人類が「やりたいこと」を検索エンジンに問いかける時代の、幸せな生き方について。

※この記事は、とあるメディアの公募賞に応募して落選となった文章を、一部加筆修正したものです。

 

 

 

「やりたいこと」という言葉が、人類を苦しめるようになって久しい。

 

 

 

筆者はとある広告会社に勤務するサラリーマンであり、年に数十名のOB訪問を受ける立場にあるのだが、いわゆる「志望動機」が見当たらずに悩んでいる学生は非常に多い。あくまで体感だが、就活生の二人に一人は、志望動機に関する悩みを抱いているのではないだろうか。

 

現代の就職活動の選考において、学生が企業側からよく問われる項目は以下の三つである。

 

  • 学生時代に力を入れたこと(いわゆる「ガクチカ」)
  • 自分がどんな人間なのかを語る「自己PR」
  • 就職後にどんな将来を思い描いているのかを語る「志望動機」

 

過去・現在・未来に対応するこれらの問いは、就職活動の「三種の神器」とも呼ばれている。エントリーシートや面接で必ず問われることになる「志望動機」が見つからないというのは、学生からすると無視できない事態であると言えるだろう。

 

彼らの苦悩は、Googleの検索トレンドにも現れている。毎年、就職活動のシーズンとなる春から夏の季節にかけて、Google検索エンジンに打ち込まれる「やりたいこと」というキーワードのボリュームは跳ね上がり、明確な波形を作りだしている(下図参照)。

 

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「やりたいこと」のGoogle検索量の推移

 

この現象は、志望動機を語る自信のない学生たちが「やりたいこと」の正解を見出そうと、選考前の最後の悪あがきで、検索エンジンに救いを求めた結果であると考えられる。

 

 

 

個々人にとっての「やりたいこと」が存在するという強い前提のもとで、企業は採用面接を行い、学生はその対策に四苦八苦している。

 

この構図を眺めるうちに、一つの疑問が浮かび上がってくる。それは、「やりたいこと」なる代物は、本来は存在しない幻想なのではないか、という疑問である。

 

 

 

私は大学時代、自分の「やりたいこと」を見出そうとありとあらゆる「自分探し」にトライして、結果として「やりたいこと」を見つけることができなかった、という経験をしている。

 

「自分探し」とは、例えば下記のようなものだ。

 

  • 生物学者を志し、ノーベル賞受賞者を多く輩出する京都大学に入学、1年生の頃から自主的な勉強を行う→周囲の学生の情熱や能力に圧倒され、早々に学者の道を諦める
  • キューバダイビングのインストラクターを志し、沖縄県にある離島のダイビングショップで半月間の泊まり込みのアルバイトを行う→インストラクターを仕事にしたいと思えるほどの感動を味わうことはできず、夢に飽きる
  • 起業家を志し、ベンチャー企業で1年間の新規事業開発に携わる→オフィスに置ける石の鉢植えを考案し、オフィス街で飛び込み営業を行うもののほぼゼロ成果となり、自分がビジネス創出に向いていないことを悟る
  • 京大にありがちな「変人」になりたいと願い、学祭でドクターフィッシュ入りの足湯の出店を考案する→衛生上の理由からドクターフィッシュの持ち込みは禁止され、結果的に4日間で3人しか客が入らずに学生としては致命的な赤字を被った
  • 経営コンサルタントを志し、3年夏のインターン選考でコンサルティングファームを受ける→面接で軒並み不合格となり、頭脳の出来がコンサル仕様でないことを痛感する
  • インフルエンサーを志し、仲間を集めてインターネット上にウェブサイトを作る→半年で各コンテンツの更新が止まり、人を動かすには信念が薄弱であることを知る
  • 「とにかく何者かになりたい」と願い、極限の体験をすればやりたいことがわかるかもしれないと思い、インド・ムンバイのスラム再開発地域でインド人8人とルームシェアをしながら1年間の不動産営業のインターンを行う→やりたいことはついにわからなかった

 

書き出してみると滑稽だが、誰にでもこうした夢を見る時代というのはあるように思う。重要なのは、これだけ様々なことに取り組んだにも関わらず、私は「やりたいこと」を見つけることができなかったという点だ。

 

私たちホモ・サピエンスの脳は20万年前から進化していないと言われている。当時、目の前のマンモスを狩り、雨が降れば洞窟を探し、他の個体との交尾に明け暮れていた祖先たちは、「イマココ」に関心こそ払えど、将来について考えることなどほとんど無かったのではないか。仮にそういった個体がいたとしても、それはごくわずかな、集団における「バグ」のようなものではなかったか。であるならば、現代を生きる私たちが「やりたいこと」を見つけられなくても、それは責められるべきことではなく、むしろ当然の帰結なのではないだろうか。就職活動で「やりたいこと」を問うことは、実のところヒトの本性に逆行する行為なのだ。

 

 

 

さて、「やりたいこと」が万人にとっての必然ではないことが明らかになった時、私たちはどう生きればよいのだろうか?

 

「やりたいこと」という個人の羅針盤を失い、さりとて昔のような「男性は労働し女性は家庭を守る」という保守的な価値観にいまさら回帰もできないとなると、現代人は途方に暮れてしまうかもしれない。

 

そこで私は「企業を自分探しの装置として捉える」生き方を推奨したい。

 

 

 

自分という人間のなかに、進むべき方向性など無い。であるならば、それを世界に、他者に決めてしまってもらおう。ひたすら目の前の機会に挑戦していくことで、自分がどの機会に対して高い付加価値を出せるのかを比べてみよう。そのための装置として、企業はぴったりなのだ。なぜなら、企業というものは、バイアスなくランダムに被雇用者に機会を提供するものだからである。

 

例えば、私は広告会社に新卒で入った後、メディアのバイイング部隊への配属となり、テレビを担当することになった。トラディショナルな風土の色濃く残るメディアのバイイングは、私が広告会社に入る上でもっともやりたくなかった仕事だった。だが、仕事に取り組んでいくうちに、私の行いのなかで二つのことが他者から求められていると感じるようになったのだ。それは「話すこと」と「書くこと」である。

 

「話すこと」というのは、私が人から二人で話したいと思われやすい人間であるということだ。テレビ局担当時代、取引において必ずトラブルの生じてしまうテレビ局があった。そのテレビ局の営業の方は業界の大先輩であり、特定の広告会社の担当者のみと蜜月関係を築いていて、他の担当者は冷たくあしらうような方だった。私は何度か二人で飲みに行って仲良くなり、スムーズなビジネスに繋げたのである。どんな話をして仲良くなったかについては、 下記の記事を参照されたい。これまで300人以上とさし飲みをしたなかで感じた、人と仲良くなるための方法が書かれている。ちなみに、2019年7月23日現在、Google検索で「深い話」のSEO1位になっている。

 

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「書くこと」というのは、何かを書いてくれと頼まれることが多いということだ。テレビ局担当時代、仕事について自分のブログに書き殴った記事が、ある日いきなりバズりだした(下記参照)。この文章は主にFacebookをハブにして社内外であまねく読まれ、そのうち同僚から文章を書いてほしいと言われるようになった。上で挙げた「深い話」の文章も、そうやって頼まれたうちの一つだ。とある先輩から「このメディアでライターやってみてよ」と言われ、特にこだわりもなく引き受けた結果、こうした記事を書くに至ったのだ。

 

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上記の二つの結果は、テレビ局担当という機会を強制的に会社から与えられたために生じたものである。仮に私が「やりたいこと」を重視して生きていたとしたら、テレビ局担当なんて仕事はまっぴらだと言ってさっさと辞めてしまっていただろう。だが、私は自分が「やりたいこと」など見つけられないことを知っていた。だからこそ、自分の好き嫌いを度外視して会社が与えた機会に没頭し、結果として自分の需要を捉えることができたのだ。

 

 

 

企業という装置を使って自分の需要を発見していく上で、必要となる資質が一つだけある。それは、自分に絶望していることだ。学生時代に「やりたいことなど見つからない」と確信しているからこそ、会社が与えてくる機会に対して、躊躇なく挑戦することができる。

 

「これは私向きじゃない」という余計なこだわりを捨てるためには、徹底的に自分探しをすることだ。大学時代の私が気になったものにとことん手を出し続けたように、自分探しをやりまくって、自分にはやりたいことなど見つからないという諦めの境地に至ることだ。もし、その過程でやりたいことが見つかれば、それはそれで素晴らしい結果になる。自分探しをやって損をすることは何一つ無いのだ。

 

 

 

ここまでで、「企業を自分探しのための装置として使う」という生き方を提唱してきた。以下ではそれに関連して、被雇用者、企業、そして社会に対し、それぞれ提言を行いたい。

 

 

 

まず被雇用者に対しては、「自分探しのための装置」に適している企業の特徴を挙げておこう。

 

  1. 異動や配置転換の頻度が高い
  2. 一人あたりの担務領域が広い
  3. 社員数が多く、幅広い価値観に晒される
  4. 性別や年齢によって発言が制限されることがない

 

①②③の特徴を持つ企業では、総じて被雇用者に降ってくる機会の数が多いと考えられる。④については、自分の存在を周囲に発信できる環境であるため、①②③の効力を高めてくれる。

 

 

 

次に、企業側に対して。

 

企業は、就職活動の選考で志望動機を聞くのを止めるべきだ。多くの学生が企業の求める「やりたいこと」を提出しようと、ありもしない情熱を自分の内に求めて苦しんでいる。そして結局、入社してしまえば、学生が面接で語った「やりたいこと」は反故にされ、まるで希望とは別の部署に配属されたりする。『就活エリートの迷走』という本に書かれている、就職活動の大いなるジレンマだ。百歩譲って、志望動機を語らせるとしても、それはロジカルにものを考えられるかとか、志望業界のことをよく調べているかとかのチェックに過ぎないことを、面接の段階で学生に伝えてあげるべきだ。

 

個人的には、自分に絶望していて、目の前のことに取り組む覚悟を持っている人間は、仕事で成功する可能性が高いと思う。なぜならそれは、自己を客観視できるメタ認知能力と、最後までやり抜くグリッドという、相反しやすい二つの力のハイブリッドという存在になるためだ。面接では、「やりたいこと」を語らせるよりも、「自分に絶望していますか」と聞いた方がよいのではないだろうか。

 

 

 

最後に、社会に向けて。

 

企業と被雇用者という関係を第三者的な視点から眺めた時に考えなければならないのは、前者が後者に対して強制力を行使しすぎないよう、安全弁を付ける必要があるということだ。私としては、昨今の「働き方改革」は、こうした部分にこそ寄与すべきものだと思う。企業を自分探しのための装置として使うかどうかは被雇用者の自由であり、決して企業側がその姿勢を強いてよいものではない。長時間労働やハラスメントなどは、被雇用者にとっての新しい機会になるのかもしれないが、それで個人が不当に傷つけられてはならない。あくまで被雇用者が安心して就業するなかで、新たな機会に遭遇していかねばならないのだ。

 

例えば、労働組合は、もはや現代において存在意義を失いつつあると言われているが、企業という装置のなかで自分探しを楽しむ被雇用者、という新たな関係が生じた時に、その関係が安全に保たれるよう、各種の規則を整備していく役割があると思う。

 

 

 

やりたいことなど、普通の人には見つからない。ソーシャルメディア上では誰も彼もが「夢」に向かってきらきらと輝いているように見えるけれども、そんなものは幻想である。そんな時こそ、自分はやりたいことなど持たない凡庸な人間であるという諦観を抱えながら、企業という旧時代の装置のなかで、自分探しを楽しんでみてはどうだろうか。

 

人生は暇つぶしだ。太古の人類には生存の危機が絶えず迫り、「やりたいこと」を考えている暇は無かったであろう。時代は下って、終身雇用に守られた会社員人生においては、「やりたいこと」を自問する必要は無かっただろう。猫も杓子も「やりたいこと」を考えている現代は、終身雇用制度が崩壊し、自由に生きていいよと言われて右往左往している人類が、最後に「やりたいこと」という幻想にすがらざるをえなくなっている状況を示している。

 

もう一度ヒトの本性に立ち返り、語りえないはずの「やりたいこと」の代わりに、目の前に没頭する「自分探し」を人生の楽しみに置いて、生きていこうではないか。

きみが人気者タイプじゃなくて、それでも誰かと仲良くなりたいなら、「二人で話したい人」になれ。

僕は昔から、人から好かれたいという欲求が強くて、どうしたらいろんな人と仲良くなれるのかを、ずっと考えていた。

 

高校生の頃は、わかりやすくみんなから好かれている「クラスの人気者」タイプになろうと思ってあれこれ努力したんだけど、それは上手くいかなかった。その顛末については、以前こちらの記事で書いたことがある。

 

2blost.hatenablog.jp

 

そうした陰鬱な過去を引きずりながら、僕は大学時代に「さし飲み」を始めた。最初は、とにかくたくさんの人と二人で話せるようになることで、高校時代のコンプレックスを払拭しようとしていた。

 

当時のさし飲みの様子については、相手の許可を取って録音・文字起こししたものがいくつか残っていて、今それを読み返すと、僕がいかに自分の見え方を気にして相手とコミュニケーションを取っていたかが痛いほどわかる。

 

とはいえ、この頃に「二人だけのコミュニケーション」を体当たり方式で繰り返したことは、今の僕の大きな財産になっている。すなわち、人と仲良くなる方法を自分なりに編み出すことができたのだ。

 

今日の記事では、いわゆる「人気者」タイプの人じゃなくても、誰かにとって「二人で話したい人」になることで、その人と仲良くなることができる、ということを書いてみたい。

 

 

 

みんなの輪の中心にいる「人気者」タイプになるためには、いくつかの資質が必要だ。

 

僕がこれまで何人かの「人気者」タイプの人と話してみたところ、彼らは下記に挙げるような特徴を持ち合わせていることが多いようだ。

 

・自分が世界で一番面白いエンターテイナーでありたいと思っている

 

・一人の人に深く楽しんでもらうよりも、なるべく多くの人に楽しんでもらいたいと思っている(とある人は「人数が多ければ多いほど誰かにウケる可能性が高まるのだから、一対一のさし飲みは最も恐ろしい」と言っていた)

 

・自分や他者の「くすぐると面白いチャームポイント」が瞬間的に把握できる

 

・自分のことが理解されずに傷つく、という事態が想像できない

 

「人気者」タイプは目立つし、周りから好かれているのが目に見えやすいので、人から好かれたいという欲求が強い人は、まずは「人気者」タイプに憧れるのではないだろうか。

 

しかし、上に挙げたような資質を持ち合わせていないと、なかなか「人気者」になることは難しい。事実、僕も昔トライしてみて、上手くいかなかった経験がある。

 

そこで登場するのが、「二人で話したい人」という在り方である。

 

「人気者」タイプに向いていない人は、むしろ「二人で話したい人」タイプに向いている。みんなの輪の中心にいる「人気者」は、魅力的なコミュニケーターとしての在り方の唯一解ではないのだ。

 

では、どうすれば相手にとっての「二人で話したい人」になれるのだろうか?それは、「みんなといる時」とのコミュニケーションの差別化を図ることだ。

 

差別化の図り方には二つの方向性がある。すなわち、「相手の居心地を変えること」と、「自分の見え方を変えること」である。

 

 

 

順番に説明しよう。

 

「相手の居心地を変える」というのは、仲良くなりたい相手に「この人といると余計なことを考えずにコミュニケーションができる」と思ってもらうことである。

 

大勢といる時、人は他者の視線を感じながら、他者に受け入れられる最大公約数的な自分を演出している。その公約数を取っ払うこと、自分には素のあなたを見せてくれて構わないよとコミュニケーションを通して伝えることが、重要である。

 

具体的には、下記のような点にフォーカスする。

 

①社会を主語にしない

 

一般論やお世辞といったものは、二人だけのコミュニケーションには必要ない。社会的に見てどうかということよりも、個人としてのその人に興味を持ち、その人固有の感じ方・考え方に興味を持つことだ。使う言葉、食の好み、趣味、ファッション、メイクなど、さまざまな分野にコミュニケーションのヒントが隠されている。自分の興味のある分野から、「ちょっとこの人はこの点が変わっているな」「世間一般の感覚から外れているな」と感じるトピックを掘り下げてゆくと、個人にピントの合ったコミュニケーションがどんどん深まってゆく。その意味では、公約数的なトピックに狙いを絞って、誰でも参加できるような会話を展開する合コンなどとは、真逆のコミュニケーションになる。

 

僕の場合、使う言葉に対して興味を持つことが多いので、面白い言葉の使い方や、相手が何度も繰り返して使っている言葉について、掘り下げていくことが多い気がする。このあたりについては、下記の記事も参照されたい。

 

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②善悪を問わない、否定しない

 

①にも繋がるのだが、善悪というものを考えると、社会通念に照らしあわせて相手の考えがどうなのか、という話になってしまうため、どうしても個人にフォーカスしづらくなる。相手が犯罪でも犯しているなら別だが、そうではないなら、「それは良くない」「それはいけない」という言葉は絶対に使ってはならない。

 

もし、相手の話に引っかかる部分があるなら、あくまで個人的な感想として、「僕自身はあなたが言ったことに賛同しない。それは自分の○○といった性質に基づくものだと思う」といったコメントを行うとよい。これによって、善悪論ではなく、個人と個人の価値観の相違を浮き立たせる対話となり、個人にフォーカスしたコミュニケーションをさらに深めていくことができる。

 

対話が深まると、相手との価値観の対立が鮮明になることもある。そうした時に重要なのが、これまで自分についてどれだけ考え抜いてきているかという哲学的な思考である。相手が何を言おうが、自分はこれ以外の自分になりようがない、それはそれとして、相手の価値観は尊重すべきものだ。そうしたフラットな感覚が確かなものになってさえいれば、どれだけ相手と価値観が対立していても、対話を深めていくことができるのだ。

 

「自分の○○といった性質に基づくと賛成だ・反対だ」というのが対話のなかで思いつかなければ、「なんとなく反対なんだけど、どうしてだろう」とその場で一緒に考えてみてもいい。「あなたは○○な人だから、あんまり良いと思わないのではないか」というコメントが相手から出てくると、自分に対する理解も深まる。つまるところ、二人でのまっとうなコミュニケーションを成立させるためには、自分をよく理解している必要があるのだ。

 

③秘密を守る

 

「二人で話したい人」というのは、言うなればコミュニケーションの止まり木、大勢の視線に晒されて疲れ果てた人が、ふと羽根を休めてなんでも話すことのできる相手である。だとすると、当然ではあるが、相手が「ここは安全地帯だ」と思って話してくれたことは、他人にぺらぺら話してはいけない。特に、個人が特定できるような形で話の内容を話すのは最悪だ。

 

「二人で話したい人」になると、周囲から「なんだかよくわからないけどいろんな人と仲が良い人」という扱いを受ける。そうなると、Aさんと楽しく話した後に、Bさんから「Aさんと何を話したの?」と聞かれることも増える。そういう時に、「Aさんが自分だからこそ話してくれたこと」は、決して共有してはいけない。それは、どれだけBさんが信用のおける人であったとしても、守るべきルールだ。

 

コミュニケーションは普段の生活と地続きであって、たとえば二人で飲みに行くという行為があったとしても、その飲み単体で完結するものではない。事前・事後における自分に対する印象が、コミュニケーションの本番で相手が話してくれる内容に直結する。自分が「二人で話したい人」であり続けたいなら、秘密は守ることだ。

 

 

 

次に、「自分の見え方を変えること」について説明しよう。

 

よく聞く言葉で言うと「ギャップ」なのかもしれないが、戦略的にギャップを演じる必要はない。重要なのは、素の自分を見せること。この記事を読んでいるような人なら、大人数でいる時は大人数用の自分を演じているところが、大なり小なりあるはずだ。その「大人数用の自分」を取っ払うことができれば、ギャップなんてものは勝手に生じる。そのために必要なのは、自分が自分で「相手に素の自分を見せても大丈夫だ」と思えることだ。

 

言い換えれば、相手と相対した際に、「素を見せてもこの人は自分を傷つけることはない」という絶対的な自己肯定が必要なのだ。この肯定感を抱くためには、いくつかの条件が存在する。

 

・他人が自分をどう見ようが、自分は自分だ、これ以外の自分にはなりようがない、という確信を抱いていること(上述した「哲学的な思考」の部分)

 

・生来的に、自分が他人を嫌いにくい人間であること、他人の良い面を見ようとする人間であること

 

・相手が自分を認めてくれているという感情を持てること、具体的には、能力や性格など、何らかの点で自分が相手を魅了しているという自信があること

 

コミュニケーションはボクシングのようなもので、ガードばかり固めていても、パンチの応酬は始まらない。相手にパンチを出してもらうためには、自分からパンチを出していかなくてはならない。いわゆる自己開示というものだ。先にこちらがリスクを取って素を見せてしまうことが重要である。

 

自己開示については、手前みそだが、以前僕が書いた下記の記事も参照されたい。

 

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具体的に「素を見せて話す」には、下記のようなことに留意するとよい。

 

①自分の感情にフォーカスした話をする

 

人は情報ではなく感情に惹かれる。自分の感情をなるべく覚えておいて、コミュニケーションの場でそれを語ることだ。そして、なるべくその感情だけでなく、どうしてそう感じたのかについても、理由を見出しておけるとよい。これも上述の「自己分析」と同様だ。

 

ちなみに、いわゆる「ぶっちゃけトーク」にあたる、誰かの悪口や愚痴といったもので素の自分が出ているかというと、僕はあまりそうは思わない。ネガティブな感情は決して悪ではないのだが、他者と一緒にいる時には、ポジティブな感情よりも慎重に取り扱う必要があると思う。なるべく毒気を抜いて、その感情を客観視して語ることだ。そのために重要なのは、(繰り返しになるが)どうしてそんなにムカついたのかを考えることだ。自分の価値観に何らかの点で抵触しているのを感じた時、人は他人を許せなかったり、何かを憎んだりする。その価値観がわかれば、自分も救われるし、相手もホッとして話が聴ける。他罰的にではなく内省的に考えることだ。

 

またまた手前みそだが、感情で話すという点については下記の記事に詳しいので読んでみてほしい。

 

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②ポジティブな感情は積極的に相手にぶつける

 

嬉しい、楽しい、快い、安心だ、夢中になれるなどのポジティブな感情は、どんどん相手にぶつけていこう。相手と良好な関係にあるのなら、自慢に思うこと、褒めてほしいことなども話すといい。「無邪気な人だな」「素直な人だな」と思ってもらうことで、相手も自分に対して話しやすくなる。

 

なお、ここが注意であるが、「無邪気そうに思ってもらいたい」「素直そうに思ってもらいたい」と思って上記の行動をすると、どうもその下心が相手に伝わってしまい、うまくいかなくなる。とにかく、コミュニケーションは無心でやることが重要だ。僕も言語化はしているけれど、結局これらは習い性みたいなもので、もはや身体に染みついているからできているように思う。何度もやって、体得することだ。

 

 

 

以上、誰かにとっての「二人で話したい人」になるための方法を書いてみた。感覚的に言えば「この人と話すのは、みんなといる時とは違って居心地が良いなあ」と思ってもらうことだ。

 

人と仲良くなる時に、ぜひ参考にしてみてほしい。

社会がきみの役割を決めてしまう前に。

2018年は、記憶に残らない一年だった。

 

平日は遅くまで仕事をして、土日もともすれば仕事をして、仕事をせずとも仕事の疲れを癒すために夕方まで眠って、そんな日々の繰り返しだった。 

 

 

 

今の会社に新卒で入って、局担、業推、そしてメディアプランナーと、広告代理店のメディアビジネスのことは一通り経験させてもらった。

 

特に、局担の部署で自身の価値に葛藤しながら書いた二本の記事は友人・知人を超えて広く読まれ、いまなお初対面の人と会う際に「こういう記事を書いた人」として紹介してもらうことも少なくない。

 

一方で、平均して一年に一度の異動という、非常に流動性の高かったキャリアパスは、今のメディアプランニングの部署で落ち着きつつある。

 

おそらく、思考すること、人とコミュニケーションをとることといった、自社におけるメディアプランナーに対して求められている資質に、自分がマッチしているためだと思われる。

 

 

 

社会に出て数年経つと、誰でも特定の領域に対してそれなりの経験と知識を有するようになり、資本主義社会から「お前はこれをやれ」と役割をあてはめられるようになってくる。

 

それは、僕が 「いい人どまり」なんて言わせない、とびきりのいい人になれ。 で書いた「イエスマンとなるフェーズ」の次に来る段階だと考えられる。なんでも受けてやろうという姿勢のもと、あらゆる機会が自分のなかを通り抜けていった結果、社会の側で自動的に「こいつにはこれをやらせておけばいい」という判断が下されて、自分に落ちてくる機会のカテゴリーが次第に絞られてゆく。

 

意志が弱いという、現代社会では欠点とみなされがちな特徴を大いに活用し、社会や組織といった巨大な篩に機会を供させることで、自分のアイデンティティを見出すという逆転の発想だ。

 

一方、個人の側においても、スペシャリストとして取り扱われた方がそれなりの待遇を期待できるため、社会と個人は共犯関係のもと、歯車を形成してゆく。そうした歯車が社会のいたるところで回っていることに気付くのが、二十代後半の社会人なのだと思う。

 

 

 

僕は、そうやって自分の役割を決められるのが嫌なのだと、最近ようやくわかりかけてきた。

 

大学生の頃、クラスメートのほとんどが学者を目指す理学部という学部のなかにあって、学者にはなりたくないともがいていたように、僕は僕という人間を、職業的なアイデンティティで規定されたくないのだ。

 

大学時代には、ブラック居酒屋の売り子リーダーになり、スキューバダイビングのインストラクター業に顔を突っ込み、さらには新大阪のオフィス街で石の鉢を売ったり、学祭に足湯を出して大赤字に陥ったり、インドで不動産の営業に明け暮れたりしていた。それは全部、僕が何者かに「なりたくないから」やっていたことだったのだと、今になって思う。

 

社会人になって、ファーストキャリアとして情熱と哀愁に彩られた局担という世界を垣間見ることができたのは素晴らしかったし、メディアプランニングの提案で脳みそが働かなくなるまで知恵を絞っている今の日々も、自分の考えを相手に売るという、ビジネスの根源的な価値を身体で学べる最高の機会だと思う。

 

そうして、次にはどんな峰に登ってやろうかと思案している自分もいる。

 

つまるところ、この有限の人生を目いっぱい使って、あらゆる世界に飛び込み体感したいというのが、僕という人間の根源的な欲求なのだと思う。

 

「自分の知らない世界があってはならない」という、極めて優等生的な性質が、ここでも発揮されているのがおわかりいただけるだろう。

 

 

 

随分と昔に、 「私はこういう人間です」と語れるようになれたら、その大学生活には、意味があったと思う。 という記事を書いたことがある。以下、引用する。

 

自分を知る、ということは、未知の物質の正体を明らかにしていくことに似ている。

 

光をあてたり熱を加えたりしても崩壊しないか、毒性や放射能を有するか、無機物なのか有機物なのかなどを、いろいろな環境に投じたり、試薬を与えたりして、反応を見ていくのである。

 

そういった「いろいろな環境」や「試薬」にあたるのが、「大学時代にやっておくべきこと」として語られるさまざまな経験である。そして、明らかにすべき未知の物質が、言うまでもなく、自分自身なのである。

 

(『Rail or Fly』から引用)

 

僕が思うに、この未知の物質の同定のやり方としては、なるべく現在地から大きくジャンプできるルートを選んだ方が良いのだ。

 

同じ角度から光を当て続けても見える像は一定だが、さまざまな角度から光を当ててみると、物事の違った一面が見えてくる。

 

僕は今、そうした「ジャンプ」を求めているのだと思う。

 

そしてそれは、冒頭で述べた資本主義社会において、極めて厄介な行為になりうる。「この人は、こういうスキルを持っているプロフェッショナルです」という値札を、その人間に貼ることができないからである。これまでの経験の延長線上にその人を規定するのが、効率の良い社会の運営のやり方であって、最適化されたと思った歯車がいきなり自分自身を取り外してどこかに行ってしまうなんてことは、社会の効率の面から考えればあり得ないことなのだ。

 

だが、自分にわかりやすい値札を付けて、それ以外のあらゆる要素を取り除いて、効率よく生きていくなんて、半ば死んでいるようなものではないだろうか。

 

僕はそんな人生は、嫌なのだ。

 

 

 

2019年に、自分がどんなジャンプを選択するのか、それは今はわからないけれど、どんな選択をしたとしても、僕はそれを甘んじて受ける自信だけはある。

 

そうした再帰的な生き方、自覚的に自分に機会を与え、そのなかで精いっぱいやっていくようなやり方こそが僕の生き方なのだと自覚できたのが、20代の大きな収穫だったと思う。

「いい人どまり」なんて言わせない、とびきりのいい人になれ。

2017年は、僕のメンタリティに画期的な変化が起こった年だった。

 

これまで嫌だった「いい人」「優等生」という特性を受け入れ、「自分が頼られることすべてに惜しみなくイエスと言ってやろう」と決意したのだ。

 

【参照】

「良い子100%で生きる」  

「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

 

 

 

その結果は、凄まじいものだった。

 

たくさんの人が僕のところにやってきて、いろんな機会をくれた。時系列で、代表的なものをざっと書き出してみよう。

 

・ミレニアル世代の情報発信メディア MILLENNIALS TIMES で記事を書き始めた。

 

・メディアプランナーの部署に異動になった。

 

・ひょんなご縁から家庭教師をすることになった。

 

・4人飲み企画 東京よばなし を始めた。

 

・紹介に与りウェブマガジン キャリアサプリ で記事を書き始めた。

 

・小説 UNFORGIVEN を書き始めた。

 

・会社の組合の委員長になった。

 

これ以外にも、広告賞に応募したり、会社の野球部の優勝決定レポートを書いたり、北アルプスに登ったり、釣り部を結成したり、SUPをやったり、競合プレゼンのプランを1人で考えたり、たくさんの「初めて」の経験をさせてもらった。

 

そのすべてが「他人から与えてもらった経験」だった。

 

もちろん、僕が自ら手を挙げて取り組んだこともあるけれど、そのきっかけは例外なく「人が僕にやってほしいと望んだから」だった。

 

2017年の最後の方は、あまりにも多くの機会をもらいすぎて目が回り、正直へろへろだった。それでも、今年いっぱいはすべてのバッターボックスに立ってやると誓って、走り抜くことができた。

 

ものごころついてから、一番素敵な年だった。

 

 

 

機会や経験を運んできてくれる人もいれば、誰にも言えないような秘密を話してくれる人もいた。

 

こんなにも多くの人が、人には共有できない自分だけの歪みや偏りを抱えながら暮らしているのかと、僕は感嘆しながら彼らの話を聴いた。

 

たぶん、僕がそうした心の内を見せる相手として選ばれやすいのは、善悪やべき論で価値観を判断せず、その人の話を心からおもしろがり、内面を正しく表現できる言葉を一緒に探していこうとするからだと思う。

 

それも、結局は「いい人だから」なのだろう。「正義の観点から考えればあなたは間違っています」と断罪したり、他人のめんどくさい話なんて知ったこっちゃねえよと突き放したりすることだって、僕には選べる。だけど、僕はいい人だから、いくらでも話を聴いてあげたいと思うし、世間一般が好む解より「その人が納得する解」をともに見つけ出したいと思う。

 

 

 

2017年は、そんな風にして過ぎていった。

 

いつしか、自分が「いい人」という言葉に対して抱いていたマイナスイメージは、プラスのものに置き換わっていった。

 

昔、僕が「いい人」と言われて一番嫌だったのは、「いい人どまり」といった意味合いを含んでいるように感じていたからだった。

 

恋愛面に限らず、「いい人なんだけどエッジが立っていないんだよな」というのが、僕の思う「いい人どまり」のニュアンスだ。

 

だが、「とことんいい人になってやる」と決意してからこれまでを振り返って思ったのは、「本当に死ぬほどのいい人になれば、『いい人どまり』などというワードが出てくる余地はなくなる」ということだ。

 

それはきっと、「本当のいい人」というのが、この世界では滅多にお目にかかれない、稀有な存在だからなのだと思う。

 

 

 

僕が今年、「いい人であること」を決意して最後には息切れ状態に陥ったように、「純粋な善意」は、その善意を原動力にして行動する人間を、殺してしまうという作用を持ち合わせている。

 

つまり、いろんな機会や経験を与えられ、それに応え続けていると、自分の時間的・肉体的・精神的リソースが枯渇して、動けなくなってしまうのだ。

 

それは、自殺とも他殺ともつかない死に方である。そもそも、「他者から与えられる機会に応え続けること」自体が、100%主体的な行動とは言えないし、さりとて全面的に受け身な行動とも言えない、曖昧な性質を持っている。今年僕が読んで衝撃を受けた本の言葉を借りるなら、その行動の果てに死ぬことはきわめて「中動態」的であると言えるだろう。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

いずれにせよ、「純粋な善意」を原動力にした個体はやがて死ぬ。したがって、遺伝子的にもミーム的にも、後世にそうした生き方は残らない。

 

だからこそ、僕たちは「自分から『いい人』という特性を選択し、他者から寄せられる希望に沿い続ける人」に対して、「ただのいい人ではない」と驚嘆の念を抱くのだろう。

 

僕自身、ほんの少しだけ「本当のいい人」の世界を垣間見て、これをずっとやり続けると死んでしまうけれど、その世界の人だけが手にできる機会や経験を引き寄せる磁力には並々ならぬ強さがあるなぁと感じたものだ。

 

 

 

人はどうすれば「本当のいい人」になれるのだろうか?

 

そのヒントは、最近発売された『どうぶつの森 ポケットキャンプ』にある。

 

これは、『どうぶつの森』シリーズ初のゲームアプリである。簡単に言うと、ひたすら動物たちのお願いを叶えることでアイテムやお金をもらい、自分のキャンプ場を好きなように拡張していくゲームだ。

 

象徴的なのは、何よりもまず「人に与えること」が最初に来るゲームである、ということだ。それも、与えるものは虫や魚や果物といった「誰でも手に入れられるもの」であることが特徴だ。

 

自分が与えられるものを、ただ「いい人」として相手に与えてゆく。その結果、お金やアイテムをもらい、自分のキャンプ場に動物たちが集まってくる。そうしたゲーム内容は実に示唆的で、僕は唸らざるを得なかった。

 

自分にこれといった特技がなくても、「いい人」として生きることはできる。会社の若手社員としてなら、飲み会の幹事をしたり、自分の仕事が終わった後に何かできることは無いか聞いたり、社内ツールの使い方をいち早く覚えて先輩に教えたり、他にもいろいろと思いつくことはあるだろう。

 

今の自分に手の届く範囲で、人に対して惜しみなく与えることを繰り返していけば、いつしか自分の周りにはたくさんの機会が集まってくる。それが、「死ぬほどいい人」になるということだ。

 

 

 

2017年、僕は「いい人」として生きようと誓い、結果としてたくさんの「初めて」を経験させてもらった。今年僕と関わってくれたすべての人たちに深く感謝している。ただ、自分のリソースが有限であり、このまま生きていくのは難しいということも痛感した。

 

2018年は、「僕が費やすリソース単位あたりで、人により大きな喜びを与えられそうなこと」を中心に据えて、生きていこうと思う。言い換えれば、高いROIの見込める行為に絞って行動する、ということだ。

 

それは、人と話すことと、文章を書くこと。

 

特に、「よばなし」と「小説執筆」は、僕がやることで幸せになってくれる人が確実にいる。この2つは、2018年を通してしっかりとアウトプットを出したい取り組みだ。

 

人脈お化けになりたいわけでも、作家になりたいわけでもないけれど、それをやることで幸せになってくれる人がいるとわかっているのなら、やらない手はない。

 

2018年も、そうした「他人任せ」な気持ちは変わらずに、生きていくのだと思う。

浜金谷の風と音の中で。(とぴちゃん)

2017年8月13日。

 

千葉県南房総を吹いてゆく熱風には、少しだけ、夏の終わりの匂いが混じり始めていた。

 

浜金谷という、聞き慣れない駅で降りた僕は、駅前の小さな交差点を抜けて、とぴちゃんが待つ「とびきり美味い回転寿司屋」を目指した。

 

 

 

とぴちゃんと出会ったのは、今から5年ほど前。僕が書いていたちっぽけなブログがきっかけだった。

 

当時の僕は、学者になりたいと思って大学に入ったものの、「自分のやりたいことがわからない」という絶望に打ちひしがれ、西へ東へ奔走していた。ベンチャー企業インターンで売れそうもない石の鉢を売るために新大阪のオフィス街で飛び込み営業をしたり、大学の学祭でドクターフィッシュ足湯を企画して大赤字を出したり、インドのムンバイで1年間高級アパートを売りさばく営業マンとして奮闘したりしていた。

 

僕は、そうした果てしない自分探しの旅を文章にしたため、小さな子どもが瓶に手紙を入れて海に浮かべるように、せっせとインターネットという大海原に流していた。

 

とぴちゃんは、そんな僕の宛名の無い手紙を読んでくれた一人だった。

 

就職活動をしていたとぴちゃんは、僕と同じように、「自分が何者なのか、やりたいことが何なのか、わからない」という悩みを抱えていた。歌手の世界でメジャーデビューも経験した彼女は、就活の選考で「音楽こそがあなたのアイデンティティなのだ」と押しつけられることに戸惑い、途方に暮れていた。

 

インターネットで人と出会い、自らの弱さやどうしようもない部分を語り合うことなど、普通の人からしたら「気持ちが悪い」と思うかもしれない。だけど、僕たちのような「少し外れてしまった人たち」にとっては、インターネットは救いの装置だった。

 

季節は巡り、僕はサラリーマン街道を突っ走っていた。一度は歌うことをやめた彼女は、再び歌い始めた。そうして、南房総で野外ライブをするという彼女に誘われ、僕はへなちょこギターをみんなの前で晒すハメになるのを覚悟して、この浜金谷の地にやってきたのだ。

 

 

 

午後5時。既に日は傾きつつある。

 

こぢんまりとしたお弁当屋さんの横のスペースが、ライブ会場だった。

 

僕はギターの調弦をしながら、少しずつ人が増えていくのを、興味深く眺めていた。とぴちゃんはいつものハイテンションで、「あっ○○さん!今日はありがとうございます!」などと声を掛けている。

 

音楽で、人を呼べる。それは、ものすごいことだと思う。音楽が文章に比べて圧倒的に素晴らしいのは、目の前でお客さんのリアクションを見ることができるところだ。ミュージシャンではない僕は、その意味で、とぴちゃんのことをとても羨ましく思う。

 

だけど、共通点もある。それは、「人を信じること、人から好かれること」が、「作品だけで突き抜けられないアーティスト」にとって、最強の武器になるという点だ。

 

ものをつくる人間にとって、作品だけで評価されることは、おそらく至上の喜びだろう。僕の好きなTravisというイギリスのロックバンドは、”The Invisible Band”というアルバムで「作品さえ素晴らしければ、アーティストは不要だ」というメッセージを世に遺した。

 

だが、そうした形で作品を評価してもらえる人たちはごくわずかだ。

 

「あいつ、なんか憎めないんだよな」「本当に良い奴なんだよ」そうした言葉とともに、自分の作品を見てもらったっていいじゃないか―。最近、会社の人に文章を読んでもらえる機会の増えた僕は、そんなことを思っている。

 

かっこいいだけが、クリエイティビティじゃない。大真面目に泥臭くて、でもどこかに温かさがあって、そんな自分の人間性をそのままぶつけてやれば、受け手は必ず何かを返してくれる。

 

これだけ人から受け入れられて、愛されているのは、きっととぴちゃんが自分のことを音楽に精一杯ぶつけているからなんだろう。遊びでいくつか彼女と曲を合わせながら、僕はそんなことを考えていた。

 

 

 

ライブは、『空も飛べるはず』から始まった。

 

スピッツは、草野マサムネの異様な声質と高音さえなければ、コード自体はとても弾きやすい音楽である。もちろん、キーを変えてとぴちゃんが歌えば万事解決である。

 

そして『桜坂』。これも弾きやすく、また歌いやすい曲だ。

 

ピアノ曲である『楓』を歌ったところで、僕はギターをとおるさんに渡し、観客席に降りた。とぴちゃんがお客さんを煽る。

 

「あれ、誰か歌いたい人いませんか?えっと、滝田さん!」

 

そう呼ばれた男性は、立ち上がりながら「え?俺?」と周りを見渡すも、とぴちゃんが無理やりマイクを持たせてしまった。ジャジャッ、ジャジャッ、ジャジャッジャーンと、懐かしいイントロが流れると、滝田さんはしかたないなぁと笑みを浮かべた。

 

「『セプテンバーさん』!」

 


RADWIMPS セプテンバーさん(歌詞付き)

 

とぴちゃんのピアノととおるさんのギターをバックに、滝田さんは優しく歌った。ボーカルが野田洋二郎だったか滝田洋二郎だったか、いや滝田洋二郎は『おくりびと』を撮った映画監督だったか…、などと、2杯目のビールを飲み干した僕には少しわからなくなってしまっていた。

 

浜金谷の夕方が少しずつ夜に変わっていく。今を限りと盛る夏も、もうじき9月、セプテンバーだ。

 

 

 

次の曲は、ミスチル好きな僕にとっては「ここでこの曲が聴けるなんて!」とつい興奮してしまった曲だった。思わず、同じくミスチル好きらしい滝田さんと顔を見合わせる。

 

『1999年、夏、沖縄』。まるじさんが、抜群のリズム感覚でしっかりと保ったテンポに、太く腹の底まで響くアルペジオを一つずつ乗せてゆく。

 

 時の流れは速く もう三十なのだけれど

 

 あぁ僕に何が残せると言うのだろう

 

 変わっていったモノと 今だ変わらぬモノが

 

 あぁ良くも悪くもいっぱいあるけれど

 

 そして今想うことは たった一つ想うことは

 

 あぁいつかまたこの街で歌いたい

 

僕は今、28歳だ。Mr.Childrenが瀕死の状態から立ち上がり、『終わりなき旅』という渾身のメッセージソングを世に放ったのは、桜井和寿をはじめとしたメンバーたちが28歳になったかならないかの頃だった。

 

20代後半というのは、子どもと青年の境目だと思う。それまでの人生で構築してきた自分自身を見つめ、さて自分はどう生きようかと自問する。もう変えられない自分の性格や傾向を冷静に捉えて、どんな状態にあれば自分は幸せなのか、それを考えるのが、20代後半という時代なのだ。

 

夜風の吹き始めた海岸沿いの小さなライブステージで、バラードは鳴り続けた。これまでいろんな街で歌ってきたであろう、とぴちゃんにぴったりの曲だった。

 


Mr.children 1999年 夏 沖縄

 

 

 

秦基博の『Rain』や一青窈の『ハナミズキ』、レミオロメンの『粉雪』、いきものがかりの『帰りたくなったよ』など、しんみりしたバラードが続いて、ライブは少しずつ終わりに近づいていた。

 

今日が日曜日でなければ泊まりたいところではあったけど、あいにくとこちらはサラリーマンの身分である。

 

僕は、もう一度とぴちゃんからギターを貸してもらい、同じくギターを手にしていたしょうたさんと並んで座った。

 

猫の恩返しの曲をやろうと思います!『風になる』!」

 

ギターからピアノにシフトしていたとおるさんの弾く、軽やかなイントロが響く。「素敵ですね」と言うと「ギターよりもピアノの方が得意なんだ」と、照れ臭そうに笑ってくれた。

 

僕はしょうたさんと一緒にギターを弾いた。とぴちゃんも歌う。シンプルなコードに乗る、簡単なメロディだけど、とっても切なくて良い歌だ。

 

 陽のあたる坂道を 自転車で駆けのぼる

 

 君と誓った約束乗せて行くよ

 

 ララララ口ずさむ くちびるを染めて行く

 

 君と出会えたしあわせ祈るように

 


風になる - つじあやの(フル)

 

 

 

すっかり暗くなってしまった浜金谷の町を、僕は駅に向かって歩いていた。

 

―楽しかったなぁ。

 

知らない人たちの前で、ショボいギターを披露するなんて、最初は顰蹙を買わないか心配だったのだけど、とぴちゃんのライブに集まった人たちはみんな優しくて、僕の不安などすぐに吹き飛んでしまった。

 

ギターがちょっとばかし弾けてよかったな、と思う。

 

最近は、ギターに限らず、自分が中途半端に手を出してきたこと、そのすべてに感謝することが多くなった。

 

昔は、何ひとつモノにできず、すぐに冷めてしまう自分が嫌だった。「自分にはこれがある!」と言い切れる何かを手にしたくて、僕は自分探しに邁進していたように思う。

 

だけど今は思う。人と仲良くなって、一緒の時間を楽しもうと思った時、いろんなものに頭を突っ込んだ経験が丸ごと活きてくるんだって。

 

究極の自分探し人間、中途半端ものだった自分が、いろんな人との繋がりをつくって、少しずつ自分のやりたいことに近づいていく。

 

「僕にはこれしかない」なんて、今でも到底言い切れないけど、人を信じて、好いて好かれて、いつでも一所懸命に目の前のことを楽しんでやれ。

 

それが僕たちの、生き方だ。

 

 

 

ドアが閉まり、駅から電車が少しずつ離れてゆく。

 

僕は、浜金谷から乗り合わせた迷子の蛾が、がら空きの座席にとまって休むのを見ながら、この半日ばかりの小旅行のことを思い出していた。

 

―また、来ることになりそうだな。

 

電車は、いつもと変わらぬ月曜日に向かって、東京へとひた走った。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

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「良い子100%」で生きる。

僕は人を嫌えない。

 

すぐ傷つくくせに相手のせいにできない。

 

いつでも優等生であろうとしてしまう。

 

人事やカウンセラーのように、人の話ばかり聴いてしまう。

 

つまるところ、良い子であろうとしてしまう。

  

 

 

これらは、ずっとずっと、僕が否定したかった自分の特性だった。

 

 

 

半年前、僕は「良い子」という呪いを携えて生きるということ。という記事を書いていた。

 

この中で僕は、「良い子」というのは逃れられない呪いであり、それを最大限活かして生きるしかない、と書いた。読んでいただけるとわかるように、割と悲壮感漂うトーンの文章だ。

 

「良い子」ではない、自分を貫いている人。確固たる自分自身があって、それに従って生きている人。文中では「自己実現(できている人)」「やりたいことがある人」などと書いているが、そういう人への憧れが後ろに透けて見える、そんな文章である。

 

「良い子」であるのは不本意だけれど、それは仕方ない。消えない呪いは、利用して生きよう。それが、半年前に僕が思っていたことだった。

 

 

 

だけど、今は思う。

 

 

 

「良い子」って、めちゃくちゃ長所じゃないかと。

 

「嫌いな人がいない」って、死ぬほど素敵じゃないかと。

 

「優等生」って、いなきゃ世界は回らないよって。

 

「相手の話が聴ける」って、そんなに誰にでもできるようなことじゃないって。

 

 

 

僕はいつからか、他人から見て「良いところだよ」って言われる自分の特性のいくつかを、否定して生きていたように思う。

 

ネガティブな特性(例えば僕で言えば「高校時代リア充でなかったこと」へのトラウマ)よりも、ポジティブな特性の方が、「自分がそれを否定していること」は気付きにくい。

 

なぜなら、他人から褒められる部分というのは、健康診断で「問題なし」と言われているようなもので、自分で多少違和感があっても「まあ、いいか」と思ってしまう部分だからだ。

 

テレビ局担という荒療治によってネガティブな特性を受け入れることができた僕だったが、「良い子」をはじめとするポジティブな特性は受け入れられていなかった。

 

 

 

なぜ、ポジティブな特性である「良い子」を、僕は否定してしまっていたのだろうか?

 

その分析は、先の記事でもう済んでいる。

 

「やりたいことをやれていない人は、人生の失敗者だ」という価値観が、小さい頃から僕の中にあったからだ。

 

それは、僕の両親がずっと「お前はやりたいことをやって生きろよ」と言ってくれていたからだと思う。

 

これ自体は、まったく問題のないメッセージだと思う。むしろ、僕が親だったとしても、同じことを子どもに言って育てたいくらいだ。

 

問題は、受け取り手である僕の方にあった。生まれついての「良い子」であった僕は、「やりたいことをやって生きること」を「与えられた条件」として、それを満たすことを目標に、これまで生きてきてしまったのだ。

 

先の記事にも書いたが、「良い子」というのは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」のことである。「良い子」である僕は、「やりたいことをやって生きること」を、「与えられた価値基準」として設定してしまったのである。

 

「人の喜ぶことを率先してやる」「人の言うことをちゃんと聞く」といった「良い子」的な価値観は、「やりたいことをやる」のとは真逆で、だからこそ僕は学生時代から今にかけて、その狭間で死ぬほど苦しんだのである。自分が本当は「良い子」なのに、「良い子じゃない、自分のやりたいことをやっている人」を目指そうとしていたから。

 

それにつけても思うのは、教育というものの難しさである。どんな風に育てたとしても、子どもは親の影響をめちゃくちゃ強く受けて育たざるをえない。僕が子どもを育てる時は、「自分の言動は知らず知らずのうちにあなたに強く影響しているだろう。将来大きくなって何かが辛いなと感じる時は、親の影響についても考えてみてほしい」と言おうと思う。

 

(僕は今も両親の教育には心の底から感謝している。その気持ちについては、少しも変わるものではないことだけは、ここに書いておきたい。)

 

 

 

もう28歳になろうかというタイミングで、こんなことに気が付くなんて、人生は何が起こるかわからないなぁと思う。

 

そして、「自分は良い子なんだ」と気が付いてから、僕の人生はこれまでにない面白い動きを見せてくれている。

 

僕は「良い子100%」で生きる。

 

すべての人を信じて、自分を全部見せて、惜しまずに与えて、思ったことを口にして…。

 

それがどこに繋がるのか、何をもたらすのか、今の僕には見当もつかないけど、とてつもなくワクワクしていることだけは事実だ。

 

「良い子」って、本当に素晴らしいことだって、地球上のすべての「良い子」な人に届けばいいなって、そう思ってます。

 

「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

最近、会社で「お前は本当に良いヤツだな」と言われることが多い。

 

これは自慢でもなんでもなく、むしろ皮肉やからかいといったニュアンスを多分に含んでいるのだが、確かに僕は自分自身「とても良い子」であると思っている。

 

大学生の頃の僕は、「良い子」であることがこの上なく嫌だった。優等生であることより、自分の好きなことで生きていける人になりたいと思っていたし、「自分が生涯かけて成し遂げたい夢」を探して、人一倍あちこち駆けずり回っていたように思う。

 

しかし、今思うのは、自分は「良い子」としてしか生きることはできないのだな、ということ。そして、もしそうであるなら、自分が「良い子」に生まれついてしまったという呪いを最大限利用して、生きてやろうじゃないかということだ。

 

今日は、僕と同じように「良い子」である人に向けて、「良い子が幸せに生きるためにはどうすればよいか?」ということについて書いてみたい。

 

 

 

まず、「良い子」の定義をしておこう。

 

僕が思うに、「良い子」の定義とは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」だと思う。

 

想像しやすいのは、「クラスの優等生」だ。内申点を取るということがよい高校に進学するのに有利なのであれば、定期テストで高得点を取り、学級委員などの雑用を進んで引き受け、部活でもリーダーシップを発揮する。嫌なヤツかというとそうでもなく、人を見下したり差別したりせず、誰にでも人当たりよく接することができる。

 

ここでのポイントは、あくまでその価値基準が「与えられた」ものであるということだ。学校であれば「良い成績を取ること」、会社であれば「仕事で結果を出すこと」が、その価値基準になるだろうし、人が集まる場所であればどこでも「そこにいる人と仲良くやること」が、大切な価値基準になるだろう。

 

自分で「作りだした」価値基準ではなく、誰かから、どこかから「与えられた」価値基準。それが、「良い子」にとっての重要な指針となる。

 

 

 

振り返ると僕は、ものごころついた時から今の今まで、とてつもなく「良い子」であったように思う。

 

両親の名誉にかけて言うが、僕は決して「テストで良い成績を取り、先生に好かれる優等生になりなさい」と言われて育ったわけではない。むしろ両親は、事あるごとに「お前は好きなことをやって自由に生きろ」と僕に言い続けていたし、そのためにいろんな環境を準備してもくれた。

 

その教育方針を示す、象徴的なエピソードがある。僕が小学校5年生の時に参加した、サマースクールというイベントだ。

 

サマースクールは、今はもう亡くなってしまったジャック・モイヤー氏という海洋学者が始めた野外学習プログラムといった趣のイベントで、小学校高学年から高校生までの青少年たちが伊豆諸島や沖縄の慶良間といった日本各地の離島に集い、昼はスキンダイビングシュノーケリング)をして海中を観察し、夜は昼間見た生物の生態について、モイヤー氏をはじめとした講師陣の講義を受ける、といった内容だった。

 

僕は子どもの頃から生き物が好きだったし、自分が興味を持ったものについて、本を読んだり話を聴いたりするのが好きだった。そうした姿を見た親が、このイベントに応募してくれたのである。この体験から、僕は将来生物学者になりたいと考えるようになる。

 

サマースクール以外にも、両親は僕のやりたいことのためにあれこれと環境を整えてくれた。僕がやりたいと思ったことを、自由に応援してくれる人たちだった。そのことについて僕は心から感謝しているし、自分が子どもを持ったら、そんな風に育ててあげたいと思っている。

 

 

 

一方で、僕はこの国の教育課程において、一貫して「良い子」であった。

 

この「良い子」がどこから来たものなのか、未だに僕はわからない。生来のもの、と答えにならない答えをつぶやくしかないのである。

 

少なくとも中学を卒業するまで、学校の勉強で苦労したことはなかった。部活ではキャプテンをやり、生徒会なども頼まれれば立候補した。きっと教師からすれば、とても扱いやすい優等生という印象だったのではないかと推察する。

 

高校は、とにかく部活と勉強に一所懸命だった(部活と勉強の両立というのが、公立高校にとってこれ以上ない「良い子」像であることは、議論の余地がない)。高校野球の激戦区・大阪では、僕の通う高校が甲子園に出ることなど夢のまた夢だったが、それでも毎日必死に練習していた。レフトのフェンスまで60mほどしかない小さなグラウンドが使えない日には、母校の目の前にある大阪城の急坂を何度も駆け上がり、「秀吉め、こんなキツい練習環境を後世に遺しやがって…」などと悪態をついたりしたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

 

野球部を引退してからは、立花隆氏の『脳を鍛える』という本に頭をかち割られるような衝撃を受け、上述のサマースクールに参加する中で心に抱いた「生物学者になりたい」という夢を無条件に信じて、大学に合格するために一心不乱に勉強した。

 

その中で、「本当に自分は学者になりたいのだろうか?」といった問いは、心に浮かぶことはなかった。仮に浮かんだとしても、「まあ、それは大学に受かってから考えればいいか」と思っていたことだろう。

 

日本においては、大学に入学するまでは、「やりたいことを見つけた時のために選択肢を広く持っておく」ことと「良い子でいる」ことはパラレルであり、ほぼイコールになっている。

 

中学生、そして高校生だった頃を振り返っても、僕は将来の自分が「やりたいことを見つけられない」という事態に陥ることなど想像もしていなかった。とにかく、選択肢を幅広く持っておくためには、難しい大学に入っておいた方がいい。やりたいことは大学に入ってから本格的に固めればいい、そう思っていた。

 

 

 

しかし、大学に入ってじわじわと感じていったのは、「自分が何をすればよいのかわからない」という絶望であった。

 

大学では、何をやるかは個人の自由である。特に、僕の入った京都大学は、本当に「何をしても良い大学」であり、その中でも理学部というのは、京大らしさを煮詰めて瓶詰めにしたような場所であった。なにせ、生物専攻の人間が数学の講義を受けても、単位として認められるような学風なのだ。僕のクラスメートの中には、嬉々として1回生の早々から研究室に通い、2回生の時には論文を書いて、それ以降は研究のために世界を飛び回っているような人間が何人もいた。

 

つまり、「テストで点を取っていれば良い子」だとか「部活に真剣に打ち込んでいれば良い子」だとかいう考え方が、大学では消えてしまうのである。かろうじて、国家公務員や弁護士といった難関資格に合格することや、就職活動で一流とされる企業に入ることが、「良い子」的な考え方なのかもしれないが、京大の理学部にはそうした風潮はみじんもなかった。

 

そんな環境の中で、僕は自分が何をやりたかったのかを見失ってしまった。

 

最初は、これまで信じていた夢に従って、生物科学の研究室を志し、スキューバダイビングのサークルに入った。「自主ゼミ」と呼ばれる学生の自主勉強会に顔を出し、生物科学徒のバイブルとも言える『Essential 細胞生物学』をノートにまとめていった。ダイブマスターの免許を取ることを目指して、サークルのツテを頼って沖縄・久米島にあるダイビングショップに泊まり込み、プロのインストラクターたちに怒鳴られながらアルバイトをした。海洋生物学者という、わかりやすい、きちんと世の中的に名前のついた職業を目指して、僕は順調に歩を進めているかのように思えた。

 

しかし、どうも気が乗らない。生物学の講義の単位は落とすし、ダイビングも大きな合宿以外は顔を出さなくなっていった。所属していたもう一つのサークル、クラシックギター部の部室にこもって、昼間から授業をサボってギターばかり弾いている人間になってしまった。それでも大学の構内にいるならまだマシな方で、ITベンチャーで新規事業と称して石の鉢を売ろうとしたり、『夜は短し歩けよ乙女』に出てくる京大の学祭でドクターフィッシュを泳がせた足湯を出そうとしたり(参照:変人なんて、やめちまえ。)、さし飲み100人斬りをしたり、インターネットで人を集めてウェブサイトを立ち上げたり、果てはご存じのとおり、インドに行って高級アパートを売り歩くインターンにトライしたりした。

 

たぶん、事情を知らない人からすれば「こいつは何をやっているんだ?」と思うに違いない、そんな大学生活だった。それでも自分の中では、「これがやりたいのかもしれない」という気持ちが芽生えるたびに、骨でもしゃぶるようにその希望にすがりついていたのだ。学者、サイエンスライター、新聞記者、起業家、経営コンサルタント…。だがそのどれも、「自分の本当にやりたいこと」ではなかった。

 

 

 

望むと望まざるとにかかわらず、僕は大学の時に、自分の中の「良い子」と決別したつもりだった。

 

元々僕は、「良い子」的な特徴を多分に持ちながら、自分がやりたいことをやって暮らしていきたいと願っていた人間だった。高校までは、「良い子」であることと「自己実現」がうまく共存できていたから、何も疑問を持つことなく「よし、人生はうまくいっている」と確信できていた。いわば「良い子」と「自己実現」は車の両輪であった。

 

しかし、大学という自由な場所では、「良い子」という概念は消失する。それまでと同じ車で走ろうとしても、既に車輪の片方が外れてしまっている以上、前進は望めない。

 

さあそれでは「やりたいこと」に向かって駆け出そうか、と思ったものの、自分がやりたいことだと思っていたものと向き合ってみると、なんだか違う。そんな風にして、「良い子」と「自己実現」の両方の車輪を失ってしまった僕は、今自分が向かおうとしている方角がどの方角なのかもわからず、迷走し続けたのである。

 

繰り返しになるが、僕は高校生の時点では「やりたいこと」が比較的明確にあった人間だと思っている。海が好きだったし、生き物が好きだったし、活字を読んだり生み出したりするのが好きだった。生物学者の他にも、ダイビングのインストラクターだったり、モノカキだったり、そういう仕事ならできるんじゃないかとも思っていた。そんな僕が、やりたいことを見つけられないなど、大学に入る前は想像もしていなかったのだ。

 

 

 

大学1年の春、就職活動をしていたスキューバダイビングサークルの先輩との会話の中で、今でも心に残っている言葉がある。

 

「好きなことを仕事にして生きていくのは、無理なことやで」

 

その時僕は、強烈に腹が立ったものだった。そんなこと勝手に決めるな、お前はそうなのかもしれないが俺はそうじゃない。嘘だと言うのなら、証明してやる―。

 

だが皮肉にも、そこからの大学時代で証明されていったのは「自分はやりたいことを見つけることができない」という、思ってもみなかった命題だった。

 

世界中のカラスを確認した後でなければ、「白いカラスは存在しない」ということは証明しえない。同じように、自分の興味のあることをすべて試してみた後でなければ、「自分は夢ややりたいことを見つけることができない」とは言い切れない。

 

僕は藁にもすがるような気持ちで、脈絡など度外視して、新しい経験を求め続けた。夢が見つかるということが、世界のどこかに白いカラスを発見するのと同じくらい、稀有な可能性だったとしても。

 

 

 

6年に渡る苦闘の末、僕は広告代理店に入ることにした。

 

高校までの「良い子」という属性を失い、「自分のやりたいこととは何か」を問い続けた結果、「限りある時間の中ではやりたいことは見つけられない」という結論に達した僕は、「やりたいことが見つからない生き方でもいいじゃないか」という自分のマイノリティなメッセージを広めたいと思い、広告代理店を志望した。

 

そこで待っていたのは、かつて自分が決別したはずの「良い子」との再会だった。

 

仕事というのは、お金という強制力の介在により、普段の自分なら到底取り組まないようなことに挑戦させるものだ。お金をもらってしまえば、得意だ不得意だ、好きだ嫌いだなどとは言ってられない。それはつまり、「クライアントの喜ぶこと」が「与えられた価値基準」となり、「良い子」を駆動させていく、ということだ。

 

広告代理店のテレビ局担当となった僕は、高校時代のトラウマによってあんなにも距離を置いていた「テレビ業界」の人たちと、日夜濃厚に絡み合うこととなった(参照:僕が「スクールカースト」から解放された日。)。

 

僕が「良い子」でなければ、ここで仕事を辞めていたかもしれない。それほど、僕は「リア充」的なものに苦手意識を抱いていたのだ。しかし、幸か不幸か僕はやっぱり「良い子」だった。苦手だと言って飛び出すよりは、その場所のルールを見定め、そこで評価される努力をする方が性に合っていた。

 

テレビ局担当となった僕は、各局の視聴率を眺め、自分の担当する局の強みを把握し、どのクライアントがどんな番組にCMを流してほしいのか、細かく頭に叩き込んだ。自己流の数式を作って、どうやったら担当局に発注がもらえるのか仮説を立てた。厳しい交渉の中で「お前はもう電話してくるな」と言われても、「嫌われたくない!」という一心で、しつこく相手にまとわりついた。すべて僕が「良い子」だったためだ。

 

普段の業務以外でも、「良い子」であることは役に立った。会社の部活動や、有志の活動で、僕は率先して雑用をやることにした。「若手は雑用でもなんでもやって下積みの中から学べ」という価値観と、「そうした体育会系的な考え方が生産性をなくしているのだ」という価値観のどちらが正しいのか、僕にはわからない。ただ思うことは、「若手が雑用なんて時代は終わった、俺は好きなことをやるんだ」と思っている人が多ければ多いほど、「良い子」的なあり方の価値は、相対的に高まるということだ。「良い子」的なふるまいに苦痛を感じないのであれば、雑用でもなんでもして、人とのつながりを作っていった方が、自分のためになるのだ。

 

そうした「良い子」的な活動の中で、次第に「自分とは何か」という疑問の答えが明らかになってくる。そこにつながっている「自分のやりたいこと」も、少しずつ見えてくる。

 

最近、僕が「良い子」でなければ書けなかったであろう局担の記事が、少なからず業界内で読まれたことによって、社内のまったく知らない人から「何か書いてくれないか」と頼まれることになった。そのうちにこのブログでも告知をするかもしれないが、ミレニアルズ世代について書く予定だ。「自分探し」や「キャリア」のことなら、僕以上に悩んだ人間はそうそういないだろう。そうした自分のテーマとミレニアルズ世代を絡めながら、書いていくつもりだ。入社当時に掲げたマイノリティなメッセージを広めるという志望動機は、もしかしたらここで叶うのかもしれない。

 

 

 

会社に入って改めて思ったのは、自分はこの「良い子」という属性から、生涯逃れることはできないだろうということだ。自分がゼロイチで何かを創り出すのではなく、既にある仕組みの中で「良い子」としてふるまうことしか、自分にはできそうもない。

 

自分が「良い子」であることは、しかたのないことなのだ。それは、どれだけ拭い去ろうとしても消えない呪いである。もしそうだとするなら、「良い子」を最大限自分のために利用して、生きてやろうじゃないか。

 

「良い子」なんて言われるのは嫌だし、もっと自分の夢をかっこよく形にしていっている人のように生きたいけど……。僕にはこんなふうに、泥臭く生きるしかないのだ。

 

 

 

既にお気付きかもしれないが、僕が今日ここで書いたことは、すべて対症療法にすぎない。本来であれば、「自分が本当にやりたいこと」を見つけられるような教育の在り方や人の生き方を、誰か偉い人が説くべきなのかもしれない。

 

しかし、僕が教育を受けた時代は「学歴至上主義ではなく各々の自己実現を可能にする」すなわち「個人がやりたいことをやって生きる」という名目で実施されたゆとり教育のど真ん中だ。その中身には賛否両論あるだろうが、「個人の可能性の実現」が大義名分として掲げられた教育を受けた僕が、ここまで自分のやりたいことを叶えられていないのであれば、それは教育ではどうにもならない性質のものなのではないだろうか。つまり、人間の本質として、「やりたいことをやって生きる」というのは、困難なことなのではないだろうか。

 

そして何より、僕はもう修正の効かない27年間を既に過ごしてしまっており、そこに「理想の教育」や「理想の人生」を持ち込もうとしても、時を巻き戻すことは不可能なのだ。

 

であるなら、今ここにいる自分が少しでもよく生きることができるような対症療法を提示するのも、悪くはないのではないだろうか。

 

「自由に、やりたいことをやって生きようよ」という無邪気な掛け声が、誰かの気持ちを暗くしているとしたら、僕はこう言ってあげたい。

 

「良い子」という呪いを携えて生きることだって、人間には選べるのだと。