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インドア派が海外に行って思ったこと

海外 前のブログの記事 アウトサイダー 自分のこと

僕の海外インターンが、少しずつ終わりに近付いている。

8月8日にインドを出国し、その日に関空に着く予定だから、ちょうどあと1カ月。

そして、日本に帰ったら、3年生の後期から大学に復学。大学時代という長いモラトリアムのそのまた中休み、休学期間が終わる。

卒業研究を含めた大学での勉強、就職活動などなど、やるべきことがたくさんある一方で、やりたいこともまたたくさんある。

大学時代、最後まで自分の好きなことをやって終わりたい。

 

この10カ月の間、インドという国で強烈な体験をした。

着いて早々、いかつい髭面のインド人しかいないアパートにぶち込まれて半泣きになった。そんな気の毒な東洋人を見かねてルームメイトが注文してくれたベジカレーの味は忘れられない。しかし、このアパートにはもう二度と住みたくない。ラップトップパソコンを開くと時々ゴキブリが飛び出してくるし、トイレに入ると便器でネズミが溺れているからだ。あと壁がぼろぼろ崩れ落ちてくるからアスベストなんちゃらも怖い。ルームメイトは全員ジム通いが趣味で上腕二頭筋が気持ち悪いことになっていて、一度腕相撲をさせられたけど、花山薫みたいな生命体に勝てるはずもなく、僕はあえなくマットに沈んだ。

風邪だかなんだかよくわからない病気にかかった時には、ルームメイトが町の医者に連れて行ってくれた。医者は僕の脈を診るなり、ズボンを脱げと言った。その診察室は待合室から丸見えで(医院自体が掘っ立て小屋みたいなもんだった)、僕はインドの片隅でストリップを強いられながら、ケツに注射を打たれたのだった。そして2日後、ルームメイトが「医者はもう注射しないって言ってるから」と言うのでもう一度医者に行き、もう一度ケツを犯されたのであった。

同僚と屋台でご飯を食べると、どぎついオレンジ色をしたリンゴジュースや悪名高いラッシーを食後に勧められる(リンゴジュースをオレンジ色で染める美的感覚は僕には理解不能である)。彼らいわく「飲むとお腹に良い」らしいが、僕そしてインドに来る平均的日本人はそのような飲料を飲むとお腹に大ダメージだと知っているから、いかにもな日本人的微笑でかわそうとする。だが日本人的微笑はインドではまったく効かないので、最終的には飲まされることになる。ラッシーが大好物になってしまった今となっては、あれもこれも必死で口に入れまいとがんばっていたあの頃は懐かしい思い出である。

電車に乗る時には降りてくるインド人たちの猛攻に耐え自分の近くのインド人とスクラムを組み一致団結しながら電車内に倒れ込まなければならないし、バスはバス停を通過するだけで一向に停車しないからつねに並走しながら飛び乗るアクロバティックさが必要だし、リキシャのおっさんは商売する気がないのかだいたい乗車拒否しやがるし、車は道路を逆走するしバイクは4人の人間を乗せて走ってるしもうヤバい。

幸いにも大きな病気にかからず、下痢で死にかけるということもなく、そこそこ平穏な暮らしを送れた。それはひとえに、運が良かったのだと思っている。

 

インドア派が海外に行き、こんなふうな生活を送りながら思ったこと。それは、「僕は海外でも、インドア派でいいのだ」という、シンプルなメッセージだった。

 

人が興味を持つことは、その人によってまるっきり違う。

「海外へ行け」と、人は言う。ある人は、海外に行って貧困や貧困が引き起こす様々な問題を体感し、解決策を考えろと言う。ある人は、発展途上国の人たちの輝く瞳に、自分ははたしてこんな目をして生きてきたかと自問しろと言う。ある人は、沈みゆく日本という船を脱出し新天地で生きていくため、新しいビジネスのヒントを見つけろと言う。

だけど、海外に行くからと言って、そこで何か「すごいこと」「変わったこと」を成し遂げる必要はない。

僕が日本にいた時、いつも違和感を感じていたのは、「海外に行く」=「何かすごいことをしなきゃいけない」という、強迫観念にも似た考え方だった。

僕のいるインド・ムンバイは、『スラムドッグ$ミリオネア』という有名な映画の舞台となった地である。この作品の主人公が生まれ育ったDharaviという世界最大のスラムに、僕は行ってみたことがある。

黒光りする身体の男たちが一生懸命プラスチックを砕き溶かし型にはめ、子どもたちはゴミだらけの公園で棒きれ一つでクリケットに興じていた。人一人がやっと通れるようなドブの匂いのする裏道を抜けていくと、女たちがチャパティを焼き、洗濯をし、談笑していた。通りを歩いていると誰もが僕を興味津々に見つめ、あまつさえニイハオと言ってくるヤツもいるので、「俺は中国人じゃない、日本人だ」とヒンディーで返してやると、彼らは仲間同士顔を見合わせて笑い、それから僕の肩を叩いてくるのだった。

人間の熱気を感じた。すごいと思った。そこかしこに人間がいて、生きていた。

彼らは、日本人的な基準からすると貧しい生活を送っているかもしれない。だけど僕は、別に彼らを救いたいとかまったく思わなかった。単純に、こんな世界があったんだって思って、とても興味深かった。

同じ風景を見て、嫌な気持ちになる人もいるかもしれない。栄養面からも衛生面からも、良好とは言えない場所だ。なんとか、ここで暮らす人たちをもっと良い暮らしができるようにしてあげたい。そう思って、行動を起こす人もいるだろう。

Dharaviの光景は強烈だった。しかし、それであっても、なお人に及ぼす影響というのは異なるのだ。

 

僕に向かって「お前はもっと問題意識を持たなければいけない」と言う人がいるかもしれない。同じ地球上に生きる人間として、存在する格差に目を背けるのではなく、解決に向かって努力せよ、と。

このような意見は、世間では立派だと見なされる。世の中をよりよくしようと何らかの行動を起こしている人間は立派であり、何もしない人間は怠惰である。

「日本を、世界をよりよくするため、動いていこうよ!」というメッセージは無条件に善きものと見なされ、それに石を投げることなど許されない、ように見える。

 

ここで、素直な気持ちで自分自身に問いかけてみよう。

 

あなたは、世界を変えたいですか?

僕の答えは、「ノー」である。

 

「世界を変えよう」というメッセージは、実はそれ自体、善でも悪でもない。

それは、誰かがあくまで個人的に抱いた、「自分は現在の世界のこの部分に違和感を感じる。この部分をこう変えたら、自分にとってもっと気持ち良い世界ができる」という気持ちに過ぎない。

「貧困問題を解決したい」という夢を持っている人たちとじっくり話してみたら、それは世界を変えたいというより、「自分にとって、同じ地球上に住んでいる人間が、自分と同じ恵まれた環境で生きていないのが、なんとなく気持ち悪くて、その気持ち悪さを解消したい」というごく個人的な動機に基づいていた、という場合がしばしばある。

ビートルズは、ロックを変えたかったわけじゃない。ただ、音楽的に奇妙だとされるそのコードがどうしようもなく気持ちよくて、そう歌いたかっただけだ。

僕は、「世界を変えたい」と言うメッセージを発信している人が、自分の内面から湧いてくる非常に個人的な動機に気付いていない限り、その気持ちは偽物だと思っている。究極的には、何かをやる動機は、そうすると自分が気持ち良いからなのだ。利他的なテーマを抱えていようとも、その実は利己的なのだ。

そう考えると、誰かに明らかな迷惑をかけるようなものでない限り、すべての人の生き方は、対等であるとも思う。勝ち負けも、意識がうんたらかんたらもなく、ただそれをやることがその人にとって価値があるから、やっている。

自分が興味を持つものより、他人が興味を持つものの方がランクが高いとか、そんなことはありえないのだ。

だからこそ、自分が興味を持ったもの、これをやろうと思ったことを、大切にしなきゃいけないと思う。

誰もが自分の好きなように生きてる。その結果、Up or Out(昇進かクビか)という社風の企業に入って生き馬の目を抜くような競争に勝ち残る人もいれば、夫婦いつまでもとっても仲の良い、幸せな家庭を築く人もいる。学問の世界で第一人者となる人も、好きなギターを趣味として一生弾き続ける人も、いるだろう。上で書いたような、「世界を変える」人もいるだろう。

そこに優劣は、一切ない。

いや、唯一優劣をつけられる尺度がある。それは、「あなたは、『興味がある、おもしろいと思える、それに注力したら個人的に幸せになれる』ようなことを、やっていますか?」という質問に対する答えだ。

たとえば勝ち負けという言葉を気にして勝ち組と呼ばれる大企業に入った人は、正直に言って、大いに負けていると思う。今からでも、人生を考え直すべきじゃないだろうか。たぶんそんな人は、こんなブログは読んでいないんだろうけど。

 

人生のどこかで、人と自分を比べて物事を測る相対評価から、自分が良いと思えばそれで良いんだっていう絶対評価に切り替えろ。

「海外を飛び回り、世界一周をやっている人たちは、僕にはわからないおもしろさをそこに見出しているんだろう。自分のわからないおもしろさを理解していることそれ自体は、素直にすごいと思う。だけど、僕がそれをおもしろいと思う必要はない。」僕が海外に来てみて、あらためて海外好きな人に対して思ったことである。

それは、決して他人の生き方をdisるということではない。むしろ、他人にも自分と同じように、本当に大切にしているものがあるということを理解することだ。共感はしなくていい。そういう生き方もあると受け入れる。それを拍手喝采する必要はない。

自分は自分で、それで素晴らしいのだ。それがアイデンティティといわれるものの正体だ。

世間からこうやれこうしろと押し付けられるラベルを投げ捨てて、自分が気持ち良いと思えることを、それだけをやっていけばいい。

 

じゃあ、別に海外に行かなくてもいいやん?インドア派やから、文字通り家に引きこもって好きなことしてたらいいやん?

その反論に対しては、ごく個人的な価値観を以て答えることになる。

 

僕が「海外に行きたい」と思ったのは、自分がもともと「世の中にとって役に立たないもの」が好きだからだろうなぁと思う。

お金を稼ぐためには、自分が何らかの価値を生み出さなければならない。その価値は多くの場合、衣・食・住といった人間が生きる上で必ず生じてくる問題を満たすものであったり、世の中のシステムをより早く正確に回すことだったり、誰かができないことを代わりにやることだったりして生み出される。いわゆる実学である。

そういうことに興味がある人は、何もわざわざ海外に行って自分の生存できる範囲を広げなくても、自分のやりたいことを究めたら、それが価値を生み出してくれる。

僕は残念ながら、そうではなかった。そして、じゃあ理学部という自分の興味をとことん追求していく環境で研究者になる、という選択肢も取れなかった。どっちにも振り切れない、臆病者である。

臆病者なりに、自分の好きなことをずっとやり続けるためにはどうすればいいのか考えた結果が、海外行きという選択だったのだと、今となっては思う。

 

僕はこれからも、自分の好きなことをして生きていきたい。大きなことを成し遂げたり、変革を起こしたりするより、この世界のあるがままのおもしろさを肯定するような、そんな生き方がしたい。いつまでもおもしろい本や漫画を読んだり、音楽を聴いたり演奏したり、バーに行って好きなお酒を飲みながら人とじっくり話したりしたい。

僕の友人は、「一隅を照らす生き方」と言っていた。世の中を大きく変えるのではなく、差せる傘の大きさの限りで、自分の大切なものが雨に濡れてしまわないように守っていきたい。

しかし、僕たちが生きているこの世界は、僕たちが好き嫌いをまっとうしているだけでは、好きなことができなくなってしまうような厳しい環境である。友人の狩人が獲ってきた獲物を、嫌いだからと言って食べるのを拒んでいては、飢えで死んでしまうような世界である。

明らかにこれから人口が減り、労働力が減り、そんな日本の不利な条件などおかまいなしに激化するグローバル化の中で、僕らは生きていかなければならない。

だから、せめて自由に動けるような力を、自分で好きなものを狩れるくらいの力を、身に付けておくべきではないだろうか。

インドに来て僕が思ったのは、この国ではビジネスチャンスがそこらへんに転がっているということ、英語さえできればある程度食べていけること、日本の公共交通機関の時間の正確さや街の清潔さは、世界的に見て異常だと言える部類であり、人はもっと汚くタフな環境でも生きていけるということ―。

自分が気持ち良いと思えることをやるために、自分が最低限生き延びられるような力を身に付けろ。極端な話、観光に一切興味がなくても良いのだ。海外好きでなくても、海外に行き、狩りができる程度の力を身に付けるべきだ。

 

一生涯を賭けて僕はこれを成し遂げるなんて、とても言い切れない。

それで良いと、僕は思う。昔は「何か一つこだわりがなきゃダメだ」って思ってたけど、そういうこだわりは理屈なく自分の内面から湧いてくるものだ。心で全然納得できていない大そうな夢をでっちあげるより、素直に「今はこれがやりたいけど、やりたいことは変わるかもしれないです」って言えばいいと思う。

世の中の役に立つことを究めることも、世の中の役に立たないことを究めることもできず、冷たく(と僕は感じている。学者志望の学生が就活に勤しむ学生を見て蔑むように。逆もまた然り。)断絶された両者の間になんとかして橋を架け、どちらの世界にも自由に顔を突っ込めるような人間。

僕はそんな人間になりたい。

海外に来て、少しは「役に立つこと」を学んで、だけど大きく世界を変えることには依然として興味を持てなくて。それ以上でも、それ以下でもない。

それが自分だ。

それでいいのだ。


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