人類が「やりたいこと」を検索エンジンに問いかける時代の、幸せな生き方について。

※この記事は、とあるメディアの公募賞に応募して落選となった文章を、一部加筆修正したものです。

 

 

 

「やりたいこと」という言葉が、人類を苦しめるようになって久しい。

 

 

 

筆者はとある広告会社に勤務するサラリーマンであり、年に数十名のOB訪問を受ける立場にあるのだが、いわゆる「志望動機」が見当たらずに悩んでいる学生は非常に多い。あくまで体感だが、就活生の二人に一人は、志望動機に関する悩みを抱いているのではないだろうか。

 

現代の就職活動の選考において、学生が企業側からよく問われる項目は以下の三つである。

 

  • 学生時代に力を入れたこと(いわゆる「ガクチカ」)
  • 自分がどんな人間なのかを語る「自己PR」
  • 就職後にどんな将来を思い描いているのかを語る「志望動機」

 

過去・現在・未来に対応するこれらの問いは、就職活動の「三種の神器」とも呼ばれている。エントリーシートや面接で必ず問われることになる「志望動機」が見つからないというのは、学生からすると無視できない事態であると言えるだろう。

 

彼らの苦悩は、Googleの検索トレンドにも現れている。毎年、就職活動のシーズンとなる春から夏の季節にかけて、Google検索エンジンに打ち込まれる「やりたいこと」というキーワードのボリュームは跳ね上がり、明確な波形を作りだしている(下図参照)。

 

f:id:qnulp:20190723231230p:plain

「やりたいこと」のGoogle検索量の推移

 

この現象は、志望動機を語る自信のない学生たちが「やりたいこと」の正解を見出そうと、選考前の最後の悪あがきで、検索エンジンに救いを求めた結果であると考えられる。

 

 

 

個々人にとっての「やりたいこと」が存在するという強い前提のもとで、企業は採用面接を行い、学生はその対策に四苦八苦している。

 

この構図を眺めるうちに、一つの疑問が浮かび上がってくる。それは、「やりたいこと」なる代物は、本来は存在しない幻想なのではないか、という疑問である。

 

 

 

私は大学時代、自分の「やりたいこと」を見出そうとありとあらゆる「自分探し」にトライして、結果として「やりたいこと」を見つけることができなかった、という経験をしている。

 

「自分探し」とは、例えば下記のようなものだ。

 

  • 生物学者を志し、ノーベル賞受賞者を多く輩出する京都大学に入学、1年生の頃から自主的な勉強を行う→周囲の学生の情熱や能力に圧倒され、早々に学者の道を諦める
  • キューバダイビングのインストラクターを志し、沖縄県にある離島のダイビングショップで半月間の泊まり込みのアルバイトを行う→インストラクターを仕事にしたいと思えるほどの感動を味わうことはできず、夢に飽きる
  • 起業家を志し、ベンチャー企業で1年間の新規事業開発に携わる→オフィスに置ける石の鉢植えを考案し、オフィス街で飛び込み営業を行うもののほぼゼロ成果となり、自分がビジネス創出に向いていないことを悟る
  • 京大にありがちな「変人」になりたいと願い、学祭でドクターフィッシュ入りの足湯の出店を考案する→衛生上の理由からドクターフィッシュの持ち込みは禁止され、結果的に4日間で3人しか客が入らずに学生としては致命的な赤字を被った
  • 経営コンサルタントを志し、3年夏のインターン選考でコンサルティングファームを受ける→面接で軒並み不合格となり、頭脳の出来がコンサル仕様でないことを痛感する
  • インフルエンサーを志し、仲間を集めてインターネット上にウェブサイトを作る→半年で各コンテンツの更新が止まり、人を動かすには信念が薄弱であることを知る
  • 「とにかく何者かになりたい」と願い、極限の体験をすればやりたいことがわかるかもしれないと思い、インド・ムンバイのスラム再開発地域でインド人8人とルームシェアをしながら1年間の不動産営業のインターンを行う→やりたいことはついにわからなかった

 

書き出してみると滑稽だが、誰にでもこうした夢を見る時代というのはあるように思う。重要なのは、これだけ様々なことに取り組んだにも関わらず、私は「やりたいこと」を見つけることができなかったという点だ。

 

私たちホモ・サピエンスの脳は20万年前から進化していないと言われている。当時、目の前のマンモスを狩り、雨が降れば洞窟を探し、他の個体との交尾に明け暮れていた祖先たちは、「イマココ」に関心こそ払えど、将来について考えることなどほとんど無かったのではないか。仮にそういった個体がいたとしても、それはごくわずかな、集団における「バグ」のようなものではなかったか。であるならば、現代を生きる私たちが「やりたいこと」を見つけられなくても、それは責められるべきことではなく、むしろ当然の帰結なのではないだろうか。就職活動で「やりたいこと」を問うことは、実のところヒトの本性に逆行する行為なのだ。

 

 

 

さて、「やりたいこと」が万人にとっての必然ではないことが明らかになった時、私たちはどう生きればよいのだろうか?

 

「やりたいこと」という個人の羅針盤を失い、さりとて昔のような「男性は労働し女性は家庭を守る」という保守的な価値観にいまさら回帰もできないとなると、現代人は途方に暮れてしまうかもしれない。

 

そこで私は「企業を自分探しの装置として捉える」生き方を推奨したい。

 

 

 

自分という人間のなかに、進むべき方向性など無い。であるならば、それを世界に、他者に決めてしまってもらおう。ひたすら目の前の機会に挑戦していくことで、自分がどの機会に対して高い付加価値を出せるのかを比べてみよう。そのための装置として、企業はぴったりなのだ。なぜなら、企業というものは、バイアスなくランダムに被雇用者に機会を提供するものだからである。

 

例えば、私は広告会社に新卒で入った後、メディアのバイイング部隊への配属となり、テレビを担当することになった。トラディショナルな風土の色濃く残るメディアのバイイングは、私が広告会社に入る上でもっともやりたくなかった仕事だった。だが、仕事に取り組んでいくうちに、私の行いのなかで二つのことが他者から求められていると感じるようになったのだ。それは「話すこと」と「書くこと」である。

 

「話すこと」というのは、私が人から二人で話したいと思われやすい人間であるということだ。テレビ局担当時代、取引において必ずトラブルの生じてしまうテレビ局があった。そのテレビ局の営業の方は業界の大先輩であり、特定の広告会社の担当者のみと蜜月関係を築いていて、他の担当者は冷たくあしらうような方だった。私は何度か二人で飲みに行って仲良くなり、スムーズなビジネスに繋げたのである。どんな話をして仲良くなったかについては、 下記の記事を参照されたい。これまで300人以上とさし飲みをしたなかで感じた、人と仲良くなるための方法が書かれている。ちなみに、2019年7月23日現在、Google検索で「深い話」のSEO1位になっている。

 

careersupli.jp

 

「書くこと」というのは、何かを書いてくれと頼まれることが多いということだ。テレビ局担当時代、仕事について自分のブログに書き殴った記事が、ある日いきなりバズりだした(下記参照)。この文章は主にFacebookをハブにして社内外であまねく読まれ、そのうち同僚から文章を書いてほしいと言われるようになった。上で挙げた「深い話」の文章も、そうやって頼まれたうちの一つだ。とある先輩から「このメディアでライターやってみてよ」と言われ、特にこだわりもなく引き受けた結果、こうした記事を書くに至ったのだ。

 

2blost.hatenablog.jp

 

上記の二つの結果は、テレビ局担当という機会を強制的に会社から与えられたために生じたものである。仮に私が「やりたいこと」を重視して生きていたとしたら、テレビ局担当なんて仕事はまっぴらだと言ってさっさと辞めてしまっていただろう。だが、私は自分が「やりたいこと」など見つけられないことを知っていた。だからこそ、自分の好き嫌いを度外視して会社が与えた機会に没頭し、結果として自分の需要を捉えることができたのだ。

 

 

 

企業という装置を使って自分の需要を発見していく上で、必要となる資質が一つだけある。それは、自分に絶望していることだ。学生時代に「やりたいことなど見つからない」と確信しているからこそ、会社が与えてくる機会に対して、躊躇なく挑戦することができる。

 

「これは私向きじゃない」という余計なこだわりを捨てるためには、徹底的に自分探しをすることだ。大学時代の私が気になったものにとことん手を出し続けたように、自分探しをやりまくって、自分にはやりたいことなど見つからないという諦めの境地に至ることだ。もし、その過程でやりたいことが見つかれば、それはそれで素晴らしい結果になる。自分探しをやって損をすることは何一つ無いのだ。

 

 

 

ここまでで、「企業を自分探しのための装置として使う」という生き方を提唱してきた。以下ではそれに関連して、被雇用者、企業、そして社会に対し、それぞれ提言を行いたい。

 

 

 

まず被雇用者に対しては、「自分探しのための装置」に適している企業の特徴を挙げておこう。

 

  1. 異動や配置転換の頻度が高い
  2. 一人あたりの担務領域が広い
  3. 社員数が多く、幅広い価値観に晒される
  4. 性別や年齢によって発言が制限されることがない

 

①②③の特徴を持つ企業では、総じて被雇用者に降ってくる機会の数が多いと考えられる。④については、自分の存在を周囲に発信できる環境であるため、①②③の効力を高めてくれる。

 

 

 

次に、企業側に対して。

 

企業は、就職活動の選考で志望動機を聞くのを止めるべきだ。多くの学生が企業の求める「やりたいこと」を提出しようと、ありもしない情熱を自分の内に求めて苦しんでいる。そして結局、入社してしまえば、学生が面接で語った「やりたいこと」は反故にされ、まるで希望とは別の部署に配属されたりする。『就活エリートの迷走』という本に書かれている、就職活動の大いなるジレンマだ。百歩譲って、志望動機を語らせるとしても、それはロジカルにものを考えられるかとか、志望業界のことをよく調べているかとかのチェックに過ぎないことを、面接の段階で学生に伝えてあげるべきだ。

 

個人的には、自分に絶望していて、目の前のことに取り組む覚悟を持っている人間は、仕事で成功する可能性が高いと思う。なぜならそれは、自己を客観視できるメタ認知能力と、最後までやり抜くグリッドという、相反しやすい二つの力のハイブリッドという存在になるためだ。面接では、「やりたいこと」を語らせるよりも、「自分に絶望していますか」と聞いた方がよいのではないだろうか。

 

 

 

最後に、社会に向けて。

 

企業と被雇用者という関係を第三者的な視点から眺めた時に考えなければならないのは、前者が後者に対して強制力を行使しすぎないよう、安全弁を付ける必要があるということだ。私としては、昨今の「働き方改革」は、こうした部分にこそ寄与すべきものだと思う。企業を自分探しのための装置として使うかどうかは被雇用者の自由であり、決して企業側がその姿勢を強いてよいものではない。長時間労働やハラスメントなどは、被雇用者にとっての新しい機会になるのかもしれないが、それで個人が不当に傷つけられてはならない。あくまで被雇用者が安心して就業するなかで、新たな機会に遭遇していかねばならないのだ。

 

例えば、労働組合は、もはや現代において存在意義を失いつつあると言われているが、企業という装置のなかで自分探しを楽しむ被雇用者、という新たな関係が生じた時に、その関係が安全に保たれるよう、各種の規則を整備していく役割があると思う。

 

 

 

やりたいことなど、普通の人には見つからない。ソーシャルメディア上では誰も彼もが「夢」に向かってきらきらと輝いているように見えるけれども、そんなものは幻想である。そんな時こそ、自分はやりたいことなど持たない凡庸な人間であるという諦観を抱えながら、企業という旧時代の装置のなかで、自分探しを楽しんでみてはどうだろうか。

 

人生は暇つぶしだ。太古の人類には生存の危機が絶えず迫り、「やりたいこと」を考えている暇は無かったであろう。時代は下って、終身雇用に守られた会社員人生においては、「やりたいこと」を自問する必要は無かっただろう。猫も杓子も「やりたいこと」を考えている現代は、終身雇用制度が崩壊し、自由に生きていいよと言われて右往左往している人類が、最後に「やりたいこと」という幻想にすがらざるをえなくなっている状況を示している。

 

もう一度ヒトの本性に立ち返り、語りえないはずの「やりたいこと」の代わりに、目の前に没頭する「自分探し」を人生の楽しみに置いて、生きていこうではないか。