小説でも映画でもよいのだが、僕の好きなコンテンツの特徴の一つに、「人の心の歪みや偏りを存分に描いている」というものがある。
「希望はいいものだよ。多分最高のものだ」という名言を否定するつもりはないが、個人的には絶望も希望と並ぶ最高のスパイスだ。妬みや憎しみや悲しみといった、一般的にはネガティブとされている感情がきちんと描かれている作品であればあるほど、僕はその作品に「真実」を感じる(「真実味」ではなく「真実」である)。
というわけで、今日はそんな「グロい」映画の名作を5つ、挙げてみようと思う。ゾンビやバラバラ死体が出現するわかりやすい「グロさ」ではなく、僕らの身体の芯の部分を震えさせ、全身の毛穴を開かせるような、狂気じみた「グロさ」を感じさせてくれる作品たちである。
監督:溝口健二
公開:1953年
溝口健二監督は、いわゆる「日本映画の名監督」の中では断トツで好きな監督。独特のアジア的なノスタルジー、どうしても抗えない運命の不条理さ、それでも自らの矜持を持って生きていこうとする人間たちの描写が、すさまじく良い。『近松物語』『山椒大夫』『赤線地帯』など、いずれも心に残る作品だけど、「人の心のグロさを感じる」という点では『雨月物語』が一番かな。
彼の作品の特徴は、その終わり方にあるように思う。上で挙げたような作品群は、基本的にはハッピーエンドでは終わらない。さりとて、アメリカン・ニューシネマのようなドラマチックで悲劇的な結末を迎えるわけでもない。登場人物たちが、絶望の淵に立たされながらも、淡々としかし前向きに生きていく姿を映して、作品は終わるのである。その終わり方は、大嵐が過ぎ去った後の仄明るくなってきた空のような、かすかな希望を感じさせてくれる。
映画と現実の人生との違いは、映画はどこかで終わるけれども、人生は(死なない限り)続いていくということだ。その意味で、物語が終わった後も登場人物たちの行く末に思いを馳せさせられる溝口健二監督の作品は、より僕たちの人生に近いものだと言えるだろう。
監督:ロマン・ポランスキー
公開:1968年
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幸せいっぱいの新婚夫婦が子どもを授かる。だが、頼りになるはずの夫や主治医、隣人たちの不可解な行動によって、妻は精神的に追い詰められてゆく…。この作品の後、1974年版の『グレート・ギャツビー』 でヒロインのデイジー役を演じることになる、ミーア・ファローの儚げな演技がドンピシャだ。
この作品を観ていると、誰が狂っていて誰が正常なのか、だんだんわからなくなってきてしまう。どんな子どもが生まれても受け入れる母性の偉大さを、普段僕たちは賞讃しているが、それこそが実は狂気じみたことなのではないかと、この作品は警告する。
個人的な好みの話になってしまうが、この「1960年代後半~1970年代前半」のアメリカ映画が、僕は大好きだ。荒い粒子で構成された画面の向こう側で、古臭いアイビー・ファッションに身を包んだ男たちが、煙草を吸ったりウイスキーをあおったりする。アイビー・ファッションは今でもアメトラ(アメリカン・トラディショナル)などと言われて本も出ているくらいだが、僕のような「クソマジメ男」の方々には、ぜひトライしていただきたいスタイルである。
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シャイニング
公開:1980年
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キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』や『博士の異常な愛情』などは狂気の中にもユーモアを忍ばせたコメディだが、この作品は狂気そのものを描いている。時折挿入される無機的な双子と大量の血のイメージが、死ぬほど怖い。
実はまだ原作となったスティーブン・キングの原作を読んでおらず、それゆえの?ストーリーの展開について理解できない部分もたくさんあるのだけど、Wikipediaを見ると映画版と原作との間には相当の違いがあるようだ。
小説と映画の大きな違いの一つとして、「人の心の内側は、文字で描写することはできても、映像で表現することはできない」というものがあると思う。(だからこそ僕は昔、映画なんてつまらないと思っていた。)
しかし、直接的に心を表現することができないからこそ、「なぜこの登場人物はこのような行動をしたのだろうか?」と考えることが楽しくなる。人の心を描けないという映画に課された制約・条件が、むしろ映画という娯楽の価値を高めているのだ。
問題は、原作が小説であった場合、映像化する過程で言語による内面の描写が必然的に削ぎ落されるため、わけのわからない作品になってしまうことがある、という点である。
例えば『ノルウェイの森』だ。
『ノルウェイの森』は、原作の小説でも映画版でも、緑がワタナベに「あなた、今どこにいるの?」と問いかけるシーンで終わる。登場人物たちの内面を描き出せる小説においては、これでよかった。直子が死に、レイコさんは旭川に去って行った。「18から19の間を永遠に行ったり来たりしている」ワタナベだけが、自らの場所を決められずにいる。そんな逡巡を、文字でならば描写することができる。しかし、映画版だけ観るとラストシーンの意味がまるでわからない。電話の最中という、表情や動作が見えにくいシーンであることも相まって、登場人物たちの内面は「セリフ」から想像するしかない。せめてアパートでの電話シーンだけにとどまるのではなく、「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿」を、ラストシーンでは挿入するべきではなかったか…。原作に深い思い入れがあるからこそ、映画版を観た時に、僕はそう思ったのだ。
『シャイニング』においてもこれと同様に、小説から映画に落とし込む過程の中で必然的に削ぎ落されてしまう心情描写が、キューブリック監督によってフォローされていないことは十分にありえる。まあ、なにはともあれ原作を読んでみることが重要だ。『2001年宇宙の旅』は、映画版を観てさっぱりわからず、原作を読んでやっぱりわからなかった。「どうやってもわけがわからない」ことがわかるだけでも、原作にあたってみる価値はあるはずだ。
監督:ミヒャエル・ハネケ
公開:1997年
初めから終わりまで観る者に絶望しか与えない、ミヒャエル・ハネケ監督の大傑作。淡々と進行する一家心中を撮ったデビュー作『セブンス・コンチネント』が透明な絶望だとすれば、こちらはどす黒い血の色に染まった絶望と言えるだろう。
この映画がただの悪趣味な映画に終わらない理由は、僕たちがいかに暴力を快感として楽しんでいるかを自覚させられる点にある。主人公のパウルは時折カメラのこちら側に語りかけてくるが、これによって僕たちはあたかも主人公の仲間として暴力に加わっている心持ちがしてしまう。また、暴力シーンを意図的に撮影しないことで、その映像を強制的にイメージせざるをえなくなってしまう。
『贈与論』で語られているように、僕たちの人間社会は「与えること」から始まっている。「卵をください」と言ってきた隣人を助けてあげようとする親切心が、この作品のような形で踏みにじられたら、この世界は成り立たなくなってしまう。観た者にリアル『北斗の拳』のような秩序なき世界さえ想像させてしまう力を持つ、この作品が大好きです。
うなぎ
監督:今村昌平
公開:1997年
浮気真っ最中の妻をめった刺しにして殺す冒頭シーンのエログロっぷりがハンパない。男なら間違いなく勃起ものだけど、勃起しながら「オレなんでこんな血まみれのシーンで勃起してるんだろう…」と、自らの性癖を疑いたくなる。唯一心を許せる友である「うなぎ」に語りかける主人公のイカレ具合が素敵な作品。妻の浮気を許せなかった主人公が、他人の子を育てる決意をするまでに成長する、わかりやすいハッピーエンドなのがまた安心できる。
今村昌平監督はこれ以外に『豚と軍艦』しか観ていないのだけど、作品の根底を貫く「人生は喜劇だ」という哲学がイイです。同じ哲学が垣間見える園子音監督の作品が好きな方は、けっこうハマるんじゃないかな。音楽もぬるっと良い感じ。
いわゆる「ヒューマン」な名作といえば、『フォレスト・ガンプ』や『グッド・ウィル・ハンティング』などの名前が挙がると思う。もちろんそれらも素晴らしい作品だ。
しかし、希望、勇気、感動といったポジティブな心の動きだけが、"human" beingの、人間の感情だろうか?
僕はそうは思わない。
せっかく人間に生まれたのだから、美しい部分も醜い部分もひっくるめて、全部味わい尽くして死にたい。
映画というフィクションの世界では、どんな悪いことを体験したって、許されるのだから。