広告代理店からAIベンチャーに転職します。

本日、2022年12月31日をもって、新卒から8年9か月勤めた広告代理店を退職する。

 

自分にたくさんの負荷をかけ、自分探しに明け暮れたファーストキャリアだった。

 

学生時代に「自分はやりたいことが無い」と結論付けて、飛び込んだ広告業界。初っ端から、テレビ局担当という試練を与えられ、ここでもまた「自分とは何者なのか」と自問することになった。

 

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社会人をやり始めて2-3年ほどして、もう、自分のなかにありもしない答えを見出そうとするのは止めよう、と思った。それよりも、人にGiveをして、その結果返ってきたものを大事にすることにした。

 

そのあり方を、僕は「良い子」と表現した。

 

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その後、優等生、八方美人、善人など、表現はいくつか変わってきているが、コンセプトは同じだ。

 

人が求めるものを提供し、そのフィードバックによって、自分の行き先を決めるという他人本位な生き方。

 

だが、善人はいつかその善性によって肉体が死ぬか、あるいは善人というアイデンティティを殺さざるを得ない。その予感があったから、僕は自分のブログを「善人を看取るまで」と名付けたのだ。

 

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この後、僕は純粋に善人でありたいお人よしではなく、そうあることによって他者から褒められることを求めている、極めて利己的な人間なのだ、と思い当たった。

 

良い子、善人、その他表現は何でもいいが、褒められたいという欲望を最短距離で満たせるのは、他人の望みを叶えることだ。だから僕はGiveをしたいと思ったのだ。

 

問題は、僕が、誰に、どのように、どのくらい褒められることを求めているのか。これがわかれば、自分が幸せに生きることができる。

 

 

 

転職には二つのステップがある。

 

一つ目は、今いる場所からなぜ離れる必要があるのか、を考えること。

 

二つ目は、次にどの場所に着地するのがいいのか、を考えること。

 

一つ目については、これまでに知り合ったいろんな人たちから「あなたはもっと広い世界で価値を出せる」と言われたこと。僕の言葉に直せば「あなたはもっと褒められうる」ということだ。

 

元々、僕は転職を積極的に検討するタイプではない。なぜなら、僕が褒められたい相手は、所属するコミュニティの構成員であるからだ。これは、会社に限らず、家族でも、学校のクラスでも、部活動でも、サークルでもそうだった。

 

ころころ所属先を変わっていては、褒められるはずもない。インフルエンサーフリーランスなど、そもそも所属を決めずに多くの人から喝采される方法もあるけど、僕にはそれは向いていないと感じていた。

 

だから、僕が転職を考えるとしたら、自分がもっと褒められうる、もっと広い世界のことを、誰かから教えてもらうしかない。今回の場合、その示唆をもたらしてくれたのは、現職の元同僚が多かった。

 

現職では、もうサチュレーションに到達しきっている「褒められ」を、さらに引き上げることができるのは、魅力的な提案に感じた。「良い子」だから、人がそう言ってくれるなら、それを信じてみようとも思った。こうして転職することを考えはじめた。

 

二つ目については、広告・マーケティングというある程度汎用性の高い(=褒められることに繋がりやすい)スキルに加えて、さらに褒められそうな(人々の役に立ちそうな)スキルは何だろうか?と考えたときに、AI・人工知能領域がありそうだと感じた。

 

僕自身が昔から数学が苦手だと感じていることもあって、「苦手を克服しなきゃ!」という優等生根性が働いたのもある。

 

僕は所属するコミュニティの価値基準を非常に重視する。カメレオンのようなものだ。テクノロジーを活用して未来を創ろうとしているコミュニティに所属すれば、必ず自分はそれを学ぼうとする。なぜならそれが褒められることに繋がるからだ。そういった仮説のもと、自分を強制的に学習させられる環境に身を投じるのが良いだろう、とも思った。

 

上記のツーステップを整理して、現職で二つ目的な働き方はできないのだろうか、と改めて上司にも相談したが、結論としては転職することになった。

 

(AI・人工知能領域の会社は数あれど、なぜ転職先の企業にしたのか、などの話はたくさんあるが、また機会があれば書いてみたい。)

 

 

 

僕はこれまで、あれがやりたいかも、これがやりたいかも、と言って、その半分も実現させてこなかった。

 

それは、自分が心で感じていることよりも、これがやりたいと言ったら一貫性があるな、これと言ったらかっこいいな、という、外部からの見え方をかなり重視していたためである。僕はアイデアはあっても実行力に欠けるため、心に火が点いていない状態では、やりきることができない。

 

ただ、転職を決めたいま、かなりの確信を持って感じていることがある。

 

それは、自分は人を助けたいのだ、ということ。

 

なぜなら、それは褒められることに直結するから。僕はモノや機械を相手にするのではなく、人間から褒められたい(ここでAIに褒められたらどうだ、という疑問が思い浮かんだので、Twitterにあげておく)。

 

 

そして、僕はやはり少人数が好きだから、近いうちにフリーでやりたいと思うのではないかと予想する。そのときは、コンサルティングコーチング、ティーチングなどの対人技術をフルに活かして、人に貢献できるような仕事を志すと思う。

 

その一方で、チームをつくることも好きだから、メンバー一人ひとりが自由に楽しくやれるチームづくりにも邁進するだろう。なぜなら、そういったチームでは、自分が虐げられることが無いからだ。

 

僕には「褒められたい」というポジティブな欲求と、「傷つけられたくない」というネガティブな欲求がある。前者だけでなく、後者を満たそうとして、僕は所属するコミュニティにおける評判を高めようと努力してきたんだな……と今ならわかる。だからチームづくりも好きなのだ。まあこの話も、今度詳しく書こう。

 

 

 

自分という謎を追いかけて、もう33年も生きてしまったが、今ではかなり謎の解明に近づいている感覚がある。

 

たぶん次のキャリアでも、自分を物語の主人公に仕立てて、人生を味わってゆくだろう。その物語をこうやって文章に起こす過程で、僕は必然的に私小説をものすことになるだろう。

 

皆様、またお会いしましょう。よいお年を。

【求人】メディアエージェンシーでのキャリアの紹介、あるいは僕がなぜ今もこの会社で働き続けているのかについて。

読者の皆様、お久しぶりです。ブログの書き方を忘れてしまったような気がする今日この頃です。

 

コロナ禍において多くの企業が直面しているように、僕の勤務先もまた、ここ数年人材の出入りが激化しております。企業としては成長曲線を描いているがゆえに、働いてくれる方を数多く募集しています。

 

今日はそんな企業のとあるチームのマネージャーとして、「僕はなぜこの会社で今も働き続けているのか?」ということを語ろうと思います。

 

どうしてそういうことを語ろうと思ったかと言うと、去っていった多くの仲間から、「なぜ今も働き続けているのか?」という意味合いの言葉を、表現を変えながら何度も投げかけられてきたからです。僕はその言葉に、少なからずネガティブなニュアンスを嗅いできました。つまり、それはむしろ質問というよりは反語であり、「もう辞めた方がいいんじゃないか?」と僕を促しているように感じたのです。

 

そして、僕はそのネガティブなニュアンスを百パーセント否定することもまたできないと思っています。つまり、いくつかの点で、去っていった仲間たちが感じているネガティブな認識は正しいものであると僕も認めているのです。

 

それでもなお、僕がこの企業で働き続けているのはなぜなのか。ネガティブな点とは、ポジティブな点とは何か。僕はこれから、この企業のなかでどのように働いていきたいのか。そういうことを語ってみようと思います。

 

もしこの記事を読んで、この企業で働くことに興味を持ってくれた方がいらっしゃったら、qnulp@yahoo.co.jpまでご連絡ください。まずはあなたの話も聞かせていただけると幸いです。

 

 

 

まずは自己紹介から。筆者はメディアエージェンシーという名称でカテゴライズされる企業で働いています。広告代理店のメディア部門と言い換えてもいいでしょう。

 

メディアエージェンシーと言っても、日本だとなかなかピンと来ないので、より詳細に説明してみます。

 

マーケティングの4PにおけるPromotionには、さまざまなソリューションがあります。広告業界にいる人間であれば、広告が最も身近に触れることになるソリューションかと思いますが、他にもPR、SP、セールス、オウンド・ソーシャルメディアなど、数多くのソリューションが存在します。

 

メディアエージェンシーとは、それらのソリューションをクライアントに提案するうえで、「メディア」が起点になるソリューションを考える存在です。

 

例えば、広告はメディア(パブリッシャー)が提供できる伝統的なソリューションの一つです。メディアエージェンシーは、そうした広告の出稿におけるメディアのプランニング(どのメディアに、どのくらいの予算を、どの期間に出稿するかという検討)や、実際のメディアバイイングを行っています。

 

ですが、メディアエージェンシーが提供できるソリューションは広告に留まりません。オウンドメディアのコンテンツを制作したり、SPの一種であるイベントを企画したり、広告クリエイティブそのものをつくったり、パートナー企業からデータを提供してもらってクライアントのCRMデータと繋げて新たなターゲットを発掘したり、と、広告領域に留まらないソリューションを提案することが可能です。

 

これらの例はすべて、パブリッシャーありきのソリューションです。テレビ局や雑誌社にオウンドメディアの記事や広告素材そのものを制作してもらう、新聞社や屋外媒体社と一緒にイベントの企画を立案・提言する、デジタル媒体からデータを提供してもらって新たな顧客開拓に繋げるなど、パブリッシャーがいなければ、上に挙げたようなメディアエージェンシーの業務は成立しません。もちろん、広告枠のプランニング・バイイングの業務についても言うに及ばずです。

 

したがって、僕がもしメディアエージェンシーとは何か、と聞かれたとしたら、「パブリッシャー(メディア)の持つアセットやソリューションを最適な形で組み合わせたりレバレッジさせたりすることで、クライアントのマーケティング課題の解決に貢献する存在」、と答えるでしょう。

 

 

 

そもそもなぜ広告代理店が存在するのか。今年の東京オリンピック電通が中抜きと叩かれていましたが、ただ中間に存在してマージンを抜くだけなら、批判されるとおり、害悪でしかない存在です。

 

昔と今とでは、広告代理店の存在意義は変わってきていると思います。昔は、広告代理店を通してしかやれないマーケティングソリューションがたくさんありました。代表的なのが、テレビや新聞の広告枠のバイイングであり、オリンピックのような国際的なイベントプロモーションです。

 

中抜きと批判されることも多いですが、マージンというお金の意味合いは、そのような特別な枠を「売れ残るリスク込みで」仕入れた広告代理店が、リスクを背負わずにその枠を活用したいクライアント企業に売っていくときに必要となる手数料であった、と言えるでしょう。現にテレビや新聞といったマスメディアは、大手広告代理店がリスクを背負って広告枠を買い切り媒体社に収益をもたらしたことによって、戦後の日本において媒体価値を伸ばしたという側面があります。

 

しかし、今やテレビ広告はインターネット上で買えるものになりました(参照:第三のテレビCM『SAS(スマート アド セールス)』とは)し、デジタル広告は一個人が自由に購入できる強力なマーケティングツールになりました。

 

そうした時代にもなお広告代理店が求められる理由は、「複雑化したマーケティングの世界のなかで、最適なソリューションをクライアントに届けられるから」だと僕は考えています。

 

メディアエージェンシーという、広告代理店の一業態においてもそれは同様です。パブリッシャー自体がデジタルワールドの恩恵を受けて指数関数的に増加しており、また個々のパブリッシャーが提供できるソリューションの幅もどんどん広がっています。そうしたパブリッシャーのパワーをマーケティングにどう活かしていくか。一事業会社であるクライアント側で、そのすべてを理解し、パブリッシャーと個別にコミュニケーションを取ってソリューションを開発していく時間や人的リソースは、なかなか確保できないでしょう。

 

そんな複雑化した世界にあって、パブリッシャー個々の強みを正しく把握して、クライアントのビジネスを推進できるソリューションを提供する、これがメディアエージェンシーの付加価値であり、存在意義だと思います。

 

 

 

こうした前段を踏まえて、「なぜ僕がこの会社で働き続けているのか」という問いに対する、具体的な回答をしていきましょう。

 

回答は4つです。どうしても抽象的に書かざるをえないところがありますので、具体的なケースについてもっと知りたい場合は、個別のやり取りにてお話しさせてください。

 

 

 

【理由①:データビジネスをゼロからつくっていく面白さがある】

 

突然ですが、メディアと切っても切れないものは何でしょうか。

 

答えはデータです。

 

メディアというものが、ターゲットにコンテンツを届けるための箱だとしたら、ターゲットは必ずそのメディアに何らかの足跡を残します。それは、ウェブサイトのアクセス数であったり、ソーシャルメディアのポストであったり、位置情報のデータであったり、視聴率であったりします。

 

つまり、メディアがあるところ、必ずデータが存在します。

 

メディアエージェンシーは、原則的には自分たちのメディアを持っていませんが、一方であらゆるメディアにアプローチできるフラットな存在です。

 

クライアント企業のビジネスにとって、どんなパブリッシャーのデータが必要とされているのかを考え、ブランドコラボならぬデータコラボのアイデアを考えてゆく。メディアの広告枠だけでなく、メディアから出てくるデータそのものをクライアントに提供し、CRMやオウンドのデータと接続して、さらに価値のあるデータをつくりだす。そうしてつくりだしたデータの付加価値に対して、メディアエージェンシーがフィーをもらう。

 

あるいは、媒体社が必要としているデータとデータ提供企業を結び付けて、メディアが提供できる新しいソリューションを開発してゆく。屋外広告とジオデータを結び付けて広告接触者を推測し、デジタルでリターゲティングをかけてゆく、などといった新メニューを開発できれば、メディアエージェンシーが媒体社にとって大きな付加価値をもたらせるかもしれません。

 

もちろん個人情報保護の時代ですから、どうやってデータを繋げるのかについては、慎重に進める必要がある。そこでまた、この時代が要請するデータやプライバシーの知見を深めることができる。

 

メディア側にいれば、自社のデータをビジネスにするのは当たり前の発想ですが、メディアエージェンシーにいるからこそ、あらゆるメディア、あらゆるクライアントを横並びにして、そこにデータをどう流通させると価値があるのか、と考えることができるのです。

 

 

 

【理由②:マーケティングソリューションの幅広い領域を設計・提案できる】

 

先ほど書いたように、パブリッシャーの持つアセットやソリューションを最適な形で組み合わせたりレバレッジさせたりすることで、クライアントのマーケティング課題の解決に貢献するのが、メディアエージェンシーという存在です。

 

それは、広告という狭い領域に留まりません。私が入社後に自ら提案した、またはチームとして提案したマーケティング領域の提案を見てみると、

  • CRMデータの分析を基にした来期の注力プロダクトの提言(経営戦略の提言および4PのProduct)
  • デジタルプラットフォーマーの広告配信データおよび3rd Partyデータの分析を基にしたキャンペーンインセンティブの提言(4PのPromotion領域、キャンペーン構築)
  • テレビのローカル局を活用した流通施策の提案(4PのPlace)
  • 新聞社を活用したイベント・ソーシャルメディアの連動企画の提案(Promotionのうち、イベントおよびソーシャル施策)
  • 戦略PRの提案(PromotionのうちPR)
  • 雑誌社によるオウンドメディアの記事や広告素材の制作(Promotionのうち、オウンド・コンテンツマーケティングおよび広告)
  • テレビ局のミニ番組制作およびミニ番組出演をきっかけにしたブランドアンバサダーのアサインメント(Promotionのうち、コンテンツマーケティングおよびインフルエンサー施策)
  • シネアドの媒体社と連携したジオターゲを活用した新しい広告メニューの開発(Promotionのうち広告)
  • デジタル、テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、屋外の六媒体すべてのタッチポイントにおける広告枠の提案(Promotionのうち広告)
  • デジタルパブリッシャーと組んでのクライアントへの2nd Partyデータ提供(1st Party DMPに接続することですべてのマーケティングソリューションと連携可能)
  • オウンドやソーシャルのデータ、CRMデータ、広告配信データ、位置情報データ、その他あらゆるデータを活用した、あらゆるマーケティングソリューション(広告、PR、イベント、オウンド・ソーシャルメディアマーケティング……)の効果検証(すべてのマーケティングソリューション)

……と、多岐に渡ります。末尾の()内にはマーケティングにおけるそれぞれの施策の立ち位置を入れてみました。

 

弊社は社員数が現在150名前後と、大規模な会社ではありません。それが弊社のアドバンテージでもあります。

 

電通博報堂でも上記の施策に携わることは可能でしょうし、何なら弊社よりもずっと大規模な形で関わることができると思います。ただし、一人の人間が、これだけ多岐に渡る提案に携わることは難しいと思います。電博のような巨大企業は、人的アセットが豊富にあるというアドバンテージをなるべく活用するために、社内においては縦割りの専門家を多数作ってゆくことになりやすいためです。

 

また、弊社では「越境すること」を重要な価値と掲げているため、例えばPRやインフルエンサーといった、パブリッシャーを介さない施策であっても、それぞれの専門であるパートナー企業と相談しながら提案していくことが可能です。そのあたりの自由度の高さも弊社の魅力です。

 

 

 

【理由③:チームビルディングを実地で経験していける】

 

3つ目は、ごく個人的な理由です。

 

これまで約8年、新卒から広告業界でキャリアを積んできたなかで、僕はプレーヤーとしてよりもマネジメントとしてのキャリアにより強い興味を感じるようになりました。

 

自分が快いと感じる理想国家をつくりたい。

 

ちょっと大それた言い方ですが、僕がチームビルディングを通して実現したいことは、この表現に集約されます。

 

その国では、誰もが自分自身の強みと性質を理解し、Giveの精神を持って他者へのシェアやフィードバックを行っており、組織構成員は相互にリスペクトしあっている。現場発の具体的かつ本質的なゴールを掲げ、そこに向かって邁進している。他の国に侵略することはなく、むしろ他の国にとって必要なことを提供し、その代わりにこちらの国の価値観や思想が他国にとっても有益であると思って取り入れてもらうことで、物理的な領土ではなく、自分たちの国のミームを流通させてゆく。

 

僕はストレングスファインダーをやると「最上志向」「コミュニケーション」「個別化」「社交性」「内省」+「包含」が上位に来ますが、それがよく表れた国家だなと我ながら思います。

 

 

このような国家は、もちろん僕自身が最もその恩恵を受けるのですが、同時にそこに住む人にとっても、非常に益がある場所であると僕は確信しています。

 

この国家を目指して、これまで2年半の間、さまざまなことに取り組んできました。そのことについては、既に昨年書いた記事にまとめています。

 

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僕は六年目から総勢10名前後の現チームをリードする立場として仕事に取り組んでいますが、チームについて好き勝手できることは、今の場所で働いている一つの魅力であることは間違いありません。

 

補足しておくと、チームビルディングについて、弊社内に特段ノウハウが整理されていたり、弊社が業界内の他社と比較して特に注力したりしているというわけではありません。現状、仮に僕が上述したようなチームビルディング施策を実施したことによって良い結果を出したとしても、そこに良いフィードバック(メンバーへのインセンティブや、オフィシャルな形での社内への横展開)がもたらされることもない、というのが現状の課題です……そこは変えなければなりません。

 

今後の自分の課題としては、社内だけでなく、社外も含めたネットワーキングを通じて、いかに人的リソースを確保し、国家を潤せるか?という点だと思っています。広告代理業は人がほぼすべてのビジネスです。土地や資材は必要ありません。これまでもそうしたネットワーキングは自主的にやってきましたが、いっそうこれからはそうした役割を担っていこうと思っています。

 

 

 

【理由④:会社としての新しい時代におけるミッションやゴールを策定し、それを体現していくことに携われる】

 

多くのメディアエージェンシーが「なぜ自分たちが世の中に存在しているのか」というミッションを持ち合わせていません。仮に持ち合わせていると主張していても、それを体現できていないケースが多いです。

 

残念ながら弊社も同様です。会社としてのミッションや目指すべきゴールが具体的かつ本質的に定められているかというと、僕はそうは感じません。

 

その理由は、メディアエージェンシーの成り立ちにあります。

 

以前 局担の記事 でも書いたように、広告代理店におけるメディア部門は元々代理店全体におけるプロフィットセンターを担っていました。

 

広告代理店のビジネスにおいて、ブランド戦略やクリエイティブはあくまで「おまけ」であって、それが実際にテレビなどの広告媒体に出稿されることで利益が生まれます。

 

したがって、メディア部門は「とにかく多額の出稿を、取りこぼしやミスなくメディアに流しきること」をゴールとして、営々とビジネスに取り組んできました。

 

こうした成り立ちであるがゆえに、メディアエージェンシーのゴールは、とにかく売り上げと利益をどのくらい確保できたのか、という点に設定されがちです。

 

ですが、今や人間が働くときに「なぜこの会社は世の中に存在しているのか?」という問いに答えられない企業は、選ばれにくくなってきています。ドラッカーがとうの昔に看破した「利益そのものは企業のゴールでは無い」という金言は、実際的な影響力をもって現代に蘇っているのです。

 

なぜなら、終身雇用をもはや考えなくなった人々は、「(そこで長い時間を過ごすことを前提にしての)人間関係や雇用条件が良いから」といったコミュニティ的な価値ではなく、「自分の成すべきことを成せる環境だから」といった自身の価値観をベースに、企業を選んでゆくと思われるためです。コロナによってリモートワークが普及したことで、その傾向はいっそう強まりました。

 

「この環境なら自分のやりたい方向に進める」と思ってもらえる企業にならなければ、特に現代の若者からは、魅力的な就業先として選んでもらえないのです。

 

言い換えれば、今メディアエージェンシーは過渡期にあり、昔のままではもはや通用しなくなりつつあるということです。対クライアント、対従業員、他にも様々な切り口から、現行のやり方では価値を提供できなくなりつつあります。だからこそ、その会社をチームという単位から変えていけるのは、とても面白いことだと僕は思っています。

 

何度も繰り返しますが、僕はメディアエージェンシーの価値は「パブリッシャーの持つアセットやソリューションを最適な形で組み合わせたりレバレッジさせたりすることで、クライアントのマーケティング課題の解決に貢献すること」だと思っています。

 

その具体的なかたちを自分のチームによって次々に体現していくことで、この価値が会社全体に浸透し、会社が新しいメディアエージェンシーとして生まれ変わってゆく様子を最前席で見ていたい。

 

去って行った仲間たちは、それにどのくらい時間が掛かるのか?と笑うかもしれませんが、そのスピードを少しでも加速するために、こういった自身のマイクロメディアを使って、共感してもらえるメンバーを募集しようと思いました。

 

 

 

もしここまでに書いた内容に少しでもピンと来る方がいらっしゃれば、qnulp@yahoo.co.jpまでメールくださいませ。

 

僕には人事権が無いので、僕のチームで一緒にやれるかはわかりませんが、そのための努力は惜しまずさせていただきます。

 

お読みいただきありがとうございました。

広告代理店のメディア部門でこれから起こりそうなこと

今日はこれまでの筆者の七年弱の広告業界での経験を踏まえて、これからの広告代理店のメディア部門で起こりそうなことを、思いつくままに書いてみたい。残念ながら、新卒入社した一社の事情しか知らないため、他社では既にその方向に沿って動いているところも多くあると思うが、ご容赦願いたい。

 

 

 

 

 

広告代理店のメディア部門でこれから起こりそうなこと:結論3点

 

1, トラディショナルメディアの業推やバイイングにおいて、媒体間の予算の政治的差配を考える役割が縮小され、媒体全体の価値を向上させる横断的な役割が求められる。

 

2, かつてのメディア担当のように、データ生産者との関係強化を図る営業チームが必要になる。

 

3, トラディショナルメディアの担当者にこそ、トリプルメディアの知見や、データ分析スキルが求められる。

 

 

 

 

 

 

 

1, トラディショナルメディアの業推やバイイングにおいて、媒体間の予算の政治的差配を考える役割が縮小され、媒体全体の価値を向上させる横断的な役割が求められる。

 

これまでの広告代理店のビジネスの源泉は、メディアマージンおよびキックバックにあった。それは、テレビや新聞を中心としたトラディショナルメディアへの投下予算が広告主の側に潤沢にあり、広告代理店はその巨大な予算をもとに、どのようなディールを媒体社と結び、どの媒体社に予算を送り込むことで自社の利益を確保するかという、媒体商社ビジネスを展開してきたためであった。

 

必然的に、対媒体社への予算投下の配分を決める「業推」(業務推進局)が、広告代理店媒体部の権力の中心に置かれることになる。業推は媒体社の出してくる広告枠の入札単価を調整し、それぞれの媒体社が納得できる条件のディールを結びながら、最終的に自社の利益を最大化できるような予算の配分を決定する。

 

すなわち、媒体社の生殺与奪権はこの「業推」に握られている。一方で、キー局や全国紙のような、広告出稿の選択肢が非常に限定されており、かつ影響力の巨大な媒体の機嫌を万が一損ねてしまうと、広告枠の買い付けに悪影響が生じ、広告主を満足させられるメディアバイイング業務が遂行できなくなってしまう。この場合、広告代理店と媒体社は共倒れとなる。

 

つまり、業推というのは、ニーズの食い違う広告主と媒体社の双方に満足してもらうために、媒体社に対して、政治的な配慮が求められる部署なのである。

 

ちなみに、これらはすべて、広告主の側に予算が潤沢にあるがゆえにできる芸当であった。トラディショナルメディアへの出稿額が右肩上がりであった時代には、テレビ局や新聞社に対して一斉に見積もりを取り、そのなかのどこかの媒体社から好条件の入札を引き出し、広告主に満足してもらえるバイイング作業を遂行することで、媒体へのさらなる出稿を受注するという好循環を生むことができた。

 

だが、数字からもわかるように、今やトラディショナルメディアへの出稿額は年々減少し続けており、業推が政治的差配をしようにも、そのための弾が揃っていない状況に陥っている。

 

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これまでの業推が、広告主からもらった予算の範疇で、どの媒体に良い顔をしてどの媒体に泣いてもらうかというゼロサムゲームで物事を考えていたとするならば、これからは、テレビ全体でどう価値を作るか、新聞全体でどう価値を作るか、あるいはそういったトラディショナルメディアとデジタルをどう連動させて価値を作るかといった、プラスサムゲームで物事を考えていかなければならないだろう。そうしないと、トラディショナルメディアの需要が、ますます落ちていってしまうからだ。

 

もちろん、政治的な駆け引きは今後も必要になるだろうが、それは個別の媒体社との向き合いのためというよりは、媒体間のアライアンスをどのように組めるか、各媒体社と調整するためである。

 

業推のさらに先にいるバイイングチームについて言えば、自分の担当局や担当系列、あるいは担当する売り物のことだけを考える局担ではなく、「そもそもテレビの価値とは何か?」を考えられるような担当が求められるだろうし、そういった座組みが広告代理店内部に用意されてゆくことだろう。具体的には、系列をまたいでのエリア区分でのテレビ担当や、タイム広告・スポット広告・TVerなどのデジタル配信プラットフォーム・イベントなど、テレビ局の持つアセットを縦横無尽に活用して企画を作るような役割の人間が、業推や局担のなかに、今後出現すると予想される。

 

 

 

2, かつてのメディア担当のように、データ生産者との関係強化を図る営業チームが必要になる。

 

これまでの広告代理店を支えてきたのがメディアビジネスであったならば、これからの広告代理店を支える根幹の一つとして、データビジネスが挙がってくるだろう。 

 

どこの業界でもデータアナリストの必要性は叫ばれているが、とりわけ広告代理店のメディア部門において、その需要は顕著になってきている。その理由は、メディアとデータの相性が非常に良いためである。メディアとはデータの取得装置であり、またクリエイティブと一緒になって新たな人の動き(データ)を生み出す刺激剤でもある。メディアあるところ、必ずデータが発生する。テレビの視聴率、デジタル広告のインプレッションやクリック数、オウンドメディアの訪問数や滞在時間など、メディアとデータは切っても切れない関係にある。

 

既に大手広告代理店各社は自社DMPを活用したソリューションの提供を始めており、そこではトラディショナルメディアをはじめとした様々なデータが統合され活用されると謳われている。

 

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人口トレンドが増加から減少へと反転し、また人々の行動が多様化した時代に、企業はマーケティング予算の使い方をシビアに検討するようになった。もはやデータ無くしてマーケティングは考えられない。そのような時代に、広告代理店の側でも、クライアントの課題解決のためにどのようなデータを創出すべきなのか、そのためにどのデータ生産者と手を組むのか、あるいはどのようにイチからデータを創出するのかを考えられる人間が、必要になってくる。

 

一般的に、データビジネスにおいて広告代理店は分が悪い、と言われる。それは自前のデータ取得装置を持っていないためだ。メディアやクライアントは、それぞれのファーストパーティメディアを持っており、そこから様々なデータを取得することができる。広告代理店は何も持っていない。だからこそ、海外メガエージェンシーグループはエージェンシートレーディングデスクをいち早く構築し、自社内における広告配信データの蓄積を図ってきた。上で述べたような国内の広告代理店におけるDMP構築も、海外勢のそういった動きとリンクするものと言えよう。

 

だが、データビジネスにおいて広告代理店は分が悪いというのは、データの一次生産者として広告代理店が機能しにくいという程度の意味に過ぎない。データを売り物としてビジネス化する場合、重要な点は「データを産生すること」以外にもいくつかある。それは「ショーケースを作ること」「データの価値づけをすること」「データの安定的な供給先を見つけること」である。

 

こうしたフェーズ、いわばデータの二次活用とでも呼ぶべきフェーズにおいては、広告代理店にも強みがある。なぜなら、これらのポイントは、メディアを売るときに重要視されることと同じだからだ。上で挙げたポイントを、それぞれメディアセールスの文脈に置き換えてみよう。「新規媒体やメニューの実績を作ること」「それらの価値づけをすること」「継続的にメディアを買ってくれるクライアントを見つけること」いずれもそのまま通用する。メディアを開発し、メディアを売って利益を生んできた広告代理店であれば、同じノウハウはデータビジネスにも横展開できるはずだ。

 

例えば、データの価値づけをする方法の一つとして、デジタル広告のCPAと同様に考えるというやり方がある。データのバイイングコストがいくらで、データ活用によって得られたCVがいくらで、結果データ活用が投資に見合うものだったかを考える、というやり方だ。クライアントによっては、競合から直接獲得したCVを重要視しているかもしれないし、新規ユーザーからのCVを重要視しているかもしれない。こういったクライアント個々の事情を踏まえて、それぞれのクライアントにカスタマイズされたデータ価値を立証できれば、それは一次生産者では付加できない価値を持つものになる可能性がある。

 

あるいは、データ生産者にデータの安定的な供給先を提供するために、これまで媒体社と結んできたような、キックバックの取り決めが有効かもしれない。これは、半年や一年といった一定期間にデータをどのくらい活用する、といった取り決めをデータ生産者と広告代理店で結んでおき、取り決めた水準に到達すれば、何%かのキックバックを広告代理店側に戻す、というビジネスである。こうしておけば、データ生産者側は大きなリスクを背負うことなく、広告代理店の営業力に頼ることができる。

 

この方向性をさらに突き詰めると、大手広告代理店の十八番である「買い切り」施策に至る。電通しか購入できない広告枠があることは広告業界の公然の事実だが、これをデータにも活用してしまえば、広告代理店側がすべてのデータを買い切り、売れ残りが無いように営業活動を行うことになる。ただし、その場合、仕入れ値と売り値の差額に関しては、リスクを取った広告代理店側が収益として懐に収めるというやり方だ。

 

他にも、いわゆるブランドコラボ的な発想をもとにした、データコラボという考え方も出てくるかもしれない。クライアントやメディアを横断できる広告代理店であるからこそ、クライアントに対して「このブランドと組んでデータを創りましょう」「このメディアのデータを活用してターゲット像をより立体的に把握しましょう」といった提案ができるかもしれない。

 

もちろんデータ生産者側も、広告代理店にやすやすとデータを提供することは無いだろう。現に、いくつかの巨大プラットフォーム企業は、広告代理店への営業よりも、クライアントへの直接営業を重視している向きがある。広告代理店側に残された時間はあまり無い。媒体の広告枠を開発するときと同じように、メディアにとってのデータ提供のメリットを提案できなければ、データの陣取り合戦で生き残ることは難しい。

 

今後もデータビジネス界隈は群雄割拠の状態であり、その全体像を眺めながら、クライアントにとって必要となるデータに目を付け、かつての媒体担当と同じように、データ生産者とのリレーションを構築し、ビジネスに繋げていく人員が、広告代理店側に必要になるだろう。

 

 

 

3, トラディショナルメディアの担当者にこそ、トリプルメディアの知見や、データ分析スキルが求められる。

 

トラディショナルメディアの効果検証は難しいと昔から言われてきた。キャンペーンの目的はブランディングです、と言われて、とりあえずテレビを中心にメディアプランを提案したものの、効果検証をどのように進めればよいのかがわからず、困った経験のある人も多いのではないだろうか。

 

テレビという媒体は、トラディショナルメディアのなかでは、比較的多くのデータを供給してきた媒体である。世帯視聴率に始まり、個人視聴率、リーチやフリークエンシー、あるいはTVCMの認知率なども、データとして存在している。最近では、「テレビの前にどのくらい多くの人がいるか」「それらの人々が、どのくらいテレビを注視しているか」といった「視聴質」なるデータを提供する会社も出てきている。だが、あくまでこれらはテレビ単体に閉じた検証に留まっていると言える。

 

また、テレビ以外のトラディショナルメディアについて言えば、メディアがどのようにユーザー行動に寄与しているかを見るのは難しいとされてきた。例えば新聞であれば、J-Monitorという意識調査はあっても、紙面を見たユーザーがその後どのような行動を経ているのかは、実際のログデータとして観測するのが難しいとされてきた。

 

だが、人々の行動に影響を及ぼすようなコミュニケーションであれば、その余波は必ずメディアに現れる。それはペイドメディアの領域には限らない。お正月の新聞広告がTwitterなどのソーシャルメディアで取り上げられ、大きな話題となるのはもはや風物詩の感があるし、テレビCMの放送直後にゲームアプリのダウンロード数が跳ねることは様々な事例から示唆されている。ペイドメディアであっても、テレビCMで連呼されたキャッチコピーがGoogleで検索され、検索広告で買ったキーワードのうちそのコピー由来のCVが跳ね上がるのはよくある光景だ。

 

こういった他のメディアとの連動性において、トラディショナルメディアの効果検証を行うことは十分に可能だ。その際に重要となるのが、各トラディショナルメディアの性質なのである。

 

例えばテレビであれば、ユーザー行動は広告を視聴した直後に起きると考えるのが妥当だろう。その理由は、テレビの広告は15秒や30秒の放送が終わったあとは消えてしまい、別の広告やコンテンツが画面を占めることになるため、ユーザーの心の表層に長く残らないと考えられるからだ。また、今ではスマホを片手にテレビを視聴することも多いため、他のトラディショナル媒体よりも、検索などの行動をすぐに起こしやすいと考えられる。

 

であれば、テレビCMの放送直後に、ペイド・オウンド・ソーシャルのそれぞれの領域でどのような余波が観測されるか、網を張って構えておくことが重要だ。私が過去行った分析のなかでも、テレビCMの放送後のオウンドメディアのトラフィックを一日単位で見ていっても変化は見られなかったが、一時間単位で見ていったところ、途端にトラフィックのスパイクが現れた事例があった。また、同時間帯にテレビCMを集中させた際には、数秒のうちにいくつものソーシャルポストが発生した事例もあった。ラジオ広告もテレビに似ていると思われ、ユーザー行動としてはソーシャルポストに大きく余波が現れる。

 

これが新聞広告となると、広告の余波はもう少し緩やかに現れる。朝刊に出稿した場合、最も広告が閲読される時間帯は朝の7-9時ごろで、そのままお昼ごろまで閲読傾向は続くものの、夕方にかけて一旦は途絶える。しかし、夜の8-10時ごろに、再び閲読傾向が強まるのだ。これは、朝ゆっくり読めなかった朝刊を、ユーザーが仕事から帰宅したあとで、じっくり読むことを示している。オウンドメディアのトラフィックも、テレビとは異なり、出稿したその当日の一日分のトラフィックが大きく跳ねる傾向にある。

 

例えばこれが雑誌であれば、出稿日そのものよりも直近の休日などに読まれる傾向が強まるだろうし、屋外広告であれば、ビジネスエリアへの掲出であれば平日に、繁華街であれば土日に、それぞれユーザー接触が増加するだろう(屋外広告については、コロナによる影響を考慮する必要はある)。

 

そして、デジタル広告は、それ自体ペイドメディアでありながら、トラディショナルメディアの効果を測定する探査機のような役割も同時に果たすことができる。例えば上で挙げたようにテレビと検索広告の連動を調べることもできるし、新聞についてソーシャル上でコメントしているユーザーとそうでないユーザーでそれぞれ同一の広告素材を配信して比較すれば、新聞広告に(間接的にせよ)接触したユーザーの態度変容を分析できる。テレビや新聞から流入したユーザーが多いと判明している期間や時間帯があるのなら、その時間帯でセグメントを作ってGoogle広告などにプッシュし、通常のリターゲティングの結果と時間指定のリターゲティングの結果を比較すれば、サイト来訪の質について分析できる。

 

以上の事例を見てもおわかりのように、トラディショナルメディアの効果検証を行う際には、他のトリプルメディアとの連携が必須なのである。その際、オウンドメディアの計測ツール、ソーシャルメディアの分析ツール、そしてペイドメディア(主にデジタル)の広告配信結果などが、組み合わせ先として挙がってくる。ただし、その分析を行うためには、トリプルメディア全体への広範な知識と、それぞれのトラディショナルメディアの性質へのある程度の理解の両方が必要だ。

 

特に、トラディショナルメディアを考える際には「時間軸」の切り口が重要である。テレビやラジオ、屋外広告は比較的即時反応だし、新聞は数日まで、雑誌は数週間程度まで、ユーザー行動への直接の寄与が存在すると考えられる。もちろん、カテゴリーによって、そのユーザー行動がそのまま購買に繋がるのか、それとも内容理解や情報精査といった購買の前のフェーズにあたるのかは異なってくる。

 

なお、実際に分析する際には、クロス集計と単相関の分析で八割がたカバーできると考える。もし、残りの二割を積み上げたいのであれば、統計学やプログラミングについて学ぶ必要があると思うが、実務でそこまで必要になることはあまり無い。高度な分析スキルよりも、整然データの作り方や、データ突合のやり方、Vlookupで分析したい切り口をカテゴライズする方法、ピボットテーブルの扱い方など、初歩的なスキルに習熟すればOKだ。言い換えれば、初歩のデータ分析スキルは、こうした領域をまたぐ効果検証において、絶対に必要である。

 

GDPRの施行により、個人を特定できるデータの利用については、今後どうなっていくのか不透明な時代に差し掛かっている。そんななかで、トラディショナルメディアの出稿とトリプルメディアでの分析を組み合わせれば、個人を特定してデータ接続することは叶わずとも、トラディショナルメディアに接触したユーザーの態度変容を、集団として明らかにすることができる。

 

もっと言えば、別にトラディショナルメディアを扱っていなくても、例えばPRやイベント、メールマガジンやDM、そういったあらゆるコミュニケーション施策が、どのようにユーザー行動に影響を与えているか、同じように考えていくことができるだろう。まずは広告代理店のメインの売り物であったトラディショナルメディアについて、これまでの知見を活かして新たな価値を見出していくためには、トリプルメディアの知識とデータ分析のスキルが、必須のスキルセットになってゆくと思う。

 

 

 

広告代理店が今後どうなっていくのか、私自身はそこまで強い興味は無いが、広告代理店が果たしていた役割は、今後も確実に必要とされるだろう。その意味で、上記のような方向性のスキルは、今後もマーケティングの領域において必要とされるはずだ。

 

今広告代理店のメディア部門で働いている方、あるいはこれからその場所を目指そうとする方にとって、情報の整理になればと思って書かせていただいた。何かしら参考になれば幸いである。

広告代理店の現場チームリーダーとしてやってきたことのまとめ

2019年の途中から、就業先の広告代理店でチームリーダーを務めるようになり、チームマネジメントについて考える機会が多くなった。

 

この記事では、ここまでの1年半で私が実施してきたことを3つまとめてみた。広告業界やそこに近い業界で働いている方々にとって、あるいはチームマネジメントに興味のある方にとって、何かしら参考になる内容が含まれていれば幸いだ。

 

なお、筆者はメディアエージェンシーと呼ばれるカテゴリーの広告代理店に所属しており、業務内容としてはメディアプランニングが中心となる。あらかじめご了承いただきたい。

 

 

 

 

・特定メディアのプランニングの担当制から、プロジェクトベース(キャンペーンもしくはブランディングのお題ベース)のプランニングの担当制に切り替えた。

 

特に、あまり規模の大きくない広告代理店に勤務されている方であれば、ペイドメディア全体の予算アロケーションを決めるメディアプランニングの領域と、その先の個別のメディア(デジタル、テレビ…)の戦術を策定する業推の領域の両方を一人の人間が担う必要が生じて、どちらに力点を置くか、悩んだことがあるのではないだろうか。

 

弊社も例に漏れず、メディアプランナーと業推の両方に潤沢に人員を割ける状況ではないため、これまでは業務の効率化を優先し、媒体ごとにプランニングの担当者を分けるやり方(業推領域を中心に業務を担当させるやり方)をとっていた。つまり、デジタルのプランはすべてデジタルに強いプランナーが、テレビはすべてテレビに強いプランナーが、それぞれ担当していたのである。

 

このやり方のメリットは、同一メディアに掛かる媒体や予算の情報をすべて特定の人間に集約できるため、効率よくプランニング業務をこなせる点にある。

 

一方で、デメリットとしては、クライアントの個々のプロジェクトに最適化したメディアプランを策定しにくい点、単一のメディアの世界に視野が限定され、他メディアとのシナジーを生むプランが提案できにくい点、さらには、特定メディアのプランニング業務が集中した際、メンバーのスイッチが利かずに業務の負荷が偏ってしまう点などが挙げられる。また、副次的なデメリットとして、同じ媒体ばかりを担当していると担当者が飽きてしまうため、アウトプットが縮小再生産に向かいやすく、モチベーション、スキルともに低下しやすくなることも挙げられる。

 

そこで、私がチームに加わった時点から少しずつ時間をかけて、各メンバーはメディアの担当ではなく、個々のプロジェクトを担当する形に移行してきた。もちろん、メンバー各員のバックグラウンドを活かしながら、70%程度を既知の知見でカバーでき、30%程度は学習の必要な未知の領域として課し、その領域に詳しい別のメンバーの力を借りながら、徐々に習熟できるようにした。

 

この過程で感じたことは、人間は基本的に学習をしたい生き物であるということだ。それまで特定の媒体のプランニングに追われ、新しいことをなかなか提案できなかったメンバーが、このチーム体制に変えたところ、未知の領域における学習の負荷がかかっているにも関わらず、既存の知見と新たに得た知見を組み合わせて新鮮な提案を行う姿を何度も見てきた。単にインターナルの雰囲気が良くなった、アウトプットが良くなったという身内からの評価だけでなく、クライアントからも、良い評価をいただくことができている(詳述は差し控えるが、客観的に数字で示せる結果である)。

 

ただし、人間に学習欲求があると言っても、安全に学習ができる保証が無ければ、その欲求は潰されてしまう。したがって、こういったやり方を取り入れる際は、①メンバー各員が必ず習得しなければならないスキルは何かを棚卸しすること、②その必達スキルを確実に教えられるメンバーがチーム内に存在すること、③学習することが推奨・促進されるチームカルチャーであること、が重要である。

 

①②については詳述するまでもないと思うが、③については、後ほど下段にて再び触れることにしたい。

 

「クライアント目線に立った統合的なコミュニケーションの提案」は、広告代理店が近年ずっと突きつけられている課題であるが、一方で、業推を中心とした媒体商社ビジネスが中心であった広告代理店にとって、なかなかクリアできない課題でもあると思う。ただ、上記のようにプロジェクトベースでの担当に変えてゆくことで、個人の努力ベースではなく環境の側から、クライアントの求めているアウトプットが出てきやすい形にチームを変えることはできるのではないかと思う。

 

 

 

・メンバーにとって「仕事が面白い!」と感じられる状態を生み出すために、学習が成立する環境を率先して整えた。

 

日々の仕事がつまらないと感じている人は多いだろう。実際、私も仕事のだいたい80%は、そこまで面白い部分では無いと感じる。だが、残りの20%は自分と自分を取り巻く環境次第で面白くすることができる。その20%にあたるのが「フロー状態」である。

 

「フロー状態」とは、心理学者であるミハイ・チクセントミハイ氏が『フロー体験 喜びの現象学』という著書で提唱した概念で、人間が幸福な生活を送る上で非常に重要な状態であると規定されており、下記のように定義される。

 

一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態

(『フロー体験 喜びの現象学』P.5)

 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

 

 

同著のP.62-63に書かれていることをまとめると、「フロー体験」は下記の要素を持つ。

  • 達成できる見通しのある課題に取り組んでいる
  • 自分のしていることに集中している
  • 明瞭な目標が設定されている
  • 直接的なフィードバックがある
  • 日常生活の気苦労や欲求不満を忘れるような没入状態にある
  • 自己についての感覚が消失している
  • 時間の感覚が変化する

 

さらに、フロー状態を図で表してみると、それは下図の右上の「Flow」の領域に該当するとき、つまり、挑戦する物事の難易度(縦軸)が高く、かつ自分の持つ能力(横軸)も高くなるときである、という。難易度の高さに能力が見合っていないと不安(Anxiety)に陥り、能力ばかりが高くて難易度が低いとリラックス(Relaxation)状態に入るが下手をするとつまらない(Boredom)と感じる、とのことだ。

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Challenge vs Skill

 メディアプランニングの業務において、上記の「フロー体験」、つまり「仕事が面白すぎてたまらない状態」が何にあたるのか考えてみると、それは「自身の知見を横断的に活用して、クライアントに満足してもらえるプランを提案でき、その結果世の中を動かすこと」ではないかと思う。

 

そして、上記のチャートで示したところの「高難易度」にあたるプランとは、複数のメディアを活用するプランであったり、ペイドメディア以外のオウンドやソーシャルメディアの領域を含むプランであったり、あるいは、クリエイティブ開発やクリエイティブとのシナジー創出が求められるプランであったりするだろう。高難易度と言いながらも、これらは昨今のメディアプランニングの領域において、クライアントから日常的に投げかけられているお題でもある。

 

そうした高難易度のチャレンジに応えるためには、学習とフィードバックのループがチーム内で自発的に発生し、メンバー各員の能力が高まってゆく必要がある。

 

ここで、先述した「③学習することが推奨・促進されるチームカルチャーであること」に触れたい。

 

上段でも述べたが、人間は基本的に学習することが好きな生き物である。立花隆氏の『僕はこんな本を読んできた』に、「ヒトの祖先はなぜ住み慣れたジャングルから未知で危険なサバンナに出て行ったのか。それは好奇心があったからだ。すなわち人間には好奇心が先天的に備わっている」という記述があるのだが、改めてその言葉は真実であると思う。

 

ただし、チームメンバーの自発的な学習が成立するためには、いくつかの条件がある。

  • 担当プロジェクトに関する決定権は、プロジェクトを担当するメンバーにあること(他のメンバーから指図を受けないこと、ただしアドバイスは推奨される)
  • あるメンバーからチームに対して何らかのアウトプットがあった際、それに対して他のメンバーから即時的かつ建設的なフィードバックがあること
  • あるメンバーの学習のために、他のメンバーの時間や労力の提供が惜しまれないこと
  • チーム内で様々な事柄についてオープンにシェアされる機会があること

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フロー状態の図

私が行ったのは、上記の条件およびフロー状態のチャートをチームメンバー全員に明示し、「このチームではこれらの要素を重要視します」と伝えたうえで、Teamsにあがった問いかけやチーム宛てのメールに対して率先してフィードバックを行ったり、新しいことを学びたそうなメンバーに対して自ら「何か私が提供できるスキルのなかで学びたいことはありますか?」と投げかけて学習機会を設けたり、自らの担当プロジェクトにおいて新たな発見があった際に「他のプロジェクトでこう活かせるのではないか?」というインプットと併せてチーム内に共有したり、といったことであった。

 

特に意識したことは、心理的安全性の確保である。三十代、四十代といった、それなりに経験を有する年代に差し掛かってくると、「学習」は恥ずかしいものであり、過去の経験をベースに仕事をこなしたいと思う人が増えてくる。また、自身のスキルは自分だけのものであり、人に教えて競争相手を増やしたくないと思う気持ちもあるようだ。

 

そういったメンバーに対して、まずはリーダーからGIVEをすることで、メンバーの心理的障壁を取り除き、チーム内での相互学習に前向きになってもらう。また、どのような発言やアウトプットであっても、前向きに取り扱われるチームカルチャーを体感してもらう。人は他人からバカだと思われたくないものだ。リーダーが率先して些細なこともシェアすることで、「このチームではどんなこともシェアしてよいのだ」と思ってもらう。そうして、他のメンバーの学習に貢献し、また自身の学習を深めてゆくことで、自らの能力と自信を高めてもらい、メンバー各員にフローに到達してもらう。

 

あくまでインターナルの話ではあるが、このように学習を重んじるチームカルチャーを構築した結果、「これまで所属したどの会社のどの業務と比べても、このチームでの経験が面白く、忘れられないものになった」という趣旨のフィードバックを、複数のメンバーからもらうことができた。

 

ただ、こういったチームを体現できたのは、私のやりたかったことに共感し協業してくれたチームメンバーのおかげであり、リーダーはあくまで最初のきっかけを与えただけに過ぎない。その意味で、私と共に働いてくれたチームメンバーの皆さんに深く感謝していることを、ここに付け加えておきたい。

 

 

 

・ストレングスファインダーの導入により、メンバー相互の理解促進とリスペクト醸成を図った。

 

上段で、学習環境の整備において重要なのは心理的安全性の確保であると述べた。

 

心理的安全性の生み方について、詳しくは本家Googleの記事を参照いただければと思うが、私はここに書かれていることの他にも、重要な要素があると考えている。

 

それは、メンバー個々の持つ特性を、メンバー各員に理解してもらうことである。おそらく、Googleにおいては、個々人の特性は個々人自身によって語られるべきと考えられているため、上記のリンク先の記事では明言されていないのだろう。私はリーダー自身もそれぞれのメンバーが他のメンバーに理解されやすくするサポートをするべきだと考えている。

 

人は、どんな性格なのかわからない人間と一緒に仕事をしたときに、大きなストレスを感じることがある。例えば、メッセージやメールを一刻も早く処理したい人間もいれば、きちんと納得したうえで丁寧に返したい人間もいる。前者にとって後者は鈍重な人間に、後者にとって前者は乱暴な人間に映るかもしれない。そういった誤解がひとたび生まれると、和解に至るまでに長い時間が掛かる可能性がある。あるいは、そのようなすれ違いがもとで、決定的な亀裂が生じるかもしれない。それは、相互信頼を基調とする学習するチームにとって大きな痛手だ。

 

そこで導入したのが、ストレングスファインダー®という自己分析ツールであった。

 

www.gallup.com

 

ご存じの方も多いと思うが、ストレングスファインダー®とは、アメリカのギャラップ社が開発した自己分析テストであり、上記のサイトによると、これまでに2400万人以上のユーザーがテストを受けている(2021年1月1日時点)。テストを受けると、34個の資質のなかから、自分が優れている点の上位5つを表示してくれる。

 

ちなみに私の資質を当てはまるものから順に5個挙げると、

  • コミュニケーション(自分の考えを言葉で表現するのが得意)
  • 個別化(各人のユニークな資質に関心を持つ)
  • 最上志向(長所に着目する、ゼロからプラスを作ることが好き)
  • 内省(内観的で知的な議論を好む)
  • 社交性(新しく出会った人を味方に付けることが得意)

となる。また逆に、当てはまらないものから順に5個挙げると、

  • 指令性(自分や他人について決断を下す)
  • 競争性(自分の努力や進歩を他の人と競争させ、勝利したい)
  • 回復志向(問題を解決すること、マイナスをゼロに戻すことが好き)
  • 公平性(あらゆる人を平等に扱うことを重要視する)
  • 規律性(身の回りや生活を秩序立てたい)

となる。私を知っている方からすると、かなり当たっていると思われるのではないだろうか。

 

余談であるが、特にこのなかでユニークなのは、内省と社交性がトップ5に同時に出現している点らしい。統計的には共存しにくい資質のようだ。確かに私のなかには「自分の内にこもって一人で考えたい性質」と「広く人々と出会い、また仲良くしたい性質」が同居しており、それらの性質が気まぐれに出現して、自分自身も戸惑うことがある。パーティに参加して序盤はわいわいやっているが、終盤は一人で酒を飲み物思いに耽っている、そんな経験は日常茶飯事だ。メンヘラのような性質だが、レアだと言われるとなんだか嬉しい。

 

さて、このテストの実施にあたり、注意したことは3つだ。

 

  • テストの結果でその人の人となりを決めつけない

 

このテストでその人のすべてがわかるなどと思ってはいけない。まずは、テストを受けてみてこのような結果が出ているが、思い当たる節はありますか?という形で、本人に確認しながら、資質について解説を加えるべきである。なぜなら、その人自身について語る際にはその人の感覚が優先されるべきであり、それをないがしろにしたまま、テストの結果を中心にしてその人を語り、理解したつもりになってしまうほど、愚かなことは無いからである。

 

また、結果がこうであったからと言って、今後その結果に引きずられるようにして生きる必要もない。あくまでテストがそうであっただけで、自分自身が自分についてどう捉えるかは自由である。自分を捉える補助線として、こういったテストを活用してみるということだ。

 

  • どの資質が良く、どの資質が悪いということは無いため、資質自体に着目するよりは、その資質をどう活かすかを業務の具体例を交えて示す

 

ストレングスファインダー®関連のサイトを読むと書いてあることだが、「仕事がうまくいく資質」「人生が成功する資質」という絶対的な資質は無い。どの資質もあくまでニュートラルなものであり、それをどう活かすかはその人次第である。

 

例えば、私の持っている最上志向という資質は、プラスを積み上げていく業務(新たな施策の実施、収益のさらなる増大など)を好み、逆にマイナスをゼロに戻す業務(エラーの発見や再発防止策の策定、ミスについての謝罪など)は苦手だとされている。元来トラブルシューティング系の業務にはあまり向いてはいない資質だが、仮にミスをして謝罪するシーンに直面した場合、物事の見方を変えると上手くいく。つまり、「ミスをしたことで評価がマイナスになった」と考えるのではなく、「ミスをした今この地点がゼロで、ここから謝罪対応も含めてプラスに持っていく」と考えるのである。いわゆるリフレーミングである。こういった示唆を、チームメンバーに対して、具体的に言葉で与えてゆく。

 

人を動かせるリーダーというのは、チームメンバーの資質を捉え、その上で、その人がどのように声を掛けてもらえるとモチベーションを高められるのかを判断して、実行していける人なのだと思う。

 

  • チーム全体を見渡して、類似性と相補性に着目する 

 

恋人同士で、類似性と相補性があると上手くいく、と聞いたことは無いだろうか。これはチームにも当てはまる。

 

自分たちのチームでストレングスファインダー®を実施したとき、チーム内の多くのメンバーが持っていた資質は、「個別化」(出現率:62.5%、日本人平均は24.1%)、「学習欲」(同50.0%、24.5%)、「ポジティブ」(同50.0%、22.15%)であった(ソース:

https://www.le-chat-dort.net/japanese-many/134/#rtoc-1

)。もちろん、ビジネスの世界の場合、業界や社風によって、チームを構成するメンバーの性質に強いバイアスが掛かるため、単純に日本人平均値と比較することはできないが、「自分たちのチームはこういった資質を持つメンバーを多く抱えるチームなんだ」と感じ、自分たちのチームの強みや取りやすい行動、あるいは陥りやすいリスクなどについて、客観視できるだろう。

 

また一方で、相補的な資質についても注目するとよい。例えば、上記で挙げた「最上志向」は「回復志向」と対になる資質である。最上志向がゼロからプラスを積み上げる資質であるのに対して、回復志向はマイナスからゼロに戻す資質である。最上志向が苦手な業務は、回復志向が得意であり、逆もまた然りである。他にも、対になる資質はいくつかあるため、そういった相補的な性質を持つメンバー同士で同じプロジェクトを担当できれば、チーム全体の力は上がる。組織やチームとはハリネズミであり、誰かができないことを別の誰かが補えれば、チーム全体が強くなるのだ。

 

 

 

これもまた余談であるが、私がこうやってストレングスファインダー®を活用してチーム力の向上に努めたこと自体に、私の上位の資質がよく表れていると思う。個人の強みにフォーカスし(個別化、最上志向)、テストの結果を全員に共有しながら解説を加える(コミュニケーション)。その際、メンバー各員がそれぞれの強みを理解できるように語る(社交性、また上記には無いが6位の「包含」)。自分を知ることは他者を知ることでもあり、それがまた更なる自分を知ることにも繋がる。

 

上記のストレングスファインダー®の導入により、あくまで体感ではあるが、チーム内において「あの人の強みはこういう部分にあるから、こういう仕事がいいんじゃないか」「あの人とあの人にタッグを組んでプロジェクトを任せるといいんじゃないか」といった会話が生まれるようになった。今ではストレングスファインダー®は「ストファイ」と呼ばれ、チーム内で親しまれている。

 

テストを受けるには、↑の公式サイトからオンラインで購入するか、下記の書籍を購入することが必要になるので、自分自身についてより深く理解し、今後の人生に活かしたい人は、やってみるのが良いだろう。

 

 

 

  

 

 

ここまでがやってきたことのまとめだが、余談として、これからやりたいことも下記に記しておく。

 

  • メディアプランニングスキルの言語化、ロードマップ化

 

学習することが重要であると上記には書いたが、何を学習したいのかをメンバー本人が自分で決めることもまた重要である。一方、メディアプランニングというスキルがあまりオープンに出回っていないこともあり、スキルのかなりの部分が口伝として伝えられるに留まっている。

 

したがって、このチームでは何が学べるのかについて一覧表を作成し、どういったスキルセットを持ちたいのかを1on1でヒアリングしながら、そのスキルを習得するのに適したプロジェクトを担当してもらうことを考えている。

 

基礎的なところでは、ペイドデジタルメディアのプランニングと運用や、テレビのプランニング。少し発展してくると、ペイドメディア全体の予算アロケーションや、競合ブランドの広告活動の分析などが入り、さらに発展すると、クリエイティブも含めた統合的なコミュニケーションの戦略策定や、初歩的なデータ分析スキル、データビジネスについての知見などが入ってくる形を想定している。これらの項目に加え、具体的なスキルの内容、そのスキルのキャリアにおける活かされ方、習得難易度と時間などを、情報として付け加えるのが良いだろう。

 

  • プロジェクト担当制による孤立化を防ぐ施策の導入

 

プロジェクト担当制の弊害として、個々のプロジェクト担当者が孤立化するリスクが挙げられる。メンバー各員にプロジェクトの全権を預けるため、何かまずいことが起こっても、遠慮や我慢が先に立ち、悲鳴を上げられなくなる可能性があるのだ。これを防ぐために、「助言プロセス」というものを導入したい。

 

「助言プロセス」とは、組織マネジメントに関する画期的な著書である『ティール組織』で紹介されているシステムの一つで、下記のように定義される。

 

それは実に簡単な仕組みだ。原則として、組織内のだれがどんな決定を下してもかまわない。ただしその前に、すべての関係者とその問題の専門家に助言を求めなければならないのだ。決定を下そうという人には、一つ一つの助言をすべて取り入れる義務はない。目的は、全員の希望を取り入れて内容の薄くなった妥協を図ることではない。しかし必ず関係者に助言を求め、それらを真剣に検討しなければならない。

(『ティール組織』位置No.2830-2842)

 

 

つまり、プロジェクト担当者は、チームメンバーに「必ず」現在のプロジェクトの進捗状況について共有し、助言を求めなければならない、というルールを取り入れる。逆に言えば、これをルール化することで、遠慮や我慢といった心理的な障壁を、可能な限り取り除くことを目指す。

 

既にチーム内には各プロジェクトの進捗を共有する定例会が存在しているので、その場においてメンバー各員が共有する内容を「プロジェクトのステータス共有」「知見・スキル共有」「プロジェクトについての相談」に分け、現在のステータスを共有してもらいながら、助言プロセスをいつでも発動できるようにしておきたい。

 

また、チームメンバー各員において、シェア・フィードバック・コメント・アドバイスなどが重要であるとし、いつでも誰からの相談でも受けあうカルチャーを維持していくことは言うまでもない。

 

  • 業推的な媒体情報集約・最適配分窓口の確立

 

先ほど、「これまでやってきたこと」のなかで、業推的な業務には力点を置かないと記載したが、これはあくまで「メディアに偏ったプランニングをしない」という点に限っての話であった。

 

業推的な役割を置かずにプロジェクト担当制をとった反省点として、各媒体の情報集約装置が無くなってしまったという点が挙げられる。具体的に言うと、現在テレビの枠状況はどうなっているのか、どの番組が空き枠なのか、雑誌の企画でクライアントにフィットするものは無いか、デジタルの各媒体の最新のメニューにはどのようなものがあるのか、こういった情報を集約し、チームメンバー各員に最適配分する役割が無くなってしまったのである。こうなると、媒体からの情報が目についた人間が情報集約を行わざるをえなくなってしまい、業務の偏りが生じる。

 

そこで、メンバー各員に特定の媒体の担当を割り振って、その媒体からの情報集約と、媒体とメンバー間のリレーションづくりを担当してもらうことにした。

 

特にデジタル媒体との窓口になる役割は、これまで媒体とのリレーションを持っていた人間に集中しやすく、こういった業務の偏りを解消することが短期的な目的である。各媒体を担当する個人にとっては、媒体の最新の知見を溜めやすく、メリットがある。さらに、各媒体から集約された情報と、チーム内で進行している各プロジェクトを見比べて、どの企画や媒体とどのプロジェクト担当者を繋げばよいのかをジャッジして人と人とを繋いでゆく、チームマネジメント的な観点も自然と身に付いてゆく。これが業推的な役割を置く長期的かつ副次的な目的である。

 

業推制とプロジェクト担当制のどのあたりでバランスをとるのが良いかは広告代理店のテーマだと思うし、これからも最適位置を見定めて、振り返りと修正を行っていきたい。

 

 

 

2019年から、新米リーダーとしていろいろな施策に取り組ませてもらい、そのいくつかは確実にチームのカルチャーとして浸透したと信じている。まだ公式なマネージャーという立ち位置にはいない自分だが、こういった実験を自由にさせてもらえる場所はありがたい。

 

思っていたよりも、自分はチームをつくることが好きなようだし、広告のスペシャリストとして生きていくよりは、こういう風にチームをつくっていくのが性に合っているとなんとなく感じている。その理由はよくわからないのだが、チームメンバーが個々の特性を発揮してそれぞれが称えられ、またそのチームのハブとして自分が称えられていることが、自分ひとりで何かを成し遂げるよりも、ずっと大きな快楽を私にもたらしてくれていることは確かだ。元来、褒められることが大好きな自分だが、身近なところにいる他者が褒められているシーンもまた、自分にとって報酬となるのだろう。

 

一方で、所属する組織がチームビルディングの価値をどのように考えているかということも、今後のキャリアにおいて常に注視していかなければならないと思う。言い換えれば、良いチームをつくることが大事にされている世界とそうでない世界とでは、自身に与えられる権限や報酬が変わってくるし、当然のことながら、チームビルディングがより報われる世界に生きた方が、自分としても気持ちが良い。

 

私は、チームで出した成果は、チームに還元されるべきだと考えている。例えば、チームの成果が認められれば、そのチームが採用や異動に関して人事的な権限を発揮できたり、チームに対する報酬の配分の仕方をある程度決められたりすると、チームが機能することに対してきちんとフィードバックが働くことになり、望ましい。組織としてチームに報いることは、なにもチームリーダーやチームメンバーの個々の待遇を引き上げることに限らないのだ。

 

どのようなチームをつくりたいか、そしてそのチームのなかで自分がどのような役割を果たしたいかが見えてきたことは、この一年半の大きな収穫であった。そういったチームが半永久的に自走するためには何が必要なのか、そしてそれは既存の組織で与えられるものなのかを見定めることが、次のステップとなるだろう。

 

さようなら、20代。僕が無限の可能性を夢見ていた時代よ。

大学生や若いフリーランスらしき人々が溢れる新宿の電源カフェで、この文章を書いている。

 

みんな胸を張ってマックブックを叩き、様式美のようにコーヒーを口に含んでいる。

 

日本人向けにアレンジされたチャイラテは、かつてムンバイで毎日のように飲み干していたそれとは、まったく異なる味がする。埃っぽいロードサイドの露店で小さなガラスの容器に注がれるチャイは、ショウガの苦さと砂糖の甘ったるさを極限まで濃縮した、鮮烈な飲み物だった。もうもうと湯気を上げる鍋のなかで煮沸されたそれは、飲食店で出される水よりも、道端で売られるレモンジュースよりも、極東からの闖入者にとってはずっと安全な飲み物だった。出勤前のインド人の親父たちは、膨れた腹を突き出しながら大きな鍋を取り囲み、ウイスキーを気付けにやるみたいにして、1杯5ルピーのチャイを飲み下すのだった。

 

日本の電源カフェのチャイラテは、それに比べればただのショウガ風味のミルクティーだ。その平和な味を舌に乗せながら、僕は自分があの時代からずいぶんと隔たった場所までやって来たことを感じる。

 

僕は今年、30歳になった。20代は辛く、険しい道であり、息のつけない瞬間の連続だった。なんとか世捨て人にならずここまで辿り着けた。生き延びることができてよかった。いまはそうした安堵の気持ちが大きい。

 

 

 

20代とひと口に言っても、前半と後半では、ずいぶんとその様子が異なっていたように思う。

 

 

 

そのほとんどを大学生として過ごした20代前半は、暗中模索の日々だった。

 

自分とは何者なのだろう、という問いに答えようと、人とは違うことをやろうとあがき続けた。強烈に好き嫌いを主張するサークルの先輩に憧れ、明確な将来像を自分のなかに持っている学部のクラスメートに嫉妬した。自分の夢というものがどこかに落ちていると信じて疑わず、それを見つけるためにたくさんのことに手を出した。

 

「将来の夢」や「やりたいこと」というワードは、現代人にとって、一時的に自分を騙すことができるカンフル剤だ。

 

それは、誰かと酒を飲んだ時の高揚感に似ている。酒を身体に入れ、できもしないことを人と語り合っていると、なんだか自分がすごい人間になったような気がしてくる。そのまま良い気持ちでベッドに入り、目が覚めたときには何もかもを失っている。

 

泡のように湧いてくる自分の夢を追いかけて、そのすべての可能性を潰しきったとき、僕は「やりたいことなどなくていい」と思えるようになった。自分は夢など持てぬ凡人であり、凡人は凡人らしく生きるのがよかろう。そう思って、会社という装置に自分を預けてみるに至ったのだ。

 

 

 

20代の後半は、とにかく善人でい続けようと誓った時代だった。

 

自分には、やりたいことなどない。だとしたら、自分のキャリアを会社に決めさせてみよう。任されることは何でもトライして、様々な領域でアウトプットを続けていけば、そのうち自分の得意なことを周りの人たちが判断してくれるだろう。特定の誰かとつるんだりせずに、すべての人たちと仲良くしていれば、そのうち僕が付き合うべき人は誰なのか、社会の側が決めてくれるだろう。

 

そうした他人任せの思考で、僕はこれまでの5年半のサラリーマン人生を生きてきた。自分が凡人であることを骨の髄まで自覚した大学時代があったからこそ、そのような極端なまでの他者志向が可能になったのだ。その他者志向を、僕は「最強の優等生」という言葉で表現した。

 

現代は、人間が極端なまでに理想化されている時代だと思う。いわく、人間は夢や理想を持つことができる。人間には自由意志がある。人間には可能性がある。コンピューターが発展した時代において、人間は自分の人生を理想のものとするために世界に働きかけていくことができる。現代の社会にはそういった風潮があるように思う。

 

そうした時代にあって、あえてそこに逆行してゆく「優等生」という腹の括り方は重宝された。会社ではさまざまな機会を与えてもらい、それ以外の生活でも多くの出来事を経験させてもらった。多くの人にたくさんのものをもらった20代の後半だった。

 

反面、自分のリソースが有限であることも感じるようになった。全員にいい顔はできないことがわかってきた。自分が同じだけの肉体的・精神的リソースを投下しても、アウトプットする領域によって喜ばれる度合いに差があることがわかってきた。

 

僕は選ばなければならなかった。優等生が最も苦手な「優先順位をつける」という行為に着手しなければ、自分自身が物理的に死んでしまうことはわかっていた。「優等生」という、20代前半の僕があれほど欲しかった「自分のアイデンティティ」を捨てるのは残念ではあるけれども、今の僕はまだ、精神の死よりも肉体の死を選べるほど、この人生に満足しきっていないのだ。

 

 

 

30代。僕は、八方美人を辞めて、いくつかのことに集中しなければならない。

 

 

 

一つ目は、小説を書いて世の中に出すこと。

 

初めて書いた小説『局担』は、知人以外の方にも広く読んでいただき、それなりに面白い文章になったと思う。

 

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先日、『局担』の舞台となったテレビ局の人間と飲んでいたときにこの小説の話題になり、「俺たちのことを永遠に遺してくれてありがとう」という言葉を投げかけられた。僕はとても嬉しく思った。同時に、こんな形ではまだ不完全だ、とも思った。

 

僕の夢は、この小説をこの舞台となったテレビ局の制作で、映像化することだ。そのためには、僕自身が作家としてデビューする必要がある。小説を書くだけでなく「世に出す」ことも含めて30代の目標に掲げたのは、彼らへの恩返しとして、『局担』の映像化という夢を果たしたいと思ったからだ。

 

お仕事ものの小説は難しい。それは『局担』を書くなかで痛感した。自分の文章の特徴は五感と思念を詳細に描くことだが、通常、人間はオフィスワークのなかで自分の感性のスイッチを切っているため、僕の文体をそのままお仕事ものの小説に持ってきてもなかなか機能しないのだ。

 

世間においてお仕事ものの小説といえば、池井戸潤のような勧善懲悪エンタメか、山崎豊子のような重厚ドキュメンタリーかにならざるをえないのは、オフィスワークの持つこうした性質のためだと思う。『蟹工船』や『岬』、現代でいえば『コンビニ人間』などは労働のなかでの人間を描いた作品だと思うが、それは身体性と密接に絡む業務だからこそ可能だったのではないか。

 

次に書く作品では、自分の文体が気持ちよく機能するようなモチーフを選びたいと思っている。

  

 

 

二つ目は、少人数で話ができる場所をつくること。

 

この世界には、少人数で何の不安もなく思いついたことを語り合う、という場所が欠落している。僕には昔からそういった感覚があり、それで作ってみたのがこの『よばなし』という4人で飲む企画だった。

 

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見ず知らずの四人で集まって話すだけのこの企画は、シンプルながら、世の中に求められている感触があった。「僕以外の参加者は基本的に参加者同士が知りあいでない人を選ぶ」というルールも、毎回比較的簡単にクリアできた。飲み会といえば大人数で騒ぐかサシでしっぽりやるか、という二者択一の世の中において、「4人飲み」という新しい切り口のコミュニケーションを提案できるのではないかと思っている。

 

4人飲みについてPRっぽく書いてみた文章は、現在も「飲み会 人数」の検索結果の上位にある。

 

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『よばなし』は現在は休止しているが、その理由は、自分の負荷が大きすぎるためだ。この企画をやってみてわかったが、『よばなし』の記事を一つ仕上げるのには、人集めから本番、後日の編集作業を合わせて、およそ15時間程度の時間がかかっている。これをほぼ僕1人でやらざるをえないという現状が、なかなか定期的にコンテンツを届けられていない理由である。

 

おそらく、僕はこの企画のなかで、「いろんな人と話せること」という1点を求めているのだと思う。いや、お店を選んだり、文章を書いたりすることも好きなのだが、本当にここでやりたいことを1点だけ抜き出せと言われたら、「話すこと」に集約されるだろう。そういう風にやりたいことを絞らないと、この企画は回っていかないという直感がある。大学時代にやっていた『僕らのガチ飲み』から、こうした対話コンテンツはずっと続けてきたけれども、そろそろ自分のマンパワーだけで押し切れないことを学ばなければならない。

 

今も時々『よばなし』やらないんですか、と言ってもらえることがある。僕がこれを再開するときは、他の人たちのリソースも頼ったうえで、自分がやりたいことをピュアに追求できる状況が整ったときだ。そう未来のことではないと思うので、もし楽しみにしてくれている方がいらっしゃったら、もう少々お待ちいただきたい。

 

 

 

三つ目は、人間を最大に活かせるリーダーになること。

 

今年から、仕事ではリーダーという役割を任せてもらえるようになった。八方美人であり続けた結果、クライアントにもチームメンバーにも自社のマネジメント陣にも満足してもらえる人間として自分が認識されつつあるのなら、それは僕にとって非常に喜ばしいことだ。

 

僕には、他者を先導したり、他人に対して指揮をとったりしたいという欲求が非常に薄い。あくまで「他の人たちが望むなら、リーダーとして振る舞うこともやぶさかではない」というスタンスだ。自分がリーダーになったのは、自分がリーダーに向いた性質を持っていたからに過ぎない。それは謙虚さなどではなく、心の底からそう思っている。

 

逆に言えば、僕がリーダーになるからには、チームメンバー全員が気持ちよく納得のいく仕事をしてもらえるチームを作りたい。各員の性質や志向を塗り潰して僕のディレクションのとおりに仕事をするのではなく、それぞれのメンバーが自律的に動くようなチームを作りたい。その上で、チームメンバー同士が相互作用して、よりよいアウトプットが出せるチームを作りたい。そう思って、チームにストレングスファインダーを導入した。今では「ストファイ」という愛称でチーム内でも親しまれている。

 

僕が「理想のリーダー像」など語れるはずもないけれど、今目指しているのは、人を真に活かすことのできるリーダーである。人間は、苦手なことや嫌いなことを押し付けられるよりも、得意なことや好きなことをやっていくほうが、明確に人生を楽しく生きられる。対話によって人の性質を捉え、それがどのように仕事において機能するのかを言語化して伝えていく。それが僕が他者に対して貢献できることだと思う。

 

そして、もし人を活かすタイプのリーダーを目指すのなら、「人の特徴を長所としてみる」という自分の性質は、絶対的なアドバンテージになる。相手を嫌ったり見下したりする人間が、その人のなかに長所を見出すことは決してない。昔は好き嫌いをはっきり言える人間や主張の強い人間に憧れたけれども、今では僕は八方美人な僕で良かったと思っている。

 

リーダーになってみて思ったけれども、同じチームのメンバーがそれぞれの好きなやり方で良いアウトプットを出して、それが結果に繋がったときの快感は半端ない。僕は褒められるのが大好きだが、自分が褒められるよりも自分のチームメンバーが認められるほうが、何倍も大きな快楽を得られる。これはなぜなのかまだ言語化できていないのだが、自分が極度の理想主義者であり、すべての人のすべての性質は見方次第で良い結果に繋げられると信じているからかもしれない。

 

広告の仕事は面白いけれども、ずっとプレイヤーでいるよりは、広告というカテゴリーの知識を持ったチームビルダーとして、キャリアを積んでいきたいと考えている。

 

 

 

30代。自分の残り時間は無限ではないということを、最近は感じはじめている。

 

「明日死ぬと思って生きろ」という言葉が、昔は苦手だった。人間の想像力はそんなにたくましくないからだ。明日死ぬと思える人は、死ぬぎりぎりの縁まで行ったことのある人か、先天的にそれくらい自分の命を懸けて生きられる人だ。普通の人間は自分が明日死ぬことなど想像できない。明日死ぬと思って生きろという言葉は、それができる強い人のための言葉でしかない。昔はそう思っていた。

 

だが今では、明日死ぬと思って生きることは難しいけれども、残りの人生で何にフォーカスすれば周りの人をもっと喜ばせることができるだろうか、というくらいのことは考えられるようになった。それは僕が優等生である自分を受け入れ、「何でもやってやろう、自分の何が喜ばれるのかを見てやろう」と、市場に自分を晒してみた結果である。

 

戦略とは何かを捨てることだが、20代を一所懸命に生きたなかで、知らないうちに自分の人生の戦略を策定できていたのだろう。

 

書くこと、話すこと、人を活かすこと。30代からは、これを自分の生涯のテーマと決めて、生きていこうと思う。

人類が「やりたいこと」を検索エンジンに問いかける時代の、幸せな生き方について。

※この記事は、とあるメディアの公募賞に応募して落選となった文章を、一部加筆修正したものです。

 

 

 

「やりたいこと」という言葉が、人類を苦しめるようになって久しい。

 

 

 

筆者はとある広告会社に勤務するサラリーマンであり、年に数十名のOB訪問を受ける立場にあるのだが、いわゆる「志望動機」が見当たらずに悩んでいる学生は非常に多い。あくまで体感だが、就活生の二人に一人は、志望動機に関する悩みを抱いているのではないだろうか。

 

現代の就職活動の選考において、学生が企業側からよく問われる項目は以下の三つである。

 

  • 学生時代に力を入れたこと(いわゆる「ガクチカ」)
  • 自分がどんな人間なのかを語る「自己PR」
  • 就職後にどんな将来を思い描いているのかを語る「志望動機」

 

過去・現在・未来に対応するこれらの問いは、就職活動の「三種の神器」とも呼ばれている。エントリーシートや面接で必ず問われることになる「志望動機」が見つからないというのは、学生からすると無視できない事態であると言えるだろう。

 

彼らの苦悩は、Googleの検索トレンドにも現れている。毎年、就職活動のシーズンとなる春から夏の季節にかけて、Google検索エンジンに打ち込まれる「やりたいこと」というキーワードのボリュームは跳ね上がり、明確な波形を作りだしている(下図参照)。

 

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「やりたいこと」のGoogle検索量の推移

 

この現象は、志望動機を語る自信のない学生たちが「やりたいこと」の正解を見出そうと、選考前の最後の悪あがきで、検索エンジンに救いを求めた結果であると考えられる。

 

 

 

個々人にとっての「やりたいこと」が存在するという強い前提のもとで、企業は採用面接を行い、学生はその対策に四苦八苦している。

 

この構図を眺めるうちに、一つの疑問が浮かび上がってくる。それは、「やりたいこと」なる代物は、本来は存在しない幻想なのではないか、という疑問である。

 

 

 

私は大学時代、自分の「やりたいこと」を見出そうとありとあらゆる「自分探し」にトライして、結果として「やりたいこと」を見つけることができなかった、という経験をしている。

 

「自分探し」とは、例えば下記のようなものだ。

 

  • 生物学者を志し、ノーベル賞受賞者を多く輩出する京都大学に入学、1年生の頃から自主的な勉強を行う→周囲の学生の情熱や能力に圧倒され、早々に学者の道を諦める
  • キューバダイビングのインストラクターを志し、沖縄県にある離島のダイビングショップで半月間の泊まり込みのアルバイトを行う→インストラクターを仕事にしたいと思えるほどの感動を味わうことはできず、夢に飽きる
  • 起業家を志し、ベンチャー企業で1年間の新規事業開発に携わる→オフィスに置ける石の鉢植えを考案し、オフィス街で飛び込み営業を行うもののほぼゼロ成果となり、自分がビジネス創出に向いていないことを悟る
  • 京大にありがちな「変人」になりたいと願い、学祭でドクターフィッシュ入りの足湯の出店を考案する→衛生上の理由からドクターフィッシュの持ち込みは禁止され、結果的に4日間で3人しか客が入らずに学生としては致命的な赤字を被った
  • 経営コンサルタントを志し、3年夏のインターン選考でコンサルティングファームを受ける→面接で軒並み不合格となり、頭脳の出来がコンサル仕様でないことを痛感する
  • インフルエンサーを志し、仲間を集めてインターネット上にウェブサイトを作る→半年で各コンテンツの更新が止まり、人を動かすには信念が薄弱であることを知る
  • 「とにかく何者かになりたい」と願い、極限の体験をすればやりたいことがわかるかもしれないと思い、インド・ムンバイのスラム再開発地域でインド人8人とルームシェアをしながら1年間の不動産営業のインターンを行う→やりたいことはついにわからなかった

 

書き出してみると滑稽だが、誰にでもこうした夢を見る時代というのはあるように思う。重要なのは、これだけ様々なことに取り組んだにも関わらず、私は「やりたいこと」を見つけることができなかったという点だ。

 

私たちホモ・サピエンスの脳は20万年前から進化していないと言われている。当時、目の前のマンモスを狩り、雨が降れば洞窟を探し、他の個体との交尾に明け暮れていた祖先たちは、「イマココ」に関心こそ払えど、将来について考えることなどほとんど無かったのではないか。仮にそういった個体がいたとしても、それはごくわずかな、集団における「バグ」のようなものではなかったか。であるならば、現代を生きる私たちが「やりたいこと」を見つけられなくても、それは責められるべきことではなく、むしろ当然の帰結なのではないだろうか。就職活動で「やりたいこと」を問うことは、実のところヒトの本性に逆行する行為なのだ。

 

 

 

さて、「やりたいこと」が万人にとっての必然ではないことが明らかになった時、私たちはどう生きればよいのだろうか?

 

「やりたいこと」という個人の羅針盤を失い、さりとて昔のような「男性は労働し女性は家庭を守る」という保守的な価値観にいまさら回帰もできないとなると、現代人は途方に暮れてしまうかもしれない。

 

そこで私は「企業を自分探しの装置として捉える」生き方を推奨したい。

 

 

 

自分という人間のなかに、進むべき方向性など無い。であるならば、それを世界に、他者に決めてしまってもらおう。ひたすら目の前の機会に挑戦していくことで、自分がどの機会に対して高い付加価値を出せるのかを比べてみよう。そのための装置として、企業はぴったりなのだ。なぜなら、企業というものは、バイアスなくランダムに被雇用者に機会を提供するものだからである。

 

例えば、私は広告会社に新卒で入った後、メディアのバイイング部隊への配属となり、テレビを担当することになった。トラディショナルな風土の色濃く残るメディアのバイイングは、私が広告会社に入る上でもっともやりたくなかった仕事だった。だが、仕事に取り組んでいくうちに、私の行いのなかで二つのことが他者から求められていると感じるようになったのだ。それは「話すこと」と「書くこと」である。

 

「話すこと」というのは、私が人から二人で話したいと思われやすい人間であるということだ。テレビ局担当時代、取引において必ずトラブルの生じてしまうテレビ局があった。そのテレビ局の営業の方は業界の大先輩であり、特定の広告会社の担当者のみと蜜月関係を築いていて、他の担当者は冷たくあしらうような方だった。私は何度か二人で飲みに行って仲良くなり、スムーズなビジネスに繋げたのである。どんな話をして仲良くなったかについては、 下記の記事を参照されたい。これまで300人以上とさし飲みをしたなかで感じた、人と仲良くなるための方法が書かれている。ちなみに、2019年7月23日現在、Google検索で「深い話」のSEO1位になっている。

 

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「書くこと」というのは、何かを書いてくれと頼まれることが多いということだ。テレビ局担当時代、仕事について自分のブログに書き殴った記事が、ある日いきなりバズりだした(下記参照)。この文章は主にFacebookをハブにして社内外であまねく読まれ、そのうち同僚から文章を書いてほしいと言われるようになった。上で挙げた「深い話」の文章も、そうやって頼まれたうちの一つだ。とある先輩から「このメディアでライターやってみてよ」と言われ、特にこだわりもなく引き受けた結果、こうした記事を書くに至ったのだ。

 

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上記の二つの結果は、テレビ局担当という機会を強制的に会社から与えられたために生じたものである。仮に私が「やりたいこと」を重視して生きていたとしたら、テレビ局担当なんて仕事はまっぴらだと言ってさっさと辞めてしまっていただろう。だが、私は自分が「やりたいこと」など見つけられないことを知っていた。だからこそ、自分の好き嫌いを度外視して会社が与えた機会に没頭し、結果として自分の需要を捉えることができたのだ。

 

 

 

企業という装置を使って自分の需要を発見していく上で、必要となる資質が一つだけある。それは、自分に絶望していることだ。学生時代に「やりたいことなど見つからない」と確信しているからこそ、会社が与えてくる機会に対して、躊躇なく挑戦することができる。

 

「これは私向きじゃない」という余計なこだわりを捨てるためには、徹底的に自分探しをすることだ。大学時代の私が気になったものにとことん手を出し続けたように、自分探しをやりまくって、自分にはやりたいことなど見つからないという諦めの境地に至ることだ。もし、その過程でやりたいことが見つかれば、それはそれで素晴らしい結果になる。自分探しをやって損をすることは何一つ無いのだ。

 

 

 

ここまでで、「企業を自分探しのための装置として使う」という生き方を提唱してきた。以下ではそれに関連して、被雇用者、企業、そして社会に対し、それぞれ提言を行いたい。

 

 

 

まず被雇用者に対しては、「自分探しのための装置」に適している企業の特徴を挙げておこう。

 

  1. 異動や配置転換の頻度が高い
  2. 一人あたりの担務領域が広い
  3. 社員数が多く、幅広い価値観に晒される
  4. 性別や年齢によって発言が制限されることがない

 

①②③の特徴を持つ企業では、総じて被雇用者に降ってくる機会の数が多いと考えられる。④については、自分の存在を周囲に発信できる環境であるため、①②③の効力を高めてくれる。

 

 

 

次に、企業側に対して。

 

企業は、就職活動の選考で志望動機を聞くのを止めるべきだ。多くの学生が企業の求める「やりたいこと」を提出しようと、ありもしない情熱を自分の内に求めて苦しんでいる。そして結局、入社してしまえば、学生が面接で語った「やりたいこと」は反故にされ、まるで希望とは別の部署に配属されたりする。『就活エリートの迷走』という本に書かれている、就職活動の大いなるジレンマだ。百歩譲って、志望動機を語らせるとしても、それはロジカルにものを考えられるかとか、志望業界のことをよく調べているかとかのチェックに過ぎないことを、面接の段階で学生に伝えてあげるべきだ。

 

個人的には、自分に絶望していて、目の前のことに取り組む覚悟を持っている人間は、仕事で成功する可能性が高いと思う。なぜならそれは、自己を客観視できるメタ認知能力と、最後までやり抜くグリッドという、相反しやすい二つの力のハイブリッドという存在になるためだ。面接では、「やりたいこと」を語らせるよりも、「自分に絶望していますか」と聞いた方がよいのではないだろうか。

 

 

 

最後に、社会に向けて。

 

企業と被雇用者という関係を第三者的な視点から眺めた時に考えなければならないのは、前者が後者に対して強制力を行使しすぎないよう、安全弁を付ける必要があるということだ。私としては、昨今の「働き方改革」は、こうした部分にこそ寄与すべきものだと思う。企業を自分探しのための装置として使うかどうかは被雇用者の自由であり、決して企業側がその姿勢を強いてよいものではない。長時間労働やハラスメントなどは、被雇用者にとっての新しい機会になるのかもしれないが、それで個人が不当に傷つけられてはならない。あくまで被雇用者が安心して就業するなかで、新たな機会に遭遇していかねばならないのだ。

 

例えば、労働組合は、もはや現代において存在意義を失いつつあると言われているが、企業という装置のなかで自分探しを楽しむ被雇用者、という新たな関係が生じた時に、その関係が安全に保たれるよう、各種の規則を整備していく役割があると思う。

 

 

 

やりたいことなど、普通の人には見つからない。ソーシャルメディア上では誰も彼もが「夢」に向かってきらきらと輝いているように見えるけれども、そんなものは幻想である。そんな時こそ、自分はやりたいことなど持たない凡庸な人間であるという諦観を抱えながら、企業という旧時代の装置のなかで、自分探しを楽しんでみてはどうだろうか。

 

人生は暇つぶしだ。太古の人類には生存の危機が絶えず迫り、「やりたいこと」を考えている暇は無かったであろう。時代は下って、終身雇用に守られた会社員人生においては、「やりたいこと」を自問する必要は無かっただろう。猫も杓子も「やりたいこと」を考えている現代は、終身雇用制度が崩壊し、自由に生きていいよと言われて右往左往している人類が、最後に「やりたいこと」という幻想にすがらざるをえなくなっている状況を示している。

 

もう一度ヒトの本性に立ち返り、語りえないはずの「やりたいこと」の代わりに、目の前に没頭する「自分探し」を人生の楽しみに置いて、生きていこうではないか。

きみが人気者タイプじゃなくて、それでも誰かと仲良くなりたいなら、「二人で話したい人」になれ。

僕は昔から、人から好かれたいという欲求が強くて、どうしたらいろんな人と仲良くなれるのかを、ずっと考えていた。

 

高校生の頃は、わかりやすくみんなから好かれている「クラスの人気者」タイプになろうと思ってあれこれ努力したんだけど、それは上手くいかなかった。その顛末については、以前こちらの記事で書いたことがある。

 

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そうした陰鬱な過去を引きずりながら、僕は大学時代に「さし飲み」を始めた。最初は、とにかくたくさんの人と二人で話せるようになることで、高校時代のコンプレックスを払拭しようとしていた。

 

当時のさし飲みの様子については、相手の許可を取って録音・文字起こししたものがいくつか残っていて、今それを読み返すと、僕がいかに自分の見え方を気にして相手とコミュニケーションを取っていたかが痛いほどわかる。

 

とはいえ、この頃に「二人だけのコミュニケーション」を体当たり方式で繰り返したことは、今の僕の大きな財産になっている。すなわち、人と仲良くなる方法を自分なりに編み出すことができたのだ。

 

今日の記事では、いわゆる「人気者」タイプの人じゃなくても、誰かにとって「二人で話したい人」になることで、その人と仲良くなることができる、ということを書いてみたい。

 

 

 

みんなの輪の中心にいる「人気者」タイプになるためには、いくつかの資質が必要だ。

 

僕がこれまで何人かの「人気者」タイプの人と話してみたところ、彼らは下記に挙げるような特徴を持ち合わせていることが多いようだ。

 

・自分が世界で一番面白いエンターテイナーでありたいと思っている

 

・一人の人に深く楽しんでもらうよりも、なるべく多くの人に楽しんでもらいたいと思っている(とある人は「人数が多ければ多いほど誰かにウケる可能性が高まるのだから、一対一のさし飲みは最も恐ろしい」と言っていた)

 

・自分や他者の「くすぐると面白いチャームポイント」が瞬間的に把握できる

 

・自分のことが理解されずに傷つく、という事態が想像できない

 

「人気者」タイプは目立つし、周りから好かれているのが目に見えやすいので、人から好かれたいという欲求が強い人は、まずは「人気者」タイプに憧れるのではないだろうか。

 

しかし、上に挙げたような資質を持ち合わせていないと、なかなか「人気者」になることは難しい。事実、僕も昔トライしてみて、上手くいかなかった経験がある。

 

そこで登場するのが、「二人で話したい人」という在り方である。

 

「人気者」タイプに向いていない人は、むしろ「二人で話したい人」タイプに向いている。みんなの輪の中心にいる「人気者」は、魅力的なコミュニケーターとしての在り方の唯一解ではないのだ。

 

では、どうすれば相手にとっての「二人で話したい人」になれるのだろうか?それは、「みんなといる時」とのコミュニケーションの差別化を図ることだ。

 

差別化の図り方には二つの方向性がある。すなわち、「相手の居心地を変えること」と、「自分の見え方を変えること」である。

 

 

 

順番に説明しよう。

 

「相手の居心地を変える」というのは、仲良くなりたい相手に「この人といると余計なことを考えずにコミュニケーションができる」と思ってもらうことである。

 

大勢といる時、人は他者の視線を感じながら、他者に受け入れられる最大公約数的な自分を演出している。その公約数を取っ払うこと、自分には素のあなたを見せてくれて構わないよとコミュニケーションを通して伝えることが、重要である。

 

具体的には、下記のような点にフォーカスする。

 

①社会を主語にしない

 

一般論やお世辞といったものは、二人だけのコミュニケーションには必要ない。社会的に見てどうかということよりも、個人としてのその人に興味を持ち、その人固有の感じ方・考え方に興味を持つことだ。使う言葉、食の好み、趣味、ファッション、メイクなど、さまざまな分野にコミュニケーションのヒントが隠されている。自分の興味のある分野から、「ちょっとこの人はこの点が変わっているな」「世間一般の感覚から外れているな」と感じるトピックを掘り下げてゆくと、個人にピントの合ったコミュニケーションがどんどん深まってゆく。その意味では、公約数的なトピックに狙いを絞って、誰でも参加できるような会話を展開する合コンなどとは、真逆のコミュニケーションになる。

 

僕の場合、使う言葉に対して興味を持つことが多いので、面白い言葉の使い方や、相手が何度も繰り返して使っている言葉について、掘り下げていくことが多い気がする。このあたりについては、下記の記事も参照されたい。

 

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②善悪を問わない、否定しない

 

①にも繋がるのだが、善悪というものを考えると、社会通念に照らしあわせて相手の考えがどうなのか、という話になってしまうため、どうしても個人にフォーカスしづらくなる。相手が犯罪でも犯しているなら別だが、そうではないなら、「それは良くない」「それはいけない」という言葉は絶対に使ってはならない。

 

もし、相手の話に引っかかる部分があるなら、あくまで個人的な感想として、「僕自身はあなたが言ったことに賛同しない。それは自分の○○といった性質に基づくものだと思う」といったコメントを行うとよい。これによって、善悪論ではなく、個人と個人の価値観の相違を浮き立たせる対話となり、個人にフォーカスしたコミュニケーションをさらに深めていくことができる。

 

対話が深まると、相手との価値観の対立が鮮明になることもある。そうした時に重要なのが、これまで自分についてどれだけ考え抜いてきているかという哲学的な思考である。相手が何を言おうが、自分はこれ以外の自分になりようがない、それはそれとして、相手の価値観は尊重すべきものだ。そうしたフラットな感覚が確かなものになってさえいれば、どれだけ相手と価値観が対立していても、対話を深めていくことができるのだ。

 

「自分の○○といった性質に基づくと賛成だ・反対だ」というのが対話のなかで思いつかなければ、「なんとなく反対なんだけど、どうしてだろう」とその場で一緒に考えてみてもいい。「あなたは○○な人だから、あんまり良いと思わないのではないか」というコメントが相手から出てくると、自分に対する理解も深まる。つまるところ、二人でのまっとうなコミュニケーションを成立させるためには、自分をよく理解している必要があるのだ。

 

③秘密を守る

 

「二人で話したい人」というのは、言うなればコミュニケーションの止まり木、大勢の視線に晒されて疲れ果てた人が、ふと羽根を休めてなんでも話すことのできる相手である。だとすると、当然ではあるが、相手が「ここは安全地帯だ」と思って話してくれたことは、他人にぺらぺら話してはいけない。特に、個人が特定できるような形で話の内容を話すのは最悪だ。

 

「二人で話したい人」になると、周囲から「なんだかよくわからないけどいろんな人と仲が良い人」という扱いを受ける。そうなると、Aさんと楽しく話した後に、Bさんから「Aさんと何を話したの?」と聞かれることも増える。そういう時に、「Aさんが自分だからこそ話してくれたこと」は、決して共有してはいけない。それは、どれだけBさんが信用のおける人であったとしても、守るべきルールだ。

 

コミュニケーションは普段の生活と地続きであって、たとえば二人で飲みに行くという行為があったとしても、その飲み単体で完結するものではない。事前・事後における自分に対する印象が、コミュニケーションの本番で相手が話してくれる内容に直結する。自分が「二人で話したい人」であり続けたいなら、秘密は守ることだ。

 

 

 

次に、「自分の見え方を変えること」について説明しよう。

 

よく聞く言葉で言うと「ギャップ」なのかもしれないが、戦略的にギャップを演じる必要はない。重要なのは、素の自分を見せること。この記事を読んでいるような人なら、大人数でいる時は大人数用の自分を演じているところが、大なり小なりあるはずだ。その「大人数用の自分」を取っ払うことができれば、ギャップなんてものは勝手に生じる。そのために必要なのは、自分が自分で「相手に素の自分を見せても大丈夫だ」と思えることだ。

 

言い換えれば、相手と相対した際に、「素を見せてもこの人は自分を傷つけることはない」という絶対的な自己肯定が必要なのだ。この肯定感を抱くためには、いくつかの条件が存在する。

 

・他人が自分をどう見ようが、自分は自分だ、これ以外の自分にはなりようがない、という確信を抱いていること(上述した「哲学的な思考」の部分)

 

・生来的に、自分が他人を嫌いにくい人間であること、他人の良い面を見ようとする人間であること

 

・相手が自分を認めてくれているという感情を持てること、具体的には、能力や性格など、何らかの点で自分が相手を魅了しているという自信があること

 

コミュニケーションはボクシングのようなもので、ガードばかり固めていても、パンチの応酬は始まらない。相手にパンチを出してもらうためには、自分からパンチを出していかなくてはならない。いわゆる自己開示というものだ。先にこちらがリスクを取って素を見せてしまうことが重要である。

 

自己開示については、手前みそだが、以前僕が書いた下記の記事も参照されたい。

 

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具体的に「素を見せて話す」には、下記のようなことに留意するとよい。

 

①自分の感情にフォーカスした話をする

 

人は情報ではなく感情に惹かれる。自分の感情をなるべく覚えておいて、コミュニケーションの場でそれを語ることだ。そして、なるべくその感情だけでなく、どうしてそう感じたのかについても、理由を見出しておけるとよい。これも上述の「自己分析」と同様だ。

 

ちなみに、いわゆる「ぶっちゃけトーク」にあたる、誰かの悪口や愚痴といったもので素の自分が出ているかというと、僕はあまりそうは思わない。ネガティブな感情は決して悪ではないのだが、他者と一緒にいる時には、ポジティブな感情よりも慎重に取り扱う必要があると思う。なるべく毒気を抜いて、その感情を客観視して語ることだ。そのために重要なのは、(繰り返しになるが)どうしてそんなにムカついたのかを考えることだ。自分の価値観に何らかの点で抵触しているのを感じた時、人は他人を許せなかったり、何かを憎んだりする。その価値観がわかれば、自分も救われるし、相手もホッとして話が聴ける。他罰的にではなく内省的に考えることだ。

 

またまた手前みそだが、感情で話すという点については下記の記事に詳しいので読んでみてほしい。

 

careersupli.jp

 

②ポジティブな感情は積極的に相手にぶつける

 

嬉しい、楽しい、快い、安心だ、夢中になれるなどのポジティブな感情は、どんどん相手にぶつけていこう。相手と良好な関係にあるのなら、自慢に思うこと、褒めてほしいことなども話すといい。「無邪気な人だな」「素直な人だな」と思ってもらうことで、相手も自分に対して話しやすくなる。

 

なお、ここが注意であるが、「無邪気そうに思ってもらいたい」「素直そうに思ってもらいたい」と思って上記の行動をすると、どうもその下心が相手に伝わってしまい、うまくいかなくなる。とにかく、コミュニケーションは無心でやることが重要だ。僕も言語化はしているけれど、結局これらは習い性みたいなもので、もはや身体に染みついているからできているように思う。何度もやって、体得することだ。

 

 

 

以上、誰かにとっての「二人で話したい人」になるための方法を書いてみた。感覚的に言えば「この人と話すのは、みんなといる時とは違って居心地が良いなあ」と思ってもらうことだ。

 

人と仲良くなる時に、ぜひ参考にしてみてほしい。