死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。

「自分探し」という言葉に軽侮のニュアンスが含まれるようになったのは、いつからだろうか。

 

僕が大学を休んで1年間インドで暮らしていたと言うと、決まって返ってくるのは「自分探しにでも目覚めちゃったの?」という言葉である。

 

ここでいう「自分探し」には、なんとなく相手をバカにする気持ちが含まれている。「1年間インドで暮らすなんてすごいねぇ。でも、俺にはそんな経験は必要なかったなぁ」というような。

 

そんな裏の意味をなんとなく感じてしまうから、「自分探しでもしてたの?」という問いに対しては、受ける側も「ええまぁ…ちょっとその頃血迷ってまして」と濁したり、「いえ、やってみたかったことがありまして…」と否定したりする。「はい、自分探しのために行きました」と正面切って言うのは、なかなか難しいのだ。

 

はい、と言ったら言ったで、「でもさあ、自分なんて今ここにいるじゃん。わざわざ遠い外国に行って探す必要なんてないんじゃないの?」と、わかったふうなお説教が飛んできたりする。

 

そういった一連の流れが嫌でも想像できてしまうから、僕は自らの「インドに行ってスラムのアパートで1年間暮らした経験」を、「自分探しのために行きました!」と言えずにいた。就活の面接でも、もっと「建設的な」別の理由をこしらえて、それを真面目な顔をして語ったりしていた。

 

でも、そういうのはもうやめにしたい。

 

今日の記事では、僕と同じく「自分ってなんだろう」という問いにのたうち回って苦しんでいる人たちに、「自分探しは悪なんかじゃない」というメッセージを、届けたいと思う。

 

 

 

なぜ、「自分探し」は悪だと感じてしまうのだろうか。

 

それは、自分自身をしっかりと把握し、自分のやりたいことを定め、地に足をつけて毎日を過ごしている人が「偉い」という風潮が、世の中にあるためだ。

 

いつまでも「自分自身」なんてものについて悩んでいないで、就職して、結婚して、幸せな家庭を築きなさいよ。あるいは、起業するなり、医者や弁護士になるなり、自分の夢の実現に向かって邁進しなさいよ。そうした無言の圧力が、日本にはある。

 

高校なり大学なりのその人の「最終学歴」を経た後、日本の社会システムから突然要請される「進路を決定せよ」という圧力は、僕らが永遠に「自分探し」し続けることを許さない。そして、進路を決めるということは、自分自身を定めるということ、自分探しのための「ゆとり」や「バッファ」を切り捨てることに他ならない。

 

 

 

果たして、「モラトリアム期間に自分探しを終え、アイデンティティを確立して社会に入ってゆく」という考え方は正しいのだろうか?

 

まず、「自分探し」というものにさほど関心を持たない人、「自分自身について知ること」に興味の薄い人が、世の中にはいる。そういった人たちにとっては、そもそも「自分探しとかアイデンティティとか、よくわかんないなぁ。適当に生きていけばいいんじゃないの?」といった程度の感想しかないと思う。

 

次に、「自分自身」には非常に興味があるけれども、人生のどこかの時点で「自分の夢」を明確に描くことができた人がいる。そういった人たちは、きっと「自分探しした時期もあったけど、今自分はこうした夢に向かって邁進している。やりたいことがわかれば、自分探しの時期は終わりだと思うよ」と言うだろう。自己啓発書の「夢を見つけて逆算して日々を生きなさい」というメッセージも、このカテゴリーの人たちに向けて書かれたものだ。

 

しかし、僕と同じように、「自分自身」について強烈に思い悩み、さまざまな体験をくぐり抜けてきたけれど、それでも自分は何がやりたいのか、どういう人間なのかがコロコロ変わってわからない、という人もいるはずだ。

 

そういった人たちにとって、自分探しとは、社会に出る前に終わらせておかねばならない通過儀礼ではなく、社会に出てからもずっと、生きている限り自らに課され続けるカルマのようなものではないだろうか。

 

僕たちのような人間は、「自分探しは一生続いていくものだ」と捉え直した方が、救われる思いがするのではないだろうか。

 

 

 

さて、「自分探しは一生続く」などと書くと、「これからも(典型的な『自分探し』人間のごとく)海外をさまよったり珍しい経験をしたりして、『自分自身』を追い求めなければいけないのか…」と絶望する人もいるかもしれない。

 

しかし、そうではない。自分探しはどこででもできるからだ。

 

僕は新卒で入った広告代理店に勤めてもうすぐ1年半になる。

 

いわゆる「自分探し」という言葉の持つイメージからすると、1つの企業で働き続けるというのは、「自分探し」からは程遠い行為のように思える。

 

しかし、会社という組織の中でさまざまなことを半ば強制的に経験させられると、その過程で「新しい自分」を発見することができる。その具体例については、『僕が「スクールカースト」から解放された日』で書いた通りだ。高校時代に植えつけられた「リア充的なもの」への苦手意識が、広告代理店のテレビ局担当をやったことで自然と消失し、「自分は自分。リア充にはなれなくても、自分を開示することで人と楽しくやっていくことができる」ということを発見したのだ。

 

自分探しは、どこででもできる。むしろ、自分の興味に従った行動を取りがちな学生時代よりも、配属や転勤などで予想もつかない環境に放り込まれる社会人時代の方が、よっぽど「自分探し」には適しているかもしれない。さらに企業のサイズで言えば、明確なジョブローテーションのあることの多い日本の大企業の方が、より「自分探し」の舞台としてぴったりなのかもしれない。

 

内田樹氏によると、ヘーゲルマルクスは「普遍的人間性というものはなく、行動(労働)を通じて作り出したものによって自分自身を知る」と述べている。

 

人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。そうして制作された物を媒介にして、いわば事後的に、人間は自分が何ものであるか知ることになります。(中略)

 

この「作りだす」活動は一般に「労働」と呼ばれます。マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.29)

 

現代病とも言える「自分探し」に取り憑かれた僕たちにとってのオアシスが、昭和的価値観の象徴とも言える「日本的大企業」における「労働」であるというのは、なんとも皮肉なことだ。が、ここまで書いてきたように、これら両者の相性は決して悪くないのだ。

 

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

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もう少し言えば、「自分探し大好き人間」は、むしろ組織の中でうまくやっていける可能性をも秘めている。

 

梅田望夫氏は『ウェブ時代をゆく』の中で、大企業勤務に向いている人の特性として以下の点を挙げている。

 

(1)「配属」「転勤」「配置転換」のような「自分の生活や時間の変え方を他者によって規定されること」を「未知との遭遇」として心から楽しめる。

 

(2)与えられた問題・課題を解決することに情熱を傾けることが出来る。その課題が難しいほど面白いと思える。

 

(3)Whatへの「好き嫌い」やこだわりがあまり細かくなくおおらかで、一緒に働く人への「好き嫌い」があまりない。仮に合っても、苦手(つまり嫌い)を克服することを好む。

 

(4)「これが今から始まる新しいゲームだ」とルールを与えられたとき、そのルールの意味をすぐに習得してその世界で勝つことに邁進することに興味を覚える。

 

(5)多くの人と力を合わせることで、個人一人ではできない大きなことができることに充実感を覚えるチームプレーヤーである。

 

(6)「巨大」なものが粛々と動くことへの関与・貢献に達成感と充実感と感じ、長時間長期の「組織へのコミットメント」をいとわず、それを支える持久的体力にすぐれる。

 

(7)組織への忠誠心や仕事における使命感のほうが、個人の志向性よりも価値が高いと考える。

 

このうち、特に(1)は言うまでもなく、(2)や(3)も「与えられた環境に単純な好き嫌いで反応する」よりも、「与えられた環境に対して自分がどう感じるのか、さらにどうすればそれを好きになるのか」を考える「自分探し大好き人間」の特質と、決して相性は悪くないだろう。

 

(一方で、個人より所属集団を優先する(5)~(7)に関してはまったく当てはまらないと思う。僕も(5)から(7)の項目については興味がない。)

 

「自分探し」がしたい!という欲求は、まったくもって悪いことではないのだ。むしろ、企業で働くにあたって「自分とはなんだろう?」と考えることの好きな人間は、自分だけの力では経験できなかった環境をプラスに変えて、さらなる自分の強みを発見していける可能性を秘めているのだ。

 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

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ここまで「企業で働き続けることは自分探しと決して矛盾しない」ということについて書いてきた。それをもう少しだけ、一般化してみたい。

 

キルケゴールの『死に至る病』の冒頭部分では、「自己とは何なのか」ということについて書かれている。

 

人間は精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?

 

自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

 

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

 

キルケゴール死に至る病』p.20)

 

これだけ読むと意味がわからないが、要するにキルケゴールはこういうことを言っている。「人間は、優しい面、冷たい面、恐ろしい面、さまざまな面を持ち合わせている。それらが統合されて(=関係して)1人の人間になっている。しかし、さまざまな面が関係し合うだけでは自己は存在しない。その人間に自己自身が『自分とは何者か?』と問いかけ、関係して初めて、自己は存在するのだ」。

 

結局、海外に長期滞在するのも、会社に所属して働くのも、「自分探し」という点では何も変わらない。出会ったものを内面深くまで取り込み、自分はどう感じるのか、どう考えるのかについて掘り下げてゆく。「自分とは何者か?」と問うのは、どこでだってできる。

 

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

 

 

「自分探しインスパイア系小説」の代表作としてよく名前の挙がる、沢木耕太郎氏の『深夜特急』は、決して「新しい理想の自分」を探しながら異国を巡った青年の冒険譚ではない。むしろ、旅先で生じた無数の(特別ではなく日常の、ハレではなくケの日の)出来事について、自らがどう考えるのかを自問し続けた哲学書なのだ。

 

舞台はどこだっていいのだ。キルケゴールの言う「関係が自己自身に関係するというそのこと」、「自分とは何者か?」と問いかけ続けるあの厄介だが愛すべき胸の中の声さえあれば、「自分探し」は可能になるのだ。

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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「本当の自分はこうではないはずだ」と今の環境を否定し、こことは別の場所に出かけていくのではなく、あらゆる環境を(遠い異国も通いなれたオフィスもすべて)自分という未知の物質Xを特定するためのフラスコと捉え、「自分にはこういった側面もあるんだな」と日々知見を重ねてゆく。

 

僕はそんな「永遠の自分探し人間」としてしか生きていけないだろうし、また、生きていきたいとも思う。

 


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