本心としては、広告代理店で働くすべてのバイヤーの皆様へのエールを込めて、この記事を書いたつもりである。

 

「バイヤーは不要だ」なんて声をぶっ飛ばすべく、2016年も働いていこうと思う。

 

 

 

関連記事:広告代理店のテレビ担当「局担」の正体

 

 

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

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人と深い話をするための、「コミュニケーションの4つのC」

今日は、人と深いコミュニケーションをするためのヒントについて書いてみようと思う。

 

なお、本稿は先日書いた 人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。 における「対話」についてさらに詳しく書いた記事でもある。そちらの記事と合わせて読んでもらえると幸いだ。

 

 

 

さし飲みに行こう、と誘って(あるいは誘われて)、少しだけ緊張しながら、よく見知った人とテーブルにさし向かいになり(あるいはカウンターに横並びになり)、語り始める。最初は、お互いの共通の話題、天気の話や職場の話や家族の話を、ぎこちなく展開することになるだろう。

 

そんなちょっと気まずい瞬間を経て、いつもの飲み会と同じような飲んで騒いで終わってしまう飲みの場にするのか、それともいつもとは違うお互いの深い部分まで共有できるような飲みにするのかは、あなた次第だ。

 

ただ、せっかくさし飲みをするのなら、普段の生活からはわからないその人のことが、少しでも見えてくるような飲みにしたい。僕ならそう思う。そのためには、相手の価値観が露出しやすいテーマに着目して話を聴くことが必要だ。

 

相手のことを深く理解するためのヒントとなる話題を、僕は「コミュニケーションの4つのC」と呼んでいる。4つのCというのは単語の頭文字を取ったもので、それぞれ、Change、Concept、Contents、そしてComplexとなる。これらに関して、あるいはこれらの逆の概念に関して(例えばChange「変化」の逆は「変わらないこと」である)相手が語った時、その話は相手の奥深くにある価値観や考え方を強く反映したものになりやすいのだ。

 

それでは順に見ていこう。

 

 

 

1, Change

 

1つ目のC、Changeとは、「価値観や考え方の変化」のこと。

 

それまでのものの考え方、感じ方が「変わった瞬間」のエピソードが聴けると、そこに相手の根本にある価値観を発見できることが多い。

 

僕のとある友人は、大学までは受験勉強とテレビゲームしか打ち込むもののない人間だった。しかし大学に入り、クラシックギターに出会った。彼は、練習を積み、演奏会に出て、プロのギタリストの指導を受け、次第に上達していった。もちろん、大学から始めた楽器で食っていこうなんてことは、彼は毛頭考えていなかった。「俺は定時で帰れるホワイト企業に就職するんだ。ずっとアマチュアとしてギターを弾き続けたいから、そのための時間がほしいからね。」そう、彼は語っていた。

 

自己実現」と言うと、どうしてもキツい職場でバリバリ働いたり、やりたいことをビジネスにして起業したりするイメージがつきまとうが、この友人の話も立派な「自己実現」ではないだろうか。

 

さて、Change「変化したもの」の逆は何かと言うと、「変わらないもの」だ。新しい環境に飛び込んだ時、新しい人間と出会った時、それでも変わらなかったものは何かと問うことは、必然的に、相手の深いところにある価値観を聴きだすことにつながる。

 

僕がインドという異国で1年間生活してみて思ったのは、自分というヤツはどこまでも「インドア派」であり、観光名所を巡るよりもその国の土着の暮らしをこの目で目撃し、それを通してさまざまなことを考えてゆきたいと思う人間なのだ、ということだった。海外に行くと、その土地の名所・名物を目撃したり、異国の人々と友達になったり「しなければいけない」という無言の圧力を感じていた僕は、このインド行きによって、一つ自由になれた気がした。

 

 

 

2, Concept

 

2つ目のC、Conceptとは、「大切にしている考えや言葉」のこと。

 

座右の銘や好きな言葉を教えてもらうのもよいが、相手自身による造語、あるいは、辞書にはあるが相手によってその人固有の意味を与えられている言葉というのが、相手の価値観により迫るものとなりうる。

 

僕が就職活動をしていた頃に出会った東京大学の友人は、自らを「俗物」と称していた。その意味するところは、彼がどうしようもなく「世間的に一流とされる場所にいたい」「十分すぎるほどのカネがほしい」と願ってしまう人間である、ということだった。彼はベンチャーや中小規模の会社もいくつか受けたものの、最終的には超一流の証券会社に入った。この「俗物」という辞書にも載っているキーワードを、彼は彼自身の人生を振り返って再定義し、自らのアイデンティティとして人に語るようになったのだ。

 

ところで、Concept「頭の中の概念」の逆はと言えば、(これはやや言葉遊びのきらいがあるが)「実際に行動したこと」である。何も考えずに知らず知らずのうちにやってきたこと、それが自分という人間を表している、そういうことだ。

 

僕は昔から、ちょっとキツいなと思う方に足を踏み出してしまう傾向にあった。古くは坊主頭に刈り上げた高校野球から始まり、クソ体育会系なダイビングショップの泊まり込みバイト、今ではブラック企業の代名詞となっているとある居酒屋のアルバイト、そして言わずもがなのインド行き。社会人になっても、フルマラソンハーフマラソン、華金仕事終わりからの直行富士登山など、ひいひい言いながらそれなりに楽しんでいる。僕はきっと、そういう「自分がタフになれる」こと、「経験の幅が広がる」ことが好きなんだと思う。

 

 

 

3, Contents

 

3つ目のC、Contentsとは、「好きなコンテンツ」のこと。本やマンガ、音楽、映画といったインドアで楽しむものだけでなく、スポーツ、イベント、お店などなど、この世の「体感できるもの」すべてがコンテンツである。

 

インドア的なもので僕の好きなコンテンツを考えると、青春時代に聴いておくと、後からもれなく思い出になって死ねる邦楽ロック・ポップス10曲 や、思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。 を読んでもらえればわかるように、「ノスタル自慰」に浸れるものが僕は大好きだ。野球というスポーツが好きなのも、中学・高校と思春期に自分が打ち込んだ経験が、時を経て発酵し強烈なノスタルジーを感じられる思い出に変わったから、と言えるだろう。僕にとってノスタルジーはすなわちエクスタシーなのだ。

 

一方で、この逆は何かと言うと「嫌いなコンテンツ」。むしろ、好きなコンテンツよりもその人らしさが出るのが、この「嫌いなコンテンツ」の話かもしれない。

 

数年前、とある先輩とさし飲みをした時に、「君の文章は主観の歪みがなくてつまらない」と言われたことがある。その時僕はmixi(懐かしい名前だ…)に好き勝手な日記を書いていたわけだが、「目に映ったものだけを手先で書いている」と言われたのだ。その先輩は小説家志望で、「書く」ということに関しては人一倍さまざまな考えを持っていた。「一見客観的に見えるE=mc^2の式にだって、アインシュタインの『世界はこう見える』という主観が入り込んでいる。客観的なものなんてどこにもないんだ」というのが、工学部に在籍していたその先輩の口ぐせであり、心から信じていたことなのだと思う。だからこそ、「雰囲気重視で僕以外の人間でも書けるような」文章に、モノ申したかったのだろう。その後しばらく経ってから、とある飲み会で話した時には、「最近のブログは自分をさらけ出してて、よくなったね」と言われ、嬉しかったものだ。 

 

 

 

4, Complex(コンプレックス)

 

4つ目のC、Complexとは、文字通り「コンプレックス」(※)のこと。人間を突き動かす原動力は、多くの場合、身も蓋もないコンプレックスだ。

 

※この記事では、コンプレックスは一般的に広まっている「劣等感」の意味で用いることとする。本来の心理学用語で「劣等コンプレックス」と呼ばれる意味合いである。ご了承願いたい。

 

例えば、僕を動かしているコンプレックスは下のツイートの通りだ。

 

 

人気者になれなかったから、僕が「スクールカースト」から解放された日。 という記事を書くようになったわけだし、やりたいことがわからなかったからこそ、死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。 という記事を書くようになった。今自分が行っている「文章を書く」という行為の裏側にあるのは、それらのコンプレックスであることは間違いない。

 

Complex「劣等感」の逆は何かと言えば、これは「優越感」である。他者に対して自分のどのような点が優れていると考えているか、その部分にも、その人の価値観が強く表れる。

 

僕がこれまで出会った人間の中で、「コミュニケーションの神」だと思える人が1人いる。彼は高校時代の友人であり、大学の時も同じアルバイト先で働いていた。なぜ彼がコミュニケーションの神と言えるのか。それは、僕がスクールカースト的なものに四苦八苦していた高校時代にはクラスの中心人物として活躍し、僕も何度かライブを見に行ったバンド活動では非常にやんちゃなヤンキー感溢れる仲間たちと一緒に真剣に音楽に打ち込んでおり、それでいて僕のような人間と4時間も居酒屋で話し込むほどの深い話もできる人間だからである。

 

そのさし飲みの時、彼はこんな風に言っていた。「俺ほどいろんな人のおもしろさを認められる人間はあまりいないと思う。誰だって、人とはちょっと変わった部分がある。そこをいじってあげられれば、どんな人間にだっておもしろさは見つけられる」と。「おもしろくない人間などいない」という彼の信念が、「自分が優れていると思っている部分に関する話」から透けて見えてくるのではないだろうか。

 

 

 

その人の価値観が露出しやすい「4つのC」に注目することで、さし飲みはより楽しく、怖くないものになる。共通の話題など無くても、「なんか話しにくいなぁ」と思っている相手に対しても、この「4つのC」は有効な武器となってくれる。そして、新しい人との繋がりが生まれる。

 

さまざまな人のことを少しでも深く理解したいと思う人にとって、この記事が何かしらの参考になれば幸いである。

Twitterのツイート数の表示廃止によせて。あるいは、ざっくりと「共感」について。

Twitter社がツイート数の表示を廃止したことで、ウェブの世界には小さからぬ旋風が巻き起こっている。

 

この機能変更により、インターネットという大海原の片隅にひっそりと浮かぶ当ブログのような零細メディアは、転覆し沈没するレベルの大打撃を被るだろう。

 

FBのシェア数があるじゃないかって?ダメなのだ。

 

なぜなら、FBのシェア数ではそのメディアの「良いも悪いもひっくるめたおもしろさ」はわからないからだ。

 

FBでシェアされるコンテンツというのは、基本的には、「明るいもの」「楽しいもの」「万人に受け入れられるもの」である。

 

ハロウィンがちっとも楽しくないあなたへ。 で使った表現をもう一度使わせてもらえば、「正の感情」に裏打ちされたコンテンツ、他人から肯定されるコンテンツが、FB上ではシェアされやすいのだ。

 

しかし、「ノスタル自慰でノスタル死」とか、「自分探しをやりまくれ」とか、「笑いが取れないなら自らをさらけ出せ」とか、そういうことばかり書いているこのブログは、間違っても「万人に肯定されやすい」コンテンツではない。そういうものを書いても、僕は気持がよくならないので、書けないのだ。

 

本当は、万人に肯定されるコンテンツの方が、価値がわかりやすいし、何より自分が生きやすいから、僕だってそっちの道に進みたかった。しかし、書けないものは書けないのだから、仕方がない。

 

そんな僕にとって、大げさかもしれないけど、ツイート数というのは一つの救いだった。時々自分のブログを覗きにきて、1つでもツイート数が増えているのを見た時は、とても嬉しかった。この広いインターネットの世界に、自分の発信したメッセージに反応してくれた人が1人でもいたのだと思うと、書いていてよかったなと思えたものだ。

 

実際、僕のコンテンツはTwitterでシェアされることが多い。それはきっと、ポジティブなこともネガティブなことも発信できるTwitterという中立的なプラットフォームだからこそ、ユーザーが拡散しやすいのだと思う。

 

インターネットの見えない部分で、僕をはじめ数多くの人たちを救ってきたはずのツイート数が表示されなくなるということに、僕は深い悲しみを覚える。

 

 

 

さて余談になるが、コンテンツの「拡散」はいつ起こるのだろうか?

 

一般的な回答の一つに、「人がコンテンツに共感した時」というものがある。

 

しかし、上で書いたように、例えばFB上では、いくらそのコンテンツに共感したとしても、「これは万人からは肯定されにくいものだ」とユーザーが思ってしまえば、拡散行為は阻害される。

 

また、「中立的な」プラットフォームであるTwitterにおいてはどうかと言えば、自らの心に刺さるコンテンツに対しては、人々はリツイートよりもむしろ「いいね」(昔の「お気に入り」)を押すのではないだろうか。

 

自分の心を抉った、深く共感させられたコンテンツに関しては、人は拡散せず自らの胸の内にそっとしまっておこうとする。僕はそれが人の本質であるように思う。友人にピロウズの'1989'という楽曲の素晴らしさを説いたところで、間違いなく共感されないだろう(参照:「明日も自主休講にするかぁ」とつぶやきながら、一人暮らしのアパートで深夜に聴き入るのにふさわしい洋・邦ロック10曲。

 

そんなふうに、共感したコンテンツを胸にしまい心の糧とするのは、素敵な行いではあるけれども、さらに多くの人の目に触れるチャンスに繋がらないという意味では、残念なことかもしれない。

 

したがって僕は、理想的な拡散装置のヒントは、はてなブックマークにあると思う。

 

はてブは、人々が「胸の内にしまってお」いたコンテンツを拾い上げ、プラットフォーム上で拡散する機能を持つ。

 

肯定のされやすさも気にすることなく、ただそのコンテンツが「それぞれの心に刺さったかどうか」だけで、拡散されるかどうかが決定される。

 

もちろん、「心に刺さったことを保存しておく」という使い方だけがはてブの使い方ではないけれども、「共感の深さを拡散の広さに変換する装置」を考える上で、はてブの秘める可能性は計り知れない。

 

ツイート数亡きあと、「メディアの価値」を考えるヒントは、はてなブックマークにあるのではないか。僕はそんなふうに思っている。

ハロウィンがちっとも楽しくないあなたへ。

僕が大学に入った2000年代の後半あたりから、ハロウィンというイベントは徐々に市民権を得てきたような気がする。

 

僕の入っていたサークルでは、毎年ハロウィンが近くなると「今年は何の仮装をしようか」とみんなで考え、あれこれと準備しあったものだった。

 

わいわい楽しく語り合っている同期たちの横で、僕はいつも「早く帰りたいな…」と思っていた。

 

ムーブメントに乗ったら乗ったで多少は楽しいのだが、その楽しさを遥かに上回る疲労感が、いつも僕を襲ってきた。

 

そのうちこの違和感に慣れるのかな、と思いながら月日を重ねてきたが、ハロウィンというイベントの規模が大きくなるのに比例して、僕の中の違和感は強まっていった。

 

そして気付いた。ハロウィンはつまらない。少なくとも、僕はハロウィンを楽しめるように生まれついていないということに。

 

 

 

ハロウィンの何が嫌かって、「楽しい!」とか「驚き!」とか、そういった人間の「素晴らしいとされる感情、正の感情」を強制されている気がするからだ。

 

こんな仮装をして友達をビックリさせてやろう!おもしろい恰好をした人たちとわいわい過ごそう!こういうのって楽しいよ!君もそう思わない?

 

そう、言われている気がする。

 

いや、気がするどころではなく、実際に会社の人から「ハロウィン何かするの?」と聞かれて、「僕ハロウィンの何が楽しいのかわからないです」などと言おうものなら、非国民扱いされること間違いなしだ。

 

自分が広告代理店にいるから、なおのことそう言われるのかもしれない。

 

広告代理店という存在は、昔から、「みんなが夢中になれるもの」を創り出すことによって、お金を生み出していた。テレビをはじめとしたマスメディアに乗る広告は、すべからく「みんなが楽しいと思うもの」「みんなが欲しいと思うもの」であって、「陰惨で憂鬱だけど、たった1人を救うもの」なんて、一切存在しなかった。

 

より多くの人に届く手段であるマスメディアを使うのだから、より多くの人が「いいね!」と言うような、万人が善だと信じているような感情に働きかけるのが、常道なのだ。

 

その「正の感情」のことを端的に表しているのが、広告業界の就職活動をしているとよく目にする「嬉しい驚き」という言葉である。

 

僕だって、「嬉しい驚き」の大切さは理解しているつもりだ。部活を引退する時に後輩から思いがけない手紙をもらって涙したり、恋人との記念日にとっておきのサプライズをして相手に喜んでもらったりした経験は、多くの人が思い当るものだと思う。

 

だが、人間の感情は正のものだけではない。

 

誰かを恨んだり、嫉妬したり、誰かに死ぬほど欲情したり、なんとなくあいつとはうまが合わないと思ったり、蔑んだり、コンプレックスを抱いたり、卑屈になったり…。

 

広告業界にいると、どうもこれらの「負の感情」が、忘れ去られているように思うことがある。広告業界人が「顕在化していない人の欲望や感情」を「インサイト」と言う時、そこには「嬉しい驚き」的なものしか想定されていないような気がするのだ。

 

そして、ハロウィンというイベントが僕をどうしようもなく苛立たせるのも、人間の「正の感情」にのみフォーカスしているからだと思う。

 

 

 

余談ではあるが、ハロウィンで出たゴミをみんなで集めて渋谷をきれいにしよう!という活動が、さまざまな場所で話題になっている。ほとんどは、賞賛という形で。

 

誰がどう見ても、「良いこと」だ。素晴らしい。

 

なのに、僕はこの活動が賞賛されることに、どうしてももやもやした感情を禁じえなかった。

 

それはきっと、自分がこの活動で想定されている枠組みから、排除されていると感じてしまうからだと思う。

 

ハロウィンを楽しむだけ楽しんで、旅の恥はかき捨てとばかりに大量のゴミを巻き散らす人(この活動の仮想敵)と、ハロウィンも楽しむけど、立つ鳥跡を濁さずな人。

 

この活動では、これら二者しか想定していない。

 

「ハロウィンをそもそも楽しいと思えない人」は、ここに入ってこない。

 

僕が感じた違和感の正体は、それなんだと思う。

 

 

 

「嬉しい驚き」的な「正の感情」ばかり取り上げるのではなく、マイナスも含めた「生の感情」を大切にしていこうよって、僕は思う。

 

今はマスメディアの勉強の身だから、「正の感情」ばかり感じさせられる日々だけど、僕がコミュニケーションプランナーになったら、そういう気持ちでプランニングをしてみたいなって思う。

 

…なんだかんだ書いたけど、生まれ変わったら、ハロウィンを素直に楽しめる人になりたいなぁ。だって、こういうふうに感じてしまうのは、めんどくさいんだもん。とても複雑なんだよ。

人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。

何度か書いていることだけれども、僕は人を笑わせたり、楽しませたりすることが苦手だ。

 

もちろん、僕と波長の合う人であれば、「村上春樹風に昨日の出来事を描写する」とか、「『シャイニング』のジャック・ニコルソンの顔真似をする」とかいったアホな遊びで、大変楽しく過ごすことができる。しかし、そんな人と出会えることは非常に稀だ。

 

特に今僕がいるテレビ広告業界においては、上で書いたようなことを「遊び」として楽しんでくれる人は「非常に少ない」と言わざるをえないだろう。(面白いことを言って笑わせることや、場を盛り上げることへの情熱にかけては、この業界の人の右に出るものはいないと思うけど。)

 

僕が「スクールカースト」から解放された日 でも書いたように、僕は生来、人を笑わせることが苦手だ。タイミング良くコミュニケーションを取って、うまいこと相手を楽しませるということができない。それを意識して面白いことを言おうとして、さらに変な感じになって場が凍りついてしまう。これまで何度も味わってきた、嫌な感覚だ。

 

そんな僕と同じ「場を盛り上げるのが苦手な人」に向けて、この記事を書いてみた。

 

少しでも気楽に、人と接することができるようになってもらえれば幸いだ。

 

 

 

「場を盛り上げるのが苦手な人のコミュニケーション戦略」を考える上で、まず、コミュニケーションというものを概観し、その後目指すべき方向性を示していこう。

 

コミュニケーションは、「テーマ」と「姿勢」の2つの軸で考えることができる。これは、「何を話すか」=Whatにあたる部分と、「どう話すか」=Howにあたる部分、と言い換えてもいい。

 

「テーマ」、つまり「何を話すか」についての軸の両極にあるのが、「最大公約数」と「ニッチ」という2つの項目だ。

 

「最大公約数」とは、幅広く多くの人が興味を持つであろうテーマのこと。少し前までは、ほぼイコールで「テレビで話題になっているようなこと」と捉えてもよかった。「最大公約数」は自分の今いる世界によっても変わってくるが、例えば僕のいるトラディショナルなニッポンのサラリーマン社会においては、プロ野球やクルマの話というのがそれなりに「最大公約数的な話題」になるだろう。

 

「ニッチ」とは、範囲は非常に限定されるものの、共感し合えれば非常に深い部分まで話し込めるテーマのことだ。冒頭の「ジャック・ニコルソンの顔真似」などは、映画好きの間でならそれなりに「公約数」かもしれないが、一般的にはかなり「ニッチ」なテーマと言えるだろう。

 

「最大公約数」と「ニッチ」は両極端ではあるが、実際のテーマというのはこの2つの間のグラデーションのどこかに位置している。

 

また「姿勢」、つまり「どう話すか」についての軸は、 「プッシュ」「対話」「プル」の3つの項目に分けることができる。

 

「プッシュ」とは、自分から話すことで相手を巻き込むようなコミュニケーションの取り方。演説や語りであったり、「すべらない話」のようなトークであったりをイメージしてもらえばよい。マーシャル・マクルーハン流に言えば、参加度の低い「ホット」なコミュニケーションである。

 

「対話」とは、相手と自分が交互に語りを差し出すようなコミュニケーションの取り方。僕の好きな「さし飲み」は、先輩が後輩にありがたい訓示を垂れたり、片方の一方的な語りを聴いてあげたりするものではなく、この「対話」が成り立っているさし飲みだ。

 

「プル」とは、自分に対する興味を相手に持たせるようなコミュニケーションの取り方。就職活動の面接などもこれに近い形になる。自分に興味を持たせ、相手を自分の土俵に引きずり込むコミュニケーションだ。プッシュ型と対になり、受け手に参加を要求する「クール」なコミュニケーションとも言える。

 

以上のように、 「テーマ」に関する2つの要素と、「姿勢」に関する3つの要素を掛け合わせた、合計 2 × 3 = 6(通り) が、コミュニケーションのあり方となる。

 

図にすると下記の通りだ。

 

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それぞれの領域での典型的なコミュニケーションは下記のようになる。

 

①「最大公約数」×「プッシュ」…お笑い芸人のしゃべくり

 

②「ニッチ」×「プッシュ」…マニアの趣味語り

 

③「最大公約数」×「対話」…「先週末はいい天気でしたね。どこか行かれたんですか?」

 

④「ニッチ」×「対話」…「New Orderが好きなんですか!個人的には『Technique』が一番聴いたアルバムですが、お気に入りのアルバムはありますか?」

 

⑤「最大公約数」×「プル」…「僕、高校野球をやってました」→「野球いいね。どこ守ってたの?」

 

⑥「ニッチ」×「プル」…「僕、インドのスラムで1年間不動産売ってました」→「インドのスラムで不動産営業?どういうことやねん!」

 

上記の6象限の中で、僕が冒頭で述べた「人を笑わせる、場を盛り上げる」コミュニケーションは、「最大公約数」×「プッシュ」型のコミュニケーションとなる。一般に僕らが思い浮かべる「コミュ力の高い」人物像というのも、この象限にいるイメージではないだろうか?

 

逆に言えば、この「最大公約数」×「プッシュ」の領域以外のところを狙っていくのが、僕ら「日蔭者」の取るべきコミュニケーション戦略である。

 

 

 

僕がおススメしたいのは、「最大公約数」から始めて、徐々に「ニッチ」な話に持っていくようなやり方である。

 

その際、「対話」と「プル」のどちらの領域でコミュニケーションを展開してもよいが(実際は双方を行き来する形になるはずだ)、今回は特に「プル」型のコミュニケーションについて書こうと思う。「対話」については、またどこかの機会で書くことになるだろう。

 

※「対話」について書いた記事がこちらです。人と深い話をするための、「コミュニケーションの4つのC」

 

なぜ「プル」型のコミュニケーションについて書こうと思うのか。それは、今回の記事の最終目的地となる「ニッチ」×「プル」型のコミュニケーションと、この記事を読んでくれている方々との親和性が、非常に高いと思われるからだ。

 

面白おかしくネタで場を盛り上げる、ウェ~イ的なコミュニケーションが苦手な人は、自分の世界を大切にしている人だと思う。

 

世の中の「最大公約数」にはどうも馴染めず、独自の路線を突っ走って構築してきた、自分だけの世界。他人から見れば取るに足らないようなこだわりや、理解不能な趣味で構成された、その人だけの世界だ。

 

皮肉なことに、そうやってメインストリームから外れて生きてきたことこそが、相手に「こいつは変な奴だ!」とツッコませ、「プル」型のコミュニケーションを成立させる武器となるのだ。

 

 

 

例を書こう。

 

僕は会社の先輩と「彼女とどんなデートをするのか」という話をすることがある。

 

「映画とか観ますかね」

 

「映画ね~。どんな映画観るの?」

 

ここまではどちらかと言うと「最大公約数」的な話だ。そこで、僕は「ニッチ」な話をいきなりぶっこんでみた。

 

名画座っていう、旧作だけを上映している映画館があるんですけど、そこで50~70年代のアメリカ映画を3本オールナイトで観て、その後喫茶店でモーニング頼みながらおしゃべりするとかいいですね」

 

そう言うと、先輩は「それ何が楽しいんだよ!やっぱりお前は変なヤツだなぁ」と爆笑したものだ。

 

 

 

このコミュニケーション方法には、勇気が必要だ。

 

相手が自分に興味を持ってくれるのか、自分の大切にしている世界の話を理解してくれるのか…。そんな不安が頭をよぎり、素の自分を出せずにコミュニケーションが終了してしまった経験が、あなたにもあるのではないだろうか。

 

だが、ここで非常に言いにくいことを言ってしまおう。 

 

「相手があなたの大切にしている世界を理解してくれるか」は、ぶっちゃけどうでもいいのである。

 

というか、100%に近い確率で、相手はあなたの語ったことを「理解しよう」とはしないだろう。なぜなら、その「大切にしてきた世界」というのは、「世の中の最大公約数」に背を向けてまで、あなたがせっせと作り上げてきた世界だからである。そもそも、相手との共通項にはなりえない性質のものなのだ。

 

しかし、であるがゆえに、相手の興味を引くことには成功するだろう。先ほどの繰り返しになるが、あなたがメインストリームから外れたことを言えば言うほど、相手は「ツッコミ甲斐のあるヤツだな」と感じて、「なんだよそれは!」と返してくるからだ。

 

言うなれば、「自分の大切にしている世界の話」というのは、「最大公約数」に背を向けた僕たちの放つことのできる、渾身のカウンターパンチなのである。

 

あなたは、モテてる奴や面白い奴みたいに【みんなを笑わせる】ことは、できないかもしれない。だけど「ギラギラしたまま」みんなと対話できて自己開示できれば、あなたは【みんなに笑われることができる】ようになる。(中略)

 

バカな自分を、自分で開示して(わざとらしく「おどける」のではなく「オレのことを解ってよ」と押しつけるのでもなく、ただ開示して)みんなに笑われることで、あなたは、みんなを和やかにすることができたのです。

 

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』p.139)

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

 

 

「プッシュ」×「最大公約数」型の「コミュニケーション強者」になれなくても、さまざまな人と楽しくコミュニケーションを取れる方法は存在する。

 

これまでしっかりと構築してきた「自分の世界」の話を、ちょろっと開示してあげるだけでいい。「こんなヤツに理解できるはずない」と相手を見下すのでも、「自分のことを理解してもらえるのかなぁ」と不安に思うのでもなく、ただ自分の思うところを、気負わずに提示してみればいい。もちろん、ツッコミをもらった後は「対話」路線に持っていくことも忘れずに。

 

そうすれば、これまでとはまた別の種類の人たちと、楽しく明るくコミュニケーションできるようになるはずだから。

思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。

ものごころついた時には部屋中に本がうず高く積まれていたという環境もあって、僕は昔からたくさんの活字に親しみながら生活してきた。

 

人生の時々で読んできた小説には、当時の記憶がしおりのように挟み込まれ、ページを開くといつでもその頃にタイムスリップできる。

 

今日は、僕にとってかけがえのないそんな小説を10冊、紹介しようと思う。

 

この小説たちが、別の誰かにとっての「戻ってきたくなる場所」になればいいなと思っている。 

 

 

 

 

 

第10位

 

僕は勉強ができない

 

山田詠美

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

率直に言って、僕はこの主人公に共感はしない。どうあがいても、高校時代の僕はこんなに自分の考えに素直に従える人間ではなかったからだ。

 

ただ、この作品が良いなと思うのは、そこに登場する人間たちが、とても正直にものを語るからだ。

 

特に好きなのは、いわゆる「ぶりっ子」なクラスのマドンナに告白されるも、「自分のこと可愛いって思ってるでしょ」と主人公が容赦なく切り返したところ、思わぬ反撃を食らうシーン。

 

「山野さん、自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。自分を好きじゃない人なんている訳ないと思っているでしょう。でも、それを口に出したら恰好悪いから黙ってる。(中略)だけど、ぼくは、そうじゃない。きみは、自分を、自然に振る舞うのに何故か、人を引き付けてしまう、そういう位置に置こうとしてるけど、ぼくは、心ならずも、という難しい演技をしてるふうにしか見えないんだよ」(p. 151)

 

「何よ、あんただって、私と一緒じゃない。自然体っていう演技してるわよ。本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持ってるって思ってるくせに。優越感をいっぱい抱えてるくせに、ぼんやりしてる振りをして。(中略)私は、人に愛される自分てのが好みなのよ。そういう演技を追求するのが大好きなの。中途半端に自由ぶってんじゃないわよ」(p. 152)

 

高校生でこんな応酬ができるヤツはそうはいない。人からよく見られたい、とか、自分はあいつより優れている、とかの、人間の本質的な部分が凝縮されたシーンだ。

 

(読者諸子にはどうでもいいと思うが、可愛い女の子がこんなにあからさまに自分のことを語ってくれたら、僕はそれだけで惚れてしまうだろう。どうでもいいが。)

 

 

 

第9位

 

限りなく透明に近いブルー

 

村上龍

 

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

初めて読んだ時にあまりにも性描写があけすけで、驚きながらも興奮してしまった小説。僕がアナルセックスという単語を知ったのはこの小説からではなかったか。

 

当時中学1年生のありあまる性欲を『いちご100%』とこの小説にぶつける日々の中で、「はて、著者はどうしてこんなにも過激なセックス描写をしているのだろうか」と、賢者タイム中に考えてみたことがあった。

 

その頃はわからなかったけれど(なにしろ賢者タイムが短いし…)、大学生になってサイケデリック・ロックやヒッピー文化に興味を持ってから、なんとなくその理由がわかってきた。

 

主人公は、自分を冷徹に見つめる「視点」から、逃れたかったんだと思う。

 

ドラッグやセックス、ロックンロールといった代物は、自分を一時的に陶酔させてくれる。自分って何者なんだとか将来どうするんだとか、そういっためんどくさいことを考えなくてもいい状態にしてくれる。

 

だが、どれだけそういった「劇薬」に手を染めても、主人公は冷徹な「視点」から、逃れることができなかった―。読み手の気分が悪くなるほど細かく徹底した情景描写は、それを暗示しているのだ。

 

 

 

第8位

 

夜は短し歩けよ乙女

 

森見登美彦

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

読んでいてニヤニヤしてしまう小説、というものがある。電車で読むにはすこぶる向いていないが、面白いので読み進めずにはいられず、またニヤニヤしてしまう。

 

『夜は短し歩けよ乙女』は、僕にとってそんな作品だ。自分が学生時代を過ごした京都の街や大学がこれでもかと出てきて、その情景がすべてありありと思い浮かぶものだから、これはもうたまらない。木屋町先斗町糺の森京都大学吉田南キャンパス…。地名を書くだけでノスタル死しそうだ。

 

森見氏の『太陽の塔』や『恋文の技術』は、ややもすると主人公のヘタレぶりが鼻につきすぎてうっとおしいかもしれないが、 『夜は短し歩けよ乙女』では、そのファンタジー要素とノスタルジックな描写によって、主人公の童貞臭さがマイルドに抑えられている。

 

そういえばどこかで「『夜は短し~』のヒロインは京大生の思い描く理想の女の子だ」とかいう文章を読んだことがあるのだけど…。

 

その通りです、と言っておこう。

 

 

 

第7位

 

グレート・ギャツビー

 

スコット・フィッツジェラルド

 

グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー

 

 

莫大な金をつぎ込んで夜な夜なパーティーを開き、蝶が花に集まるように意中の女性・デイジーが自分のもとに飛び込んでくるのを待っていたギャツビー。そのやり方はなんとも非効率的だ。デイジーと再会してからも、彼はおよそスマートとは言い難いアプローチで彼女に迫る。そして…悲しい事件が起こる。

 

純粋で不器用で、いつも遠いところにある「灯」を追い求めていたギャツビー。完璧なお金持ちのゴージャスな求愛の物語ではなく、あちこち欠けた部分のあるギャツビーという生身の人間の物語だからこそ、この作品は僕たちの胸をうつ。そして、そんな「純粋さ」をかつては自分も抱いていたことを回想するような、主人公ニックの語り。

 

1974年の映画版も観たのだが、とてもよかった。特にヒロイン役のミア・ファローがドンピシャだと思う。外国の映画に「物悲しさ」を感じることはあっても「儚さ」を感じることはそうないが、この映画にはそれがあると思った。話題になった2013年の作品もぜひ観てみたい。

 

 

 

第6位

 

ライ麦畑でつかまえて

 

J.D.サリンジャー

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

世の中や恵まれた人間に対しては斜に構えてあれこれ難癖をつけるホールデン少年の姿は、かつての頭でっかちでうじうじ悩んでいた自分自身を思い起こさせる。

 

主人公のとりとめのない独白が続くため「最後まで読めない!」という声を聞くことも多いこの小説。共感できないのであれば、それはそれでいいと思う。自分にそこまでコンプレックスが無く、世の中に対して不満の無い人であれば、この小説に「救われる」ということはあまりないかもしれない。

 

ただ、僕自身は「ライ麦畑から転がり落ちる前に」この小説にとっつかまえてもらった一人である。

 

ホールデン少年は、通俗的なあれやこれやを嫌悪しているけれど、そのかわり弱いものや醜いものに対しては人一倍優しい。そんな彼の、今でも僕の心に残っている言葉をいくつか紹介したい。

 

アーニーってのは、ピアノを弾く、大きな太った黒人だけど、すごく気どってやがって、一流人か名士なんかでなきゃ口もきかないんだけど、ピアノはほんものなんだ。(中略)彼の演奏を聞くのは、僕はたしかに好きなんだけど、でもときどき、あいつのピアノをひっくりかえしてやりたくなることがあるんだよ。それはたぶん、あいつの演奏を聞いてると、一流人でなければ話しかけようとしない男っていう、そんな感じがにおうからじゃないかと思う。(p.127)

 

 会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。(p.137)

 

仮に人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ。(p.268)

 

 

 

第5位

 

悲しみよ こんにちは

 

フランソワーズ・サガン

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

元々は、映画『ジョゼと虎と魚たち』を観て、この「ジョゼ」という名前の元ネタになった小説を読んでみたいと思い、サガンの『1年ののち』を手に取った。それがとても良かったので、それではと思いデビュー作の『悲しみよ こんにちは』を読んでみたところ、凄まじい作品だった。

 

大好きな父親を新たな結婚相手から取り戻すべく、自分のボーイフレンドや父の昔の愛人のコンプレックスや恋愛感情をことごとく利用して人々を翻弄するも、最後には「かなしみ」しか残らない少女の、透明で残酷な物語。

 

少年少女というと、どうしても純なる存在、穢れなき精神の象徴とされることが多いけれども、ほんとのところは、子どもはずるいし、汚いし、悪意に満ちた振る舞いをするものなのだ。人が何をしたら嫌がるのかよく知っていて、あたかも無邪気を装って他人の弱く柔らかい部分に土足で踏み込んでいく。

 

僕もそんなふうに人から傷つけられたし、傷つけていた。はずなんだけど、傷つけられた経験ばかり覚えていて傷つけた経験は思い出すことができない。無理に加害者になろうとしているわけではないのだけど、間違いなく、僕も他人に立ち入って不快な思いをさせたことはあったはずなのだ。

 

子どもの頃いかに自分が残酷だったかを、この小説は読む人に思い出させる。自分の過ちによって初めて「かなしみ」という感情を知った時のことを、思い知らせてくれる。

 

ヨットとかもめ、そして眩しく輝く海を思い起こさせる装丁が見事です。

 

 

 

第4位

 

夏の庭

 

湯本香樹実

 

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

 

こんな時代が自分にも確かにあったなぁと、ニヤニヤしながら、最初から最後まで一気に駆け抜けてしまう小説。

 

「幽霊が怖い」と夜中にトイレに行けなかったでぶの山下は、おじいさんとのひと夏の経験を経て、一人でトイレに行けるようになる。少年たちのささやかな成長を、僕たちは読者として目撃する。

 

一方で、僕たち読者はもう、月日は残酷だということを知ってしまっている。小学校や中学校で一緒だった友達の中で今も連絡を取り合っている人は、僕には数えるほどしかいない。おじいさんとは少ししか一緒にいられなかったけれど、この3人も、いつまでも一緒にはいられない。この夏の物語は、奇跡のようなバランスの産物であり、決して戻ってくることはないのだ。

 

そんなことに思いを馳せながら、3人がそれぞれの道に別れて進んでゆくラストシーンを読むと、涙なしではいられないのだ。

 

素敵だな、という感想しか出てこない、僕の大好きな小説の一つ。

 

 

 

第3位

 

郷愁 ペーター・カーメンツィント

 

ヘルマン・ヘッセ

 

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

 

 

1人の男の幼少期から晩年までを1冊の小説に閉じ込めた作品。報われない恋、花開く友情、そして愛…。ヘッセの代表作『車輪の下』の主人公ハンスが晩年まで生きていたなら、こんな人生を送ったかもしれない(そしてこんなふうに救われたかもしれない)と思わせる、幸せな物語。最初と最後が故郷の村の同じような描写であるというところが、読み手に「帰ってきたんだな」というノスタルジーを呼び起こす。

 

僕はヘルマン・ヘッセという作家に自分自身を発見することがある。学校の勉強では良い点を取るかもしれないけど、人との付き合いや世の中への接し方は決してスマートではなく、他者からの見え方をとても気にしながら、その裏で嫉妬や軽蔑といった暗い感情を抱えながら生きている。そんな自分だ。「なんでこんなに自分のことがわかるの」って、読みながら泣いてしまったことも数知れない。

 

ヘッセ後期の作品である『荒野のおおかみ』にも、「世の中的なもの」にどうしてもなじめず、かと言ってそこから逃れることもできない主人公が登場する。『郷愁 ペーター・カーメンツィント』でヘッセが思い描いた歳の取り方はやや空想的にすぎなかったが、『荒野のおおかみ』では主人公が自我を確立するに至るまでの葛藤ぶりが真に迫っていた。

 

このブログを読んでくれている方々には、ぜひヘッセの作品を読んでみてほしい。「読書感想文の推薦図書」というイメージは、捨ててほしい。世間的なものをどうしても諸手を挙げて受け入れることができず、それでいて突き抜けた生き方を貫くこともできない、そんな中途半端な僕には、めちゃくちゃ刺さった作家です。

 

 

 

第2位

 

スティル・ライフ

 

池澤夏樹

 

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

 

これまで読んだ中で最も透明感のある小説は何か、と言われたら、僕は迷わずこの作品を挙げるだろう。

 

先ほど書いた『限りなく透明に近いブルー』も、「僕」の微に入り細にわたった描写を通して、セックスもドラッグも彼自身を「没頭」させる劇薬になりえず、主人公は永遠に醒めきったままなのだということを読者に伝えようとしていた。それはある意味「透明な、冷徹な」物語だと言える。

 

しかし、『スティル・ライフ』の透明感は全然別の種類のものだ。一人称なのに、頭の遥か上の方から世界を眺めている誰かの視点で描かれているような、そんな透明感だ。きっとそれは、筆者が理系のバックグラウンドを持っており、理系的な「世界の運行」みたいなものをイメージとして置きながら、この作品を書いたからではないかと思う。

 

僕が一番好きなシーンは、雨崎で雪を受けるシーン。

 

雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。(p.32)

 

これほどまでに文章で映像を観させられた経験は、僕にはない。素晴らしい、の一言だ。

 

何にも刺激されることなく、癒しを求めたい時に、抜群の威力を発揮する作品。

 

 

 

第1位

 

ノルウェイの森

 

村上春樹 

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 

僕が人生で一番読み返している小説だ。ノスタルジックな大学の風景、「僕」の周りのちょっと変わった人々。それらが自分の学生時代の記憶とミックスされて、夢か現か判別しようのない、霞みがかった映像が目の前に現れてくる。それを観たいがために、僕はこの小説を読み返している気がする。

 

ノルウェイの森』はよく「村上春樹作品の中では珍しくファンタジー要素が入っていない作品」だと言われるけれど、僕がこの小説を好きなのは、別にリアリスティックな作品だからというわけではない。村上春樹の作品の中で、最も「人間」が描かれていると思うからだ。

 

中学生の頃、この本を初めて読んだ時に思ったのは、「直子も緑も変な女の子だなぁ」ということだった。メンヘラと(その時はまだメンヘラなんて単語は無かったけれども)、なんかハイテンションな女の子。そんな程度だった。

 

もちろん、その頃は女性の気持ちを深く知る機会なんてあるよしもなかった、ということもあるのだろうけれど、もっと一般的に、自分以外の「人間」に対する興味があまりなかった、ということなのだと思う。

 

だけど、年齢を重ねるにつれ、誰もがみな直子や緑のような「歪み」を持って生きているんだ、と思うようになった。

 

この小説のセックスシーンが、『限りなく透明に近いブルー』の徹底した描写とは対極の穏やかなものであるにも関わらず、読む者を心の底から欲情させるのは、そんな「歪み」を許しあい共有しあうようなセックスが、世界で一番幸せなコミュニケーションだからではないだろうか。

 

 

 

 

 

この他にも、武者小路実篤『友情』は最後まで入れようかどうか迷ったし、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、川上弘美センセイの鞄』など、最近読んでとてもよかった小説がいくつかある。それらの評価は今後の「読み返し」を経て定まってくるだろう。

 

小説は、自分を救ってくれる1つの小宇宙だ。そんな小宇宙に1つでも多く出合えることを願って、僕はまた新しい本のページをめくるだろう。

死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。

「自分探し」という言葉に軽侮のニュアンスが含まれるようになったのは、いつからだろうか。

 

僕が大学を休んで1年間インドで暮らしていたと言うと、決まって返ってくるのは「自分探しにでも目覚めちゃったの?」という言葉である。

 

ここでいう「自分探し」には、なんとなく相手をバカにする気持ちが含まれている。「1年間インドで暮らすなんてすごいねぇ。でも、俺にはそんな経験は必要なかったなぁ」というような。

 

そんな裏の意味をなんとなく感じてしまうから、「自分探しでもしてたの?」という問いに対しては、受ける側も「ええまぁ…ちょっとその頃血迷ってまして」と濁したり、「いえ、やってみたかったことがありまして…」と否定したりする。「はい、自分探しのために行きました」と正面切って言うのは、なかなか難しいのだ。

 

はい、と言ったら言ったで、「でもさあ、自分なんて今ここにいるじゃん。わざわざ遠い外国に行って探す必要なんてないんじゃないの?」と、わかったふうなお説教が飛んできたりする。

 

そういった一連の流れが嫌でも想像できてしまうから、僕は自らの「インドに行ってスラムのアパートで1年間暮らした経験」を、「自分探しのために行きました!」と言えずにいた。就活の面接でも、もっと「建設的な」別の理由をこしらえて、それを真面目な顔をして語ったりしていた。

 

でも、そういうのはもうやめにしたい。

 

今日の記事では、僕と同じく「自分ってなんだろう」という問いにのたうち回って苦しんでいる人たちに、「自分探しは悪なんかじゃない」というメッセージを、届けたいと思う。

 

 

 

なぜ、「自分探し」は悪だと感じてしまうのだろうか。

 

それは、自分自身をしっかりと把握し、自分のやりたいことを定め、地に足をつけて毎日を過ごしている人が「偉い」という風潮が、世の中にあるためだ。

 

いつまでも「自分自身」なんてものについて悩んでいないで、就職して、結婚して、幸せな家庭を築きなさいよ。あるいは、起業するなり、医者や弁護士になるなり、自分の夢の実現に向かって邁進しなさいよ。そうした無言の圧力が、日本にはある。

 

高校なり大学なりのその人の「最終学歴」を経た後、日本の社会システムから突然要請される「進路を決定せよ」という圧力は、僕らが永遠に「自分探し」し続けることを許さない。そして、進路を決めるということは、自分自身を定めるということ、自分探しのための「ゆとり」や「バッファ」を切り捨てることに他ならない。

 

 

 

果たして、「モラトリアム期間に自分探しを終え、アイデンティティを確立して社会に入ってゆく」という考え方は正しいのだろうか?

 

まず、「自分探し」というものにさほど関心を持たない人、「自分自身について知ること」に興味の薄い人が、世の中にはいる。そういった人たちにとっては、そもそも「自分探しとかアイデンティティとか、よくわかんないなぁ。適当に生きていけばいいんじゃないの?」といった程度の感想しかないと思う。

 

次に、「自分自身」には非常に興味があるけれども、人生のどこかの時点で「自分の夢」を明確に描くことができた人がいる。そういった人たちは、きっと「自分探しした時期もあったけど、今自分はこうした夢に向かって邁進している。やりたいことがわかれば、自分探しの時期は終わりだと思うよ」と言うだろう。自己啓発書の「夢を見つけて逆算して日々を生きなさい」というメッセージも、このカテゴリーの人たちに向けて書かれたものだ。

 

しかし、僕と同じように、「自分自身」について強烈に思い悩み、さまざまな体験をくぐり抜けてきたけれど、それでも自分は何がやりたいのか、どういう人間なのかがコロコロ変わってわからない、という人もいるはずだ。

 

そういった人たちにとって、自分探しとは、社会に出る前に終わらせておかねばならない通過儀礼ではなく、社会に出てからもずっと、生きている限り自らに課され続けるカルマのようなものではないだろうか。

 

僕たちのような人間は、「自分探しは一生続いていくものだ」と捉え直した方が、救われる思いがするのではないだろうか。

 

 

 

さて、「自分探しは一生続く」などと書くと、「これからも(典型的な『自分探し』人間のごとく)海外をさまよったり珍しい経験をしたりして、『自分自身』を追い求めなければいけないのか…」と絶望する人もいるかもしれない。

 

しかし、そうではない。自分探しはどこででもできるからだ。

 

僕は新卒で入った広告代理店に勤めてもうすぐ1年半になる。

 

いわゆる「自分探し」という言葉の持つイメージからすると、1つの企業で働き続けるというのは、「自分探し」からは程遠い行為のように思える。

 

しかし、会社という組織の中でさまざまなことを半ば強制的に経験させられると、その過程で「新しい自分」を発見することができる。その具体例については、『僕が「スクールカースト」から解放された日』で書いた通りだ。高校時代に植えつけられた「リア充的なもの」への苦手意識が、広告代理店のテレビ局担当をやったことで自然と消失し、「自分は自分。リア充にはなれなくても、自分を開示することで人と楽しくやっていくことができる」ということを発見したのだ。

 

自分探しは、どこででもできる。むしろ、自分の興味に従った行動を取りがちな学生時代よりも、配属や転勤などで予想もつかない環境に放り込まれる社会人時代の方が、よっぽど「自分探し」には適しているかもしれない。さらに企業のサイズで言えば、明確なジョブローテーションのあることの多い日本の大企業の方が、より「自分探し」の舞台としてぴったりなのかもしれない。

 

内田樹氏によると、ヘーゲルマルクスは「普遍的人間性というものはなく、行動(労働)を通じて作り出したものによって自分自身を知る」と述べている。

 

人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。そうして制作された物を媒介にして、いわば事後的に、人間は自分が何ものであるか知ることになります。(中略)

 

この「作りだす」活動は一般に「労働」と呼ばれます。マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.29)

 

現代病とも言える「自分探し」に取り憑かれた僕たちにとってのオアシスが、昭和的価値観の象徴とも言える「日本的大企業」における「労働」であるというのは、なんとも皮肉なことだ。が、ここまで書いてきたように、これら両者の相性は決して悪くないのだ。

 

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

 

  

 

 

もう少し言えば、「自分探し大好き人間」は、むしろ組織の中でうまくやっていける可能性をも秘めている。

 

梅田望夫氏は『ウェブ時代をゆく』の中で、大企業勤務に向いている人の特性として以下の点を挙げている。

 

(1)「配属」「転勤」「配置転換」のような「自分の生活や時間の変え方を他者によって規定されること」を「未知との遭遇」として心から楽しめる。

 

(2)与えられた問題・課題を解決することに情熱を傾けることが出来る。その課題が難しいほど面白いと思える。

 

(3)Whatへの「好き嫌い」やこだわりがあまり細かくなくおおらかで、一緒に働く人への「好き嫌い」があまりない。仮に合っても、苦手(つまり嫌い)を克服することを好む。

 

(4)「これが今から始まる新しいゲームだ」とルールを与えられたとき、そのルールの意味をすぐに習得してその世界で勝つことに邁進することに興味を覚える。

 

(5)多くの人と力を合わせることで、個人一人ではできない大きなことができることに充実感を覚えるチームプレーヤーである。

 

(6)「巨大」なものが粛々と動くことへの関与・貢献に達成感と充実感と感じ、長時間長期の「組織へのコミットメント」をいとわず、それを支える持久的体力にすぐれる。

 

(7)組織への忠誠心や仕事における使命感のほうが、個人の志向性よりも価値が高いと考える。

 

このうち、特に(1)は言うまでもなく、(2)や(3)も「与えられた環境に単純な好き嫌いで反応する」よりも、「与えられた環境に対して自分がどう感じるのか、さらにどうすればそれを好きになるのか」を考える「自分探し大好き人間」の特質と、決して相性は悪くないだろう。

 

(一方で、個人より所属集団を優先する(5)~(7)に関してはまったく当てはまらないと思う。僕も(5)から(7)の項目については興味がない。)

 

「自分探し」がしたい!という欲求は、まったくもって悪いことではないのだ。むしろ、企業で働くにあたって「自分とはなんだろう?」と考えることの好きな人間は、自分だけの力では経験できなかった環境をプラスに変えて、さらなる自分の強みを発見していける可能性を秘めているのだ。

 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

 

 

 

  

ここまで「企業で働き続けることは自分探しと決して矛盾しない」ということについて書いてきた。それをもう少しだけ、一般化してみたい。

 

キルケゴールの『死に至る病』の冒頭部分では、「自己とは何なのか」ということについて書かれている。

 

人間は精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?

 

自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

 

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

 

キルケゴール死に至る病』p.20)

 

これだけ読むと意味がわからないが、要するにキルケゴールはこういうことを言っている。「人間は、優しい面、冷たい面、恐ろしい面、さまざまな面を持ち合わせている。それらが統合されて(=関係して)1人の人間になっている。しかし、さまざまな面が関係し合うだけでは自己は存在しない。その人間に自己自身が『自分とは何者か?』と問いかけ、関係して初めて、自己は存在するのだ」。

 

結局、海外に長期滞在するのも、会社に所属して働くのも、「自分探し」という点では何も変わらない。出会ったものを内面深くまで取り込み、自分はどう感じるのか、どう考えるのかについて掘り下げてゆく。「自分とは何者か?」と問うのは、どこでだってできる。

 

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

 

 

「自分探しインスパイア系小説」の代表作としてよく名前の挙がる、沢木耕太郎氏の『深夜特急』は、決して「新しい理想の自分」を探しながら異国を巡った青年の冒険譚ではない。むしろ、旅先で生じた無数の(特別ではなく日常の、ハレではなくケの日の)出来事について、自らがどう考えるのかを自問し続けた哲学書なのだ。

 

舞台はどこだっていいのだ。キルケゴールの言う「関係が自己自身に関係するというそのこと」、「自分とは何者か?」と問いかけ続けるあの厄介だが愛すべき胸の中の声さえあれば、「自分探し」は可能になるのだ。

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 

 

 

「本当の自分はこうではないはずだ」と今の環境を否定し、こことは別の場所に出かけていくのではなく、あらゆる環境を(遠い異国も通いなれたオフィスもすべて)自分という未知の物質Xを特定するためのフラスコと捉え、「自分にはこういった側面もあるんだな」と日々知見を重ねてゆく。

 

僕はそんな「永遠の自分探し人間」としてしか生きていけないだろうし、また、生きていきたいとも思う。

 


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