「いい人どまり」なんて言わせない、とびきりのいい人になれ。

2017年は、僕のメンタリティに画期的な変化が起こった年だった。

 

これまで嫌だった「いい人」「優等生」という特性を受け入れ、「自分が頼られることすべてに惜しみなくイエスと言ってやろう」と決意したのだ。

 

【参照】

「良い子100%で生きる」  

「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

 

 

 

その結果は、凄まじいものだった。

 

たくさんの人が僕のところにやってきて、いろんな機会をくれた。時系列で、代表的なものをざっと書き出してみよう。

 

・ミレニアル世代の情報発信メディア MILLENNIALS TIMES で記事を書き始めた。

 

・メディアプランナーの部署に異動になった。

 

・ひょんなご縁から家庭教師をすることになった。

 

・4人飲み企画 東京よばなし を始めた。

 

・紹介に与りウェブマガジン キャリアサプリ で記事を書き始めた。

 

・小説 UNFORGIVEN を書き始めた。

 

・会社の組合の委員長になった。

 

これ以外にも、広告賞に応募したり、会社の野球部の優勝決定レポートを書いたり、北アルプスに登ったり、釣り部を結成したり、SUPをやったり、競合プレゼンのプランを1人で考えたり、たくさんの「初めて」の経験をさせてもらった。

 

そのすべてが「他人から与えてもらった経験」だった。

 

もちろん、僕が自ら手を挙げて取り組んだこともあるけれど、そのきっかけは例外なく「人が僕にやってほしいと望んだから」だった。

 

2017年の最後の方は、あまりにも多くの機会をもらいすぎて目が回り、正直へろへろだった。それでも、今年いっぱいはすべてのバッターボックスに立ってやると誓って、走り抜くことができた。

 

ものごころついてから、一番素敵な年だった。

 

 

 

機会や経験を運んできてくれる人もいれば、誰にも言えないような秘密を話してくれる人もいた。

 

こんなにも多くの人が、人には共有できない自分だけの歪みや偏りを抱えながら暮らしているのかと、僕は感嘆しながら彼らの話を聴いた。

 

たぶん、僕がそうした心の内を見せる相手として選ばれやすいのは、善悪やべき論で価値観を判断せず、その人の話を心からおもしろがり、内面を正しく表現できる言葉を一緒に探していこうとするからだと思う。

 

それも、結局は「いい人だから」なのだろう。「正義の観点から考えればあなたは間違っています」と断罪したり、他人のめんどくさい話なんて知ったこっちゃねえよと突き放したりすることだって、僕には選べる。だけど、僕はいい人だから、いくらでも話を聴いてあげたいと思うし、世間一般が好む解より「その人が納得する解」をともに見つけ出したいと思う。

 

 

 

2017年は、そんな風にして過ぎていった。

 

いつしか、自分が「いい人」という言葉に対して抱いていたマイナスイメージは、プラスのものに置き換わっていった。

 

昔、僕が「いい人」と言われて一番嫌だったのは、「いい人どまり」といった意味合いを含んでいるように感じていたからだった。

 

恋愛面に限らず、「いい人なんだけどエッジが立っていないんだよな」というのが、僕の思う「いい人どまり」のニュアンスだ。

 

だが、「とことんいい人になってやる」と決意してからこれまでを振り返って思ったのは、「本当に死ぬほどのいい人になれば、『いい人どまり』などというワードが出てくる余地はなくなる」ということだ。

 

それはきっと、「本当のいい人」というのが、この世界では滅多にお目にかかれない、稀有な存在だからなのだと思う。

 

 

 

僕が今年、「いい人であること」を決意して最後には息切れ状態に陥ったように、「純粋な善意」は、その善意を原動力にして行動する人間を、殺してしまうという作用を持ち合わせている。

 

つまり、いろんな機会や経験を与えられ、それに応え続けていると、自分の時間的・肉体的・精神的リソースが枯渇して、動けなくなってしまうのだ。

 

それは、自殺とも他殺ともつかない死に方である。そもそも、「他者から与えられる機会に応え続けること」自体が、100%主体的な行動とは言えないし、さりとて全面的に受け身な行動とも言えない、曖昧な性質を持っている。今年僕が読んで衝撃を受けた本の言葉を借りるなら、その行動の果てに死ぬことはきわめて「中動態」的であると言えるだろう。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

いずれにせよ、「純粋な善意」を原動力にした個体はやがて死ぬ。したがって、遺伝子的にもミーム的にも、後世にそうした生き方は残らない。

 

だからこそ、僕たちは「自分から『いい人』という特性を選択し、他者から寄せられる希望に沿い続ける人」に対して、「ただのいい人ではない」と驚嘆の念を抱くのだろう。

 

僕自身、ほんの少しだけ「本当のいい人」の世界を垣間見て、これをずっとやり続けると死んでしまうけれど、その世界の人だけが手にできる機会や経験を引き寄せる磁力には並々ならぬ強さがあるなぁと感じたものだ。

 

 

 

人はどうすれば「本当のいい人」になれるのだろうか?

 

そのヒントは、最近発売された『どうぶつの森 ポケットキャンプ』にある。

 

これは、『どうぶつの森』シリーズ初のゲームアプリである。簡単に言うと、ひたすら動物たちのお願いを叶えることでアイテムやお金をもらい、自分のキャンプ場を好きなように拡張していくゲームだ。

 

象徴的なのは、何よりもまず「人に与えること」が最初に来るゲームである、ということだ。それも、与えるものは虫や魚や果物といった「誰でも手に入れられるもの」であることが特徴だ。

 

自分が与えられるものを、ただ「いい人」として相手に与えてゆく。その結果、お金やアイテムをもらい、自分のキャンプ場に動物たちが集まってくる。そうしたゲーム内容は実に示唆的で、僕は唸らざるを得なかった。

 

自分にこれといった特技がなくても、「いい人」として生きることはできる。会社の若手社員としてなら、飲み会の幹事をしたり、自分の仕事が終わった後に何かできることは無いか聞いたり、社内ツールの使い方をいち早く覚えて先輩に教えたり、他にもいろいろと思いつくことはあるだろう。

 

今の自分に手の届く範囲で、人に対して惜しみなく与えることを繰り返していけば、いつしか自分の周りにはたくさんの機会が集まってくる。それが、「死ぬほどいい人」になるということだ。

 

 

 

2017年、僕は「いい人」として生きようと誓い、結果としてたくさんの「初めて」を経験させてもらった。今年僕と関わってくれたすべての人たちに深く感謝している。ただ、自分のリソースが有限であり、このまま生きていくのは難しいということも痛感した。

 

2018年は、「僕が費やすリソース単位あたりで、人により大きな喜びを与えられそうなこと」を中心に据えて、生きていこうと思う。言い換えれば、高いROIの見込める行為に絞って行動する、ということだ。

 

それは、人と話すことと、文章を書くこと。

 

特に、「よばなし」と「小説執筆」は、僕がやることで幸せになってくれる人が確実にいる。この2つは、2018年を通してしっかりとアウトプットを出したい取り組みだ。

 

人脈お化けになりたいわけでも、作家になりたいわけでもないけれど、それをやることで幸せになってくれる人がいるとわかっているのなら、やらない手はない。

 

2018年も、そうした「他人任せ」な気持ちは変わらずに、生きていくのだと思う。