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思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。

ものごころついた時には部屋中に本がうず高く積まれていたという環境もあって、僕は昔からたくさんの活字に親しみながら生活してきた。

 

人生の時々で読んできた小説には、当時の記憶がしおりのように挟み込まれ、ページを開くといつでもその頃にタイムスリップできる。

 

今日は、僕にとってかけがえのないそんな小説を10冊、紹介しようと思う。

 

この小説たちが、別の誰かにとっての「戻ってきたくなる場所」になればいいなと思っている。 

 

 

 

 

 

第10位

 

僕は勉強ができない

 

山田詠美

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

率直に言って、僕はこの主人公に共感はしない。どうあがいても、高校時代の僕はこんなに自分の考えに素直に従える人間ではなかったからだ。

 

ただ、この作品が良いなと思うのは、そこに登場する人間たちが、とても正直にものを語るからだ。

 

特に好きなのは、いわゆる「ぶりっ子」なクラスのマドンナに告白されるも、「自分のこと可愛いって思ってるでしょ」と主人公が容赦なく切り返したところ、思わぬ反撃を食らうシーン。

 

「山野さん、自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。自分を好きじゃない人なんている訳ないと思っているでしょう。でも、それを口に出したら恰好悪いから黙ってる。(中略)だけど、ぼくは、そうじゃない。きみは、自分を、自然に振る舞うのに何故か、人を引き付けてしまう、そういう位置に置こうとしてるけど、ぼくは、心ならずも、という難しい演技をしてるふうにしか見えないんだよ」(p. 151)

 

「何よ、あんただって、私と一緒じゃない。自然体っていう演技してるわよ。本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持ってるって思ってるくせに。優越感をいっぱい抱えてるくせに、ぼんやりしてる振りをして。(中略)私は、人に愛される自分てのが好みなのよ。そういう演技を追求するのが大好きなの。中途半端に自由ぶってんじゃないわよ」(p. 152)

 

高校生でこんな応酬ができるヤツはそうはいない。人からよく見られたい、とか、自分はあいつより優れている、とかの、人間の本質的な部分が凝縮されたシーンだ。

 

(読者諸子にはどうでもいいと思うが、可愛い女の子がこんなにあからさまに自分のことを語ってくれたら、僕はそれだけで惚れてしまうだろう。どうでもいいが。)

 

 

 

第9位

 

限りなく透明に近いブルー

 

村上龍

 

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

初めて読んだ時にあまりにも性描写があけすけで、驚きながらも興奮してしまった小説。僕がアナルセックスという単語を知ったのはこの小説からではなかったか。

 

当時中学1年生のありあまる性欲を『いちご100%』とこの小説にぶつける日々の中で、「はて、著者はどうしてこんなにも過激なセックス描写をしているのだろうか」と、賢者タイム中に考えてみたことがあった。

 

その頃はわからなかったけれど(なにしろ賢者タイムが短いし…)、大学生になってサイケデリック・ロックやヒッピー文化に興味を持ってから、なんとなくその理由がわかってきた。

 

主人公は、自分を冷徹に見つめる「視点」から、逃れたかったんだと思う。

 

ドラッグやセックス、ロックンロールといった代物は、自分を一時的に陶酔させてくれる。自分って何者なんだとか将来どうするんだとか、そういっためんどくさいことを考えなくてもいい状態にしてくれる。

 

だが、どれだけそういった「劇薬」に手を染めても、主人公は冷徹な「視点」から、逃れることができなかった―。読み手の気分が悪くなるほど細かく徹底した情景描写は、それを暗示しているのだ。

 

 

 

第8位

 

夜は短し歩けよ乙女

 

森見登美彦

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

読んでいてニヤニヤしてしまう小説、というものがある。電車で読むにはすこぶる向いていないが、面白いので読み進めずにはいられず、またニヤニヤしてしまう。

 

『夜は短し歩けよ乙女』は、僕にとってそんな作品だ。自分が学生時代を過ごした京都の街や大学がこれでもかと出てきて、その情景がすべてありありと思い浮かぶものだから、これはもうたまらない。木屋町先斗町糺の森京都大学吉田南キャンパス…。地名を書くだけでノスタル死しそうだ。

 

森見氏の『太陽の塔』や『恋文の技術』は、ややもすると主人公のヘタレぶりが鼻につきすぎてうっとおしいかもしれないが、 『夜は短し歩けよ乙女』では、そのファンタジー要素とノスタルジックな描写によって、主人公の童貞臭さがマイルドに抑えられている。

 

そういえばどこかで「『夜は短し~』のヒロインは京大生の思い描く理想の女の子だ」とかいう文章を読んだことがあるのだけど…。

 

その通りです、と言っておこう。

 

 

 

第7位

 

グレート・ギャツビー

 

スコット・フィッツジェラルド

 

グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー

 

 

莫大な金をつぎ込んで夜な夜なパーティーを開き、蝶が花に集まるように意中の女性・デイジーが自分のもとに飛び込んでくるのを待っていたギャツビー。そのやり方はなんとも非効率的だ。デイジーと再会してからも、彼はおよそスマートとは言い難いアプローチで彼女に迫る。そして…悲しい事件が起こる。

 

純粋で不器用で、いつも遠いところにある「灯」を追い求めていたギャツビー。完璧なお金持ちのゴージャスな求愛の物語ではなく、あちこち欠けた部分のあるギャツビーという生身の人間の物語だからこそ、この作品は僕たちの胸をうつ。そして、そんな「純粋さ」をかつては自分も抱いていたことを回想するような、主人公ニックの語り。

 

1974年の映画版も観たのだが、とてもよかった。特にヒロイン役のミア・ファローがドンピシャだと思う。外国の映画に「物悲しさ」を感じることはあっても「儚さ」を感じることはそうないが、この映画にはそれがあると思った。話題になった2013年の作品もぜひ観てみたい。

 

 

 

第6位

 

ライ麦畑でつかまえて

 

J.D.サリンジャー

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

世の中や恵まれた人間に対しては斜に構えてあれこれ難癖をつけるホールデン少年の姿は、かつての頭でっかちでうじうじ悩んでいた自分自身を思い起こさせる。

 

主人公のとりとめのない独白が続くため「最後まで読めない!」という声を聞くことも多いこの小説。共感できないのであれば、それはそれでいいと思う。自分にそこまでコンプレックスが無く、世の中に対して不満の無い人であれば、この小説に「救われる」ということはあまりないかもしれない。

 

ただ、僕自身は「ライ麦畑から転がり落ちる前に」この小説にとっつかまえてもらった一人である。

 

ホールデン少年は、通俗的なあれやこれやを嫌悪しているけれど、そのかわり弱いものや醜いものに対しては人一倍優しい。そんな彼の、今でも僕の心に残っている言葉をいくつか紹介したい。

 

アーニーってのは、ピアノを弾く、大きな太った黒人だけど、すごく気どってやがって、一流人か名士なんかでなきゃ口もきかないんだけど、ピアノはほんものなんだ。(中略)彼の演奏を聞くのは、僕はたしかに好きなんだけど、でもときどき、あいつのピアノをひっくりかえしてやりたくなることがあるんだよ。それはたぶん、あいつの演奏を聞いてると、一流人でなければ話しかけようとしない男っていう、そんな感じがにおうからじゃないかと思う。(p.127)

 

 会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。(p.137)

 

仮に人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ。(p.268)

 

 

 

第5位

 

悲しみよ こんにちは

 

フランソワーズ・サガン

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

元々は、映画『ジョゼと虎と魚たち』を観て、この「ジョゼ」という名前の元ネタになった小説を読んでみたいと思い、サガンの『1年ののち』を手に取った。それがとても良かったので、それではと思いデビュー作の『悲しみよ こんにちは』を読んでみたところ、凄まじい作品だった。

 

大好きな父親を新たな結婚相手から取り戻すべく、自分のボーイフレンドや父の昔の愛人のコンプレックスや恋愛感情をことごとく利用して人々を翻弄するも、最後には「かなしみ」しか残らない少女の、透明で残酷な物語。

 

少年少女というと、どうしても純なる存在、穢れなき精神の象徴とされることが多いけれども、ほんとのところは、子どもはずるいし、汚いし、悪意に満ちた振る舞いをするものなのだ。人が何をしたら嫌がるのかよく知っていて、あたかも無邪気を装って他人の弱く柔らかい部分に土足で踏み込んでいく。

 

僕もそんなふうに人から傷つけられたし、傷つけていた。はずなんだけど、傷つけられた経験ばかり覚えていて傷つけた経験は思い出すことができない。無理に加害者になろうとしているわけではないのだけど、間違いなく、僕も他人に立ち入って不快な思いをさせたことはあったはずなのだ。

 

子どもの頃いかに自分が残酷だったかを、この小説は読む人に思い出させる。自分の過ちによって初めて「かなしみ」という感情を知った時のことを、思い知らせてくれる。

 

ヨットとかもめ、そして眩しく輝く海を思い起こさせる装丁が見事です。

 

 

 

第4位

 

夏の庭

 

湯本香樹実

 

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

 

こんな時代が自分にも確かにあったなぁと、ニヤニヤしながら、最初から最後まで一気に駆け抜けてしまう小説。

 

「幽霊が怖い」と夜中にトイレに行けなかったでぶの山下は、おじいさんとのひと夏の経験を経て、一人でトイレに行けるようになる。少年たちのささやかな成長を、僕たちは読者として目撃する。

 

一方で、僕たち読者はもう、月日は残酷だということを知ってしまっている。小学校や中学校で一緒だった友達の中で今も連絡を取り合っている人は、僕には数えるほどしかいない。おじいさんとは少ししか一緒にいられなかったけれど、この3人も、いつまでも一緒にはいられない。この夏の物語は、奇跡のようなバランスの産物であり、決して戻ってくることはないのだ。

 

そんなことに思いを馳せながら、3人がそれぞれの道に別れて進んでゆくラストシーンを読むと、涙なしではいられないのだ。

 

素敵だな、という感想しか出てこない、僕の大好きな小説の一つ。

 

 

 

第3位

 

郷愁 ペーター・カーメンツィント

 

ヘルマン・ヘッセ

 

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

 

 

1人の男の幼少期から晩年までを1冊の小説に閉じ込めた作品。報われない恋、花開く友情、そして愛…。ヘッセの代表作『車輪の下』の主人公ハンスが晩年まで生きていたなら、こんな人生を送ったかもしれない(そしてこんなふうに救われたかもしれない)と思わせる、幸せな物語。最初と最後が故郷の村の同じような描写であるというところが、読み手に「帰ってきたんだな」というノスタルジーを呼び起こす。

 

僕はヘルマン・ヘッセという作家に自分自身を発見することがある。学校の勉強では良い点を取るかもしれないけど、人との付き合いや世の中への接し方は決してスマートではなく、他者からの見え方をとても気にしながら、その裏で嫉妬や軽蔑といった暗い感情を抱えながら生きている。そんな自分だ。「なんでこんなに自分のことがわかるの」って、読みながら泣いてしまったことも数知れない。

 

ヘッセ後期の作品である『荒野のおおかみ』にも、「世の中的なもの」にどうしてもなじめず、かと言ってそこから逃れることもできない主人公が登場する。『郷愁 ペーター・カーメンツィント』でヘッセが思い描いた歳の取り方はやや空想的にすぎなかったが、『荒野のおおかみ』では主人公が自我を確立するに至るまでの葛藤ぶりが真に迫っていた。

 

このブログを読んでくれている方々には、ぜひヘッセの作品を読んでみてほしい。「読書感想文の推薦図書」というイメージは、捨ててほしい。世間的なものをどうしても諸手を挙げて受け入れることができず、それでいて突き抜けた生き方を貫くこともできない、そんな中途半端な僕には、めちゃくちゃ刺さった作家です。

 

 

 

第2位

 

スティル・ライフ

 

池澤夏樹

 

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

 

これまで読んだ中で最も透明感のある小説は何か、と言われたら、僕は迷わずこの作品を挙げるだろう。

 

先ほど書いた『限りなく透明に近いブルー』も、「僕」の微に入り細にわたった描写を通して、セックスもドラッグも彼自身を「没頭」させる劇薬になりえず、主人公は永遠に醒めきったままなのだということを読者に伝えようとしていた。それはある意味「透明な、冷徹な」物語だと言える。

 

しかし、『スティル・ライフ』の透明感は全然別の種類のものだ。一人称なのに、頭の遥か上の方から世界を眺めている誰かの視点で描かれているような、そんな透明感だ。きっとそれは、筆者が理系のバックグラウンドを持っており、理系的な「世界の運行」みたいなものをイメージとして置きながら、この作品を書いたからではないかと思う。

 

僕が一番好きなシーンは、雨崎で雪を受けるシーン。

 

雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。(p.32)

 

これほどまでに文章で映像を観させられた経験は、僕にはない。素晴らしい、の一言だ。

 

何にも刺激されることなく、癒しを求めたい時に、抜群の威力を発揮する作品。

 

 

 

第1位

 

ノルウェイの森

 

村上春樹 

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 

僕が人生で一番読み返している小説だ。ノスタルジックな大学の風景、「僕」の周りのちょっと変わった人々。それらが自分の学生時代の記憶とミックスされて、夢か現か判別しようのない、霞みがかった映像が目の前に現れてくる。それを観たいがために、僕はこの小説を読み返している気がする。

 

ノルウェイの森』はよく「村上春樹作品の中では珍しくファンタジー要素が入っていない作品」だと言われるけれど、僕がこの小説を好きなのは、別にリアリスティックな作品だからというわけではない。村上春樹の作品の中で、最も「人間」が描かれていると思うからだ。

 

中学生の頃、この本を初めて読んだ時に思ったのは、「直子も緑も変な女の子だなぁ」ということだった。メンヘラと(その時はまだメンヘラなんて単語は無かったけれども)、なんかハイテンションな女の子。そんな程度だった。

 

もちろん、その頃は女性の気持ちを深く知る機会なんてあるよしもなかった、ということもあるのだろうけれど、もっと一般的に、自分以外の「人間」に対する興味があまりなかった、ということなのだと思う。

 

だけど、年齢を重ねるにつれ、誰もがみな直子や緑のような「歪み」を持って生きているんだ、と思うようになった。

 

この小説のセックスシーンが、『限りなく透明に近いブルー』の徹底した描写とは対極の穏やかなものであるにも関わらず、読む者を心の底から欲情させるのは、そんな「歪み」を許しあい共有しあうようなセックスが、世界で一番幸せなコミュニケーションだからではないだろうか。

 

 

 

 

 

この他にも、武者小路実篤『友情』は最後まで入れようかどうか迷ったし、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、川上弘美センセイの鞄』など、最近読んでとてもよかった小説がいくつかある。それらの評価は今後の「読み返し」を経て定まってくるだろう。

 

小説は、自分を救ってくれる1つの小宇宙だ。そんな小宇宙に1つでも多く出合えることを願って、僕はまた新しい本のページをめくるだろう。