社会がきみの役割を決めてしまう前に。

2018年は、記憶に残らない一年だった。

 

平日は遅くまで仕事をして、土日もともすれば仕事をして、仕事をせずとも仕事の疲れを癒すために夕方まで眠って、そんな日々の繰り返しだった。 

 

 

 

今の会社に新卒で入って、局担、業推、そしてメディアプランナーと、広告代理店のメディアビジネスのことは一通り経験させてもらった。

 

特に、局担の部署で自身の価値に葛藤しながら書いた二本の記事は友人・知人を超えて広く読まれ、いまなお初対面の人と会う際に「こういう記事を書いた人」として紹介してもらうことも少なくない。

 

一方で、平均して一年に一度の異動という、非常に流動性の高かったキャリアパスは、今のメディアプランニングの部署で落ち着きつつある。

 

おそらく、思考すること、人とコミュニケーションをとることといった、自社におけるメディアプランナーに対して求められている資質に、自分がマッチしているためだと思われる。

 

 

 

社会に出て数年経つと、誰でも特定の領域に対してそれなりの経験と知識を有するようになり、資本主義社会から「お前はこれをやれ」と役割をあてはめられるようになってくる。

 

それは、僕が 「いい人どまり」なんて言わせない、とびきりのいい人になれ。 で書いた「イエスマンとなるフェーズ」の次に来る段階だと考えられる。なんでも受けてやろうという姿勢のもと、あらゆる機会が自分のなかを通り抜けていった結果、社会の側で自動的に「こいつにはこれをやらせておけばいい」という判断が下されて、自分に落ちてくる機会のカテゴリーが次第に絞られてゆく。

 

意志が弱いという、現代社会では欠点とみなされがちな特徴を大いに活用し、社会や組織といった巨大な篩に機会を供させることで、自分のアイデンティティを見出すという逆転の発想だ。

 

一方、個人の側においても、スペシャリストとして取り扱われた方がそれなりの待遇を期待できるため、社会と個人は共犯関係のもと、歯車を形成してゆく。そうした歯車が社会のいたるところで回っていることに気付くのが、二十代後半の社会人なのだと思う。

 

 

 

僕は、そうやって自分の役割を決められるのが嫌なのだと、最近ようやくわかりかけてきた。

 

大学生の頃、クラスメートのほとんどが学者を目指す理学部という学部のなかにあって、学者にはなりたくないともがいていたように、僕は僕という人間を、職業的なアイデンティティで規定されたくないのだ。

 

大学時代には、ブラック居酒屋の売り子リーダーになり、スキューバダイビングのインストラクター業に顔を突っ込み、さらには新大阪のオフィス街で石の鉢を売ったり、学祭に足湯を出して大赤字に陥ったり、インドで不動産の営業に明け暮れたりしていた。それは全部、僕が何者かに「なりたくないから」やっていたことだったのだと、今になって思う。

 

社会人になって、ファーストキャリアとして情熱と哀愁に彩られた局担という世界を垣間見ることができたのは素晴らしかったし、メディアプランニングの提案で脳みそが働かなくなるまで知恵を絞っている今の日々も、自分の考えを相手に売るという、ビジネスの根源的な価値を身体で学べる最高の機会だと思う。

 

そうして、次にはどんな峰に登ってやろうかと思案している自分もいる。

 

つまるところ、この有限の人生を目いっぱい使って、あらゆる世界に飛び込み体感したいというのが、僕という人間の根源的な欲求なのだと思う。

 

「自分の知らない世界があってはならない」という、極めて優等生的な性質が、ここでも発揮されているのがおわかりいただけるだろう。

 

 

 

随分と昔に、 「私はこういう人間です」と語れるようになれたら、その大学生活には、意味があったと思う。 という記事を書いたことがある。以下、引用する。

 

自分を知る、ということは、未知の物質の正体を明らかにしていくことに似ている。

 

光をあてたり熱を加えたりしても崩壊しないか、毒性や放射能を有するか、無機物なのか有機物なのかなどを、いろいろな環境に投じたり、試薬を与えたりして、反応を見ていくのである。

 

そういった「いろいろな環境」や「試薬」にあたるのが、「大学時代にやっておくべきこと」として語られるさまざまな経験である。そして、明らかにすべき未知の物質が、言うまでもなく、自分自身なのである。

 

(『Rail or Fly』から引用)

 

僕が思うに、この未知の物質の同定のやり方としては、なるべく現在地から大きくジャンプできるルートを選んだ方が良いのだ。

 

同じ角度から光を当て続けても見える像は一定だが、さまざまな角度から光を当ててみると、物事の違った一面が見えてくる。

 

僕は今、そうした「ジャンプ」を求めているのだと思う。

 

そしてそれは、冒頭で述べた資本主義社会において、極めて厄介な行為になりうる。「この人は、こういうスキルを持っているプロフェッショナルです」という値札を、その人間に貼ることができないからである。これまでの経験の延長線上にその人を規定するのが、効率の良い社会の運営のやり方であって、最適化されたと思った歯車がいきなり自分自身を取り外してどこかに行ってしまうなんてことは、社会の効率の面から考えればあり得ないことなのだ。

 

だが、自分にわかりやすい値札を付けて、それ以外のあらゆる要素を取り除いて、効率よく生きていくなんて、半ば死んでいるようなものではないだろうか。

 

僕はそんな人生は、嫌なのだ。

 

 

 

2019年に、自分がどんなジャンプを選択するのか、それは今はわからないけれど、どんな選択をしたとしても、僕はそれを甘んじて受ける自信だけはある。

 

そうした再帰的な生き方、自覚的に自分に機会を与え、そのなかで精いっぱいやっていくようなやり方こそが僕の生き方なのだと自覚できたのが、20代の大きな収穫だったと思う。

「いい人どまり」なんて言わせない、とびきりのいい人になれ。

2017年は、僕のメンタリティに画期的な変化が起こった年だった。

 

これまで嫌だった「いい人」「優等生」という特性を受け入れ、「自分が頼られることすべてに惜しみなくイエスと言ってやろう」と決意したのだ。

 

【参照】

「良い子100%で生きる」  

「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

 

 

 

その結果は、凄まじいものだった。

 

たくさんの人が僕のところにやってきて、いろんな機会をくれた。時系列で、代表的なものをざっと書き出してみよう。

 

・ミレニアル世代の情報発信メディア MILLENNIALS TIMES で記事を書き始めた。

 

・メディアプランナーの部署に異動になった。

 

・ひょんなご縁から家庭教師をすることになった。

 

・4人飲み企画 東京よばなし を始めた。

 

・紹介に与りウェブマガジン キャリアサプリ で記事を書き始めた。

 

・小説 UNFORGIVEN を書き始めた。

 

・会社の組合の委員長になった。

 

これ以外にも、広告賞に応募したり、会社の野球部の優勝決定レポートを書いたり、北アルプスに登ったり、釣り部を結成したり、SUPをやったり、競合プレゼンのプランを1人で考えたり、たくさんの「初めて」の経験をさせてもらった。

 

そのすべてが「他人から与えてもらった経験」だった。

 

もちろん、僕が自ら手を挙げて取り組んだこともあるけれど、そのきっかけは例外なく「人が僕にやってほしいと望んだから」だった。

 

2017年の最後の方は、あまりにも多くの機会をもらいすぎて目が回り、正直へろへろだった。それでも、今年いっぱいはすべてのバッターボックスに立ってやると誓って、走り抜くことができた。

 

ものごころついてから、一番素敵な年だった。

 

 

 

機会や経験を運んできてくれる人もいれば、誰にも言えないような秘密を話してくれる人もいた。

 

こんなにも多くの人が、人には共有できない自分だけの歪みや偏りを抱えながら暮らしているのかと、僕は感嘆しながら彼らの話を聴いた。

 

たぶん、僕がそうした心の内を見せる相手として選ばれやすいのは、善悪やべき論で価値観を判断せず、その人の話を心からおもしろがり、内面を正しく表現できる言葉を一緒に探していこうとするからだと思う。

 

それも、結局は「いい人だから」なのだろう。「正義の観点から考えればあなたは間違っています」と断罪したり、他人のめんどくさい話なんて知ったこっちゃねえよと突き放したりすることだって、僕には選べる。だけど、僕はいい人だから、いくらでも話を聴いてあげたいと思うし、世間一般が好む解より「その人が納得する解」をともに見つけ出したいと思う。

 

 

 

2017年は、そんな風にして過ぎていった。

 

いつしか、自分が「いい人」という言葉に対して抱いていたマイナスイメージは、プラスのものに置き換わっていった。

 

昔、僕が「いい人」と言われて一番嫌だったのは、「いい人どまり」といった意味合いを含んでいるように感じていたからだった。

 

恋愛面に限らず、「いい人なんだけどエッジが立っていないんだよな」というのが、僕の思う「いい人どまり」のニュアンスだ。

 

だが、「とことんいい人になってやる」と決意してからこれまでを振り返って思ったのは、「本当に死ぬほどのいい人になれば、『いい人どまり』などというワードが出てくる余地はなくなる」ということだ。

 

それはきっと、「本当のいい人」というのが、この世界では滅多にお目にかかれない、稀有な存在だからなのだと思う。

 

 

 

僕が今年、「いい人であること」を決意して最後には息切れ状態に陥ったように、「純粋な善意」は、その善意を原動力にして行動する人間を、殺してしまうという作用を持ち合わせている。

 

つまり、いろんな機会や経験を与えられ、それに応え続けていると、自分の時間的・肉体的・精神的リソースが枯渇して、動けなくなってしまうのだ。

 

それは、自殺とも他殺ともつかない死に方である。そもそも、「他者から与えられる機会に応え続けること」自体が、100%主体的な行動とは言えないし、さりとて全面的に受け身な行動とも言えない、曖昧な性質を持っている。今年僕が読んで衝撃を受けた本の言葉を借りるなら、その行動の果てに死ぬことはきわめて「中動態」的であると言えるだろう。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

いずれにせよ、「純粋な善意」を原動力にした個体はやがて死ぬ。したがって、遺伝子的にもミーム的にも、後世にそうした生き方は残らない。

 

だからこそ、僕たちは「自分から『いい人』という特性を選択し、他者から寄せられる希望に沿い続ける人」に対して、「ただのいい人ではない」と驚嘆の念を抱くのだろう。

 

僕自身、ほんの少しだけ「本当のいい人」の世界を垣間見て、これをずっとやり続けると死んでしまうけれど、その世界の人だけが手にできる機会や経験を引き寄せる磁力には並々ならぬ強さがあるなぁと感じたものだ。

 

 

 

人はどうすれば「本当のいい人」になれるのだろうか?

 

そのヒントは、最近発売された『どうぶつの森 ポケットキャンプ』にある。

 

これは、『どうぶつの森』シリーズ初のゲームアプリである。簡単に言うと、ひたすら動物たちのお願いを叶えることでアイテムやお金をもらい、自分のキャンプ場を好きなように拡張していくゲームだ。

 

象徴的なのは、何よりもまず「人に与えること」が最初に来るゲームである、ということだ。それも、与えるものは虫や魚や果物といった「誰でも手に入れられるもの」であることが特徴だ。

 

自分が与えられるものを、ただ「いい人」として相手に与えてゆく。その結果、お金やアイテムをもらい、自分のキャンプ場に動物たちが集まってくる。そうしたゲーム内容は実に示唆的で、僕は唸らざるを得なかった。

 

自分にこれといった特技がなくても、「いい人」として生きることはできる。会社の若手社員としてなら、飲み会の幹事をしたり、自分の仕事が終わった後に何かできることは無いか聞いたり、社内ツールの使い方をいち早く覚えて先輩に教えたり、他にもいろいろと思いつくことはあるだろう。

 

今の自分に手の届く範囲で、人に対して惜しみなく与えることを繰り返していけば、いつしか自分の周りにはたくさんの機会が集まってくる。それが、「死ぬほどいい人」になるということだ。

 

 

 

2017年、僕は「いい人」として生きようと誓い、結果としてたくさんの「初めて」を経験させてもらった。今年僕と関わってくれたすべての人たちに深く感謝している。ただ、自分のリソースが有限であり、このまま生きていくのは難しいということも痛感した。

 

2018年は、「僕が費やすリソース単位あたりで、人により大きな喜びを与えられそうなこと」を中心に据えて、生きていこうと思う。言い換えれば、高いROIの見込める行為に絞って行動する、ということだ。

 

それは、人と話すことと、文章を書くこと。

 

特に、「よばなし」と「小説執筆」は、僕がやることで幸せになってくれる人が確実にいる。この2つは、2018年を通してしっかりとアウトプットを出したい取り組みだ。

 

人脈お化けになりたいわけでも、作家になりたいわけでもないけれど、それをやることで幸せになってくれる人がいるとわかっているのなら、やらない手はない。

 

2018年も、そうした「他人任せ」な気持ちは変わらずに、生きていくのだと思う。

浜金谷の風と音の中で。(とぴちゃん)

2017年8月13日。

 

千葉県南房総を吹いてゆく熱風には、少しだけ、夏の終わりの匂いが混じり始めていた。

 

浜金谷という、聞き慣れない駅で降りた僕は、駅前の小さな交差点を抜けて、とぴちゃんが待つ「とびきり美味い回転寿司屋」を目指した。

 

 

 

とぴちゃんと出会ったのは、今から5年ほど前。僕が書いていたちっぽけなブログがきっかけだった。

 

当時の僕は、学者になりたいと思って大学に入ったものの、「自分のやりたいことがわからない」という絶望に打ちひしがれ、西へ東へ奔走していた。ベンチャー企業インターンで売れそうもない石の鉢を売るために新大阪のオフィス街で飛び込み営業をしたり、大学の学祭でドクターフィッシュ足湯を企画して大赤字を出したり、インドのムンバイで1年間高級アパートを売りさばく営業マンとして奮闘したりしていた。

 

僕は、そうした果てしない自分探しの旅を文章にしたため、小さな子どもが瓶に手紙を入れて海に浮かべるように、せっせとインターネットという大海原に流していた。

 

とぴちゃんは、そんな僕の宛名の無い手紙を読んでくれた一人だった。

 

就職活動をしていたとぴちゃんは、僕と同じように、「自分が何者なのか、やりたいことが何なのか、わからない」という悩みを抱えていた。歌手の世界でメジャーデビューも経験した彼女は、就活の選考で「音楽こそがあなたのアイデンティティなのだ」と押しつけられることに戸惑い、途方に暮れていた。

 

インターネットで人と出会い、自らの弱さやどうしようもない部分を語り合うことなど、普通の人からしたら「気持ちが悪い」と思うかもしれない。だけど、僕たちのような「少し外れてしまった人たち」にとっては、インターネットは救いの装置だった。

 

季節は巡り、僕はサラリーマン街道を突っ走っていた。一度は歌うことをやめた彼女は、再び歌い始めた。そうして、南房総で野外ライブをするという彼女に誘われ、僕はへなちょこギターをみんなの前で晒すハメになるのを覚悟して、この浜金谷の地にやってきたのだ。

 

 

 

午後5時。既に日は傾きつつある。

 

こぢんまりとしたお弁当屋さんの横のスペースが、ライブ会場だった。

 

僕はギターの調弦をしながら、少しずつ人が増えていくのを、興味深く眺めていた。とぴちゃんはいつものハイテンションで、「あっ○○さん!今日はありがとうございます!」などと声を掛けている。

 

音楽で、人を呼べる。それは、ものすごいことだと思う。音楽が文章に比べて圧倒的に素晴らしいのは、目の前でお客さんのリアクションを見ることができるところだ。ミュージシャンではない僕は、その意味で、とぴちゃんのことをとても羨ましく思う。

 

だけど、共通点もある。それは、「人を信じること、人から好かれること」が、「作品だけで突き抜けられないアーティスト」にとって、最強の武器になるという点だ。

 

ものをつくる人間にとって、作品だけで評価されることは、おそらく至上の喜びだろう。僕の好きなTravisというイギリスのロックバンドは、”The Invisible Band”というアルバムで「作品さえ素晴らしければ、アーティストは不要だ」というメッセージを世に遺した。

 

だが、そうした形で作品を評価してもらえる人たちはごくわずかだ。

 

「あいつ、なんか憎めないんだよな」「本当に良い奴なんだよ」そうした言葉とともに、自分の作品を見てもらったっていいじゃないか―。最近、会社の人に文章を読んでもらえる機会の増えた僕は、そんなことを思っている。

 

かっこいいだけが、クリエイティビティじゃない。大真面目に泥臭くて、でもどこかに温かさがあって、そんな自分の人間性をそのままぶつけてやれば、受け手は必ず何かを返してくれる。

 

これだけ人から受け入れられて、愛されているのは、きっととぴちゃんが自分のことを音楽に精一杯ぶつけているからなんだろう。遊びでいくつか彼女と曲を合わせながら、僕はそんなことを考えていた。

 

 

 

ライブは、『空も飛べるはず』から始まった。

 

スピッツは、草野マサムネの異様な声質と高音さえなければ、コード自体はとても弾きやすい音楽である。もちろん、キーを変えてとぴちゃんが歌えば万事解決である。

 

そして『桜坂』。これも弾きやすく、また歌いやすい曲だ。

 

ピアノ曲である『楓』を歌ったところで、僕はギターをとおるさんに渡し、観客席に降りた。とぴちゃんがお客さんを煽る。

 

「あれ、誰か歌いたい人いませんか?えっと、滝田さん!」

 

そう呼ばれた男性は、立ち上がりながら「え?俺?」と周りを見渡すも、とぴちゃんが無理やりマイクを持たせてしまった。ジャジャッ、ジャジャッ、ジャジャッジャーンと、懐かしいイントロが流れると、滝田さんはしかたないなぁと笑みを浮かべた。

 

「『セプテンバーさん』!」

 


RADWIMPS セプテンバーさん(歌詞付き)

 

とぴちゃんのピアノととおるさんのギターをバックに、滝田さんは優しく歌った。ボーカルが野田洋二郎だったか滝田洋二郎だったか、いや滝田洋二郎は『おくりびと』を撮った映画監督だったか…、などと、2杯目のビールを飲み干した僕には少しわからなくなってしまっていた。

 

浜金谷の夕方が少しずつ夜に変わっていく。今を限りと盛る夏も、もうじき9月、セプテンバーだ。

 

 

 

次の曲は、ミスチル好きな僕にとっては「ここでこの曲が聴けるなんて!」とつい興奮してしまった曲だった。思わず、同じくミスチル好きらしい滝田さんと顔を見合わせる。

 

『1999年、夏、沖縄』。まるじさんが、抜群のリズム感覚でしっかりと保ったテンポに、太く腹の底まで響くアルペジオを一つずつ乗せてゆく。

 

 時の流れは速く もう三十なのだけれど

 

 あぁ僕に何が残せると言うのだろう

 

 変わっていったモノと 今だ変わらぬモノが

 

 あぁ良くも悪くもいっぱいあるけれど

 

 そして今想うことは たった一つ想うことは

 

 あぁいつかまたこの街で歌いたい

 

僕は今、28歳だ。Mr.Childrenが瀕死の状態から立ち上がり、『終わりなき旅』という渾身のメッセージソングを世に放ったのは、桜井和寿をはじめとしたメンバーたちが28歳になったかならないかの頃だった。

 

20代後半というのは、子どもと青年の境目だと思う。それまでの人生で構築してきた自分自身を見つめ、さて自分はどう生きようかと自問する。もう変えられない自分の性格や傾向を冷静に捉えて、どんな状態にあれば自分は幸せなのか、それを考えるのが、20代後半という時代なのだ。

 

夜風の吹き始めた海岸沿いの小さなライブステージで、バラードは鳴り続けた。これまでいろんな街で歌ってきたであろう、とぴちゃんにぴったりの曲だった。

 


Mr.children 1999年 夏 沖縄

 

 

 

秦基博の『Rain』や一青窈の『ハナミズキ』、レミオロメンの『粉雪』、いきものがかりの『帰りたくなったよ』など、しんみりしたバラードが続いて、ライブは少しずつ終わりに近づいていた。

 

今日が日曜日でなければ泊まりたいところではあったけど、あいにくとこちらはサラリーマンの身分である。

 

僕は、もう一度とぴちゃんからギターを貸してもらい、同じくギターを手にしていたしょうたさんと並んで座った。

 

猫の恩返しの曲をやろうと思います!『風になる』!」

 

ギターからピアノにシフトしていたとおるさんの弾く、軽やかなイントロが響く。「素敵ですね」と言うと「ギターよりもピアノの方が得意なんだ」と、照れ臭そうに笑ってくれた。

 

僕はしょうたさんと一緒にギターを弾いた。とぴちゃんも歌う。シンプルなコードに乗る、簡単なメロディだけど、とっても切なくて良い歌だ。

 

 陽のあたる坂道を 自転車で駆けのぼる

 

 君と誓った約束乗せて行くよ

 

 ララララ口ずさむ くちびるを染めて行く

 

 君と出会えたしあわせ祈るように

 


風になる - つじあやの(フル)

 

 

 

すっかり暗くなってしまった浜金谷の町を、僕は駅に向かって歩いていた。

 

―楽しかったなぁ。

 

知らない人たちの前で、ショボいギターを披露するなんて、最初は顰蹙を買わないか心配だったのだけど、とぴちゃんのライブに集まった人たちはみんな優しくて、僕の不安などすぐに吹き飛んでしまった。

 

ギターがちょっとばかし弾けてよかったな、と思う。

 

最近は、ギターに限らず、自分が中途半端に手を出してきたこと、そのすべてに感謝することが多くなった。

 

昔は、何ひとつモノにできず、すぐに冷めてしまう自分が嫌だった。「自分にはこれがある!」と言い切れる何かを手にしたくて、僕は自分探しに邁進していたように思う。

 

だけど今は思う。人と仲良くなって、一緒の時間を楽しもうと思った時、いろんなものに頭を突っ込んだ経験が丸ごと活きてくるんだって。

 

究極の自分探し人間、中途半端ものだった自分が、いろんな人との繋がりをつくって、少しずつ自分のやりたいことに近づいていく。

 

「僕にはこれしかない」なんて、今でも到底言い切れないけど、人を信じて、好いて好かれて、いつでも一所懸命に目の前のことを楽しんでやれ。

 

それが僕たちの、生き方だ。

 

 

 

ドアが閉まり、駅から電車が少しずつ離れてゆく。

 

僕は、浜金谷から乗り合わせた迷子の蛾が、がら空きの座席にとまって休むのを見ながら、この半日ばかりの小旅行のことを思い出していた。

 

―また、来ることになりそうだな。

 

電車は、いつもと変わらぬ月曜日に向かって、東京へとひた走った。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

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「良い子100%」で生きる。

僕は人を嫌えない。

 

すぐ傷つくくせに相手のせいにできない。

 

いつでも優等生であろうとしてしまう。

 

人事やカウンセラーのように、人の話ばかり聴いてしまう。

 

つまるところ、良い子であろうとしてしまう。

  

 

 

これらは、ずっとずっと、僕が否定したかった自分の特性だった。

 

 

 

半年前、僕は「良い子」という呪いを携えて生きるということ。という記事を書いていた。

 

この中で僕は、「良い子」というのは逃れられない呪いであり、それを最大限活かして生きるしかない、と書いた。読んでいただけるとわかるように、割と悲壮感漂うトーンの文章だ。

 

「良い子」ではない、自分を貫いている人。確固たる自分自身があって、それに従って生きている人。文中では「自己実現(できている人)」「やりたいことがある人」などと書いているが、そういう人への憧れが後ろに透けて見える、そんな文章である。

 

「良い子」であるのは不本意だけれど、それは仕方ない。消えない呪いは、利用して生きよう。それが、半年前に僕が思っていたことだった。

 

 

 

だけど、今は思う。

 

 

 

「良い子」って、めちゃくちゃ長所じゃないかと。

 

「嫌いな人がいない」って、死ぬほど素敵じゃないかと。

 

「優等生」って、いなきゃ世界は回らないよって。

 

「相手の話が聴ける」って、そんなに誰にでもできるようなことじゃないって。

 

 

 

僕はいつからか、他人から見て「良いところだよ」って言われる自分の特性のいくつかを、否定して生きていたように思う。

 

ネガティブな特性(例えば僕で言えば「高校時代リア充でなかったこと」へのトラウマ)よりも、ポジティブな特性の方が、「自分がそれを否定していること」は気付きにくい。

 

なぜなら、他人から褒められる部分というのは、健康診断で「問題なし」と言われているようなもので、自分で多少違和感があっても「まあ、いいか」と思ってしまう部分だからだ。

 

テレビ局担という荒療治によってネガティブな特性を受け入れることができた僕だったが、「良い子」をはじめとするポジティブな特性は受け入れられていなかった。

 

 

 

なぜ、ポジティブな特性である「良い子」を、僕は否定してしまっていたのだろうか?

 

その分析は、先の記事でもう済んでいる。

 

「やりたいことをやれていない人は、人生の失敗者だ」という価値観が、小さい頃から僕の中にあったからだ。

 

それは、僕の両親がずっと「お前はやりたいことをやって生きろよ」と言ってくれていたからだと思う。

 

これ自体は、まったく問題のないメッセージだと思う。むしろ、僕が親だったとしても、同じことを子どもに言って育てたいくらいだ。

 

問題は、受け取り手である僕の方にあった。生まれついての「良い子」であった僕は、「やりたいことをやって生きること」を「与えられた条件」として、それを満たすことを目標に、これまで生きてきてしまったのだ。

 

先の記事にも書いたが、「良い子」というのは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」のことである。「良い子」である僕は、「やりたいことをやって生きること」を、「与えられた価値基準」として設定してしまったのである。

 

「人の喜ぶことを率先してやる」「人の言うことをちゃんと聞く」といった「良い子」的な価値観は、「やりたいことをやる」のとは真逆で、だからこそ僕は学生時代から今にかけて、その狭間で死ぬほど苦しんだのである。自分が本当は「良い子」なのに、「良い子じゃない、自分のやりたいことをやっている人」を目指そうとしていたから。

 

それにつけても思うのは、教育というものの難しさである。どんな風に育てたとしても、子どもは親の影響をめちゃくちゃ強く受けて育たざるをえない。僕が子どもを育てる時は、「自分の言動は知らず知らずのうちにあなたに強く影響しているだろう。将来大きくなって何かが辛いなと感じる時は、親の影響についても考えてみてほしい」と言おうと思う。

 

(僕は今も両親の教育には心の底から感謝している。その気持ちについては、少しも変わるものではないことだけは、ここに書いておきたい。)

 

 

 

もう28歳になろうかというタイミングで、こんなことに気が付くなんて、人生は何が起こるかわからないなぁと思う。

 

そして、「自分は良い子なんだ」と気が付いてから、僕の人生はこれまでにない面白い動きを見せてくれている。

 

僕は「良い子100%」で生きる。

 

すべての人を信じて、自分を全部見せて、惜しまずに与えて、思ったことを口にして…。

 

それがどこに繋がるのか、何をもたらすのか、今の僕には見当もつかないけど、とてつもなくワクワクしていることだけは事実だ。

 

「良い子」って、本当に素晴らしいことだって、地球上のすべての「良い子」な人に届けばいいなって、そう思ってます。

 

「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

最近、会社で「お前は本当に良いヤツだな」と言われることが多い。

 

これは自慢でもなんでもなく、むしろ皮肉やからかいといったニュアンスを多分に含んでいるのだが、確かに僕は自分自身「とても良い子」であると思っている。

 

大学生の頃の僕は、「良い子」であることがこの上なく嫌だった。優等生であることより、自分の好きなことで生きていける人になりたいと思っていたし、「自分が生涯かけて成し遂げたい夢」を探して、人一倍あちこち駆けずり回っていたように思う。

 

しかし、今思うのは、自分は「良い子」としてしか生きることはできないのだな、ということ。そして、もしそうであるなら、自分が「良い子」に生まれついてしまったという呪いを最大限利用して、生きてやろうじゃないかということだ。

 

今日は、僕と同じように「良い子」である人に向けて、「良い子が幸せに生きるためにはどうすればよいか?」ということについて書いてみたい。

 

 

 

まず、「良い子」の定義をしておこう。

 

僕が思うに、「良い子」の定義とは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」だと思う。

 

想像しやすいのは、「クラスの優等生」だ。内申点を取るということがよい高校に進学するのに有利なのであれば、定期テストで高得点を取り、学級委員などの雑用を進んで引き受け、部活でもリーダーシップを発揮する。嫌なヤツかというとそうでもなく、人を見下したり差別したりせず、誰にでも人当たりよく接することができる。

 

ここでのポイントは、あくまでその価値基準が「与えられた」ものであるということだ。学校であれば「良い成績を取ること」、会社であれば「仕事で結果を出すこと」が、その価値基準になるだろうし、人が集まる場所であればどこでも「そこにいる人と仲良くやること」が、大切な価値基準になるだろう。

 

自分で「作りだした」価値基準ではなく、誰かから、どこかから「与えられた」価値基準。それが、「良い子」にとっての重要な指針となる。

 

 

 

振り返ると僕は、ものごころついた時から今の今まで、とてつもなく「良い子」であったように思う。

 

両親の名誉にかけて言うが、僕は決して「テストで良い成績を取り、先生に好かれる優等生になりなさい」と言われて育ったわけではない。むしろ両親は、事あるごとに「お前は好きなことをやって自由に生きろ」と僕に言い続けていたし、そのためにいろんな環境を準備してもくれた。

 

その教育方針を示す、象徴的なエピソードがある。僕が小学校5年生の時に参加した、サマースクールというイベントだ。

 

サマースクールは、今はもう亡くなってしまったジャック・モイヤー氏という海洋学者が始めた野外学習プログラムといった趣のイベントで、小学校高学年から高校生までの青少年たちが伊豆諸島や沖縄の慶良間といった日本各地の離島に集い、昼はスキンダイビングシュノーケリング)をして海中を観察し、夜は昼間見た生物の生態について、モイヤー氏をはじめとした講師陣の講義を受ける、といった内容だった。

 

僕は子どもの頃から生き物が好きだったし、自分が興味を持ったものについて、本を読んだり話を聴いたりするのが好きだった。そうした姿を見た親が、このイベントに応募してくれたのである。この体験から、僕は将来生物学者になりたいと考えるようになる。

 

サマースクール以外にも、両親は僕のやりたいことのためにあれこれと環境を整えてくれた。僕がやりたいと思ったことを、自由に応援してくれる人たちだった。そのことについて僕は心から感謝しているし、自分が子どもを持ったら、そんな風に育ててあげたいと思っている。

 

 

 

一方で、僕はこの国の教育課程において、一貫して「良い子」であった。

 

この「良い子」がどこから来たものなのか、未だに僕はわからない。生来のもの、と答えにならない答えをつぶやくしかないのである。

 

少なくとも中学を卒業するまで、学校の勉強で苦労したことはなかった。部活ではキャプテンをやり、生徒会なども頼まれれば立候補した。きっと教師からすれば、とても扱いやすい優等生という印象だったのではないかと推察する。

 

高校は、とにかく部活と勉強に一所懸命だった(部活と勉強の両立というのが、公立高校にとってこれ以上ない「良い子」像であることは、議論の余地がない)。高校野球の激戦区・大阪では、僕の通う高校が甲子園に出ることなど夢のまた夢だったが、それでも毎日必死に練習していた。レフトのフェンスまで60mほどしかない小さなグラウンドが使えない日には、母校の目の前にある大阪城の急坂を何度も駆け上がり、「秀吉め、こんなキツい練習環境を後世に遺しやがって…」などと悪態をついたりしたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

 

野球部を引退してからは、立花隆氏の『脳を鍛える』という本に頭をかち割られるような衝撃を受け、上述のサマースクールに参加する中で心に抱いた「生物学者になりたい」という夢を無条件に信じて、大学に合格するために一心不乱に勉強した。

 

その中で、「本当に自分は学者になりたいのだろうか?」といった問いは、心に浮かぶことはなかった。仮に浮かんだとしても、「まあ、それは大学に受かってから考えればいいか」と思っていたことだろう。

 

日本においては、大学に入学するまでは、「やりたいことを見つけた時のために選択肢を広く持っておく」ことと「良い子でいる」ことはパラレルであり、ほぼイコールになっている。

 

中学生、そして高校生だった頃を振り返っても、僕は将来の自分が「やりたいことを見つけられない」という事態に陥ることなど想像もしていなかった。とにかく、選択肢を幅広く持っておくためには、難しい大学に入っておいた方がいい。やりたいことは大学に入ってから本格的に固めればいい、そう思っていた。

 

 

 

しかし、大学に入ってじわじわと感じていったのは、「自分が何をすればよいのかわからない」という絶望であった。

 

大学では、何をやるかは個人の自由である。特に、僕の入った京都大学は、本当に「何をしても良い大学」であり、その中でも理学部というのは、京大らしさを煮詰めて瓶詰めにしたような場所であった。なにせ、生物専攻の人間が数学の講義を受けても、単位として認められるような学風なのだ。僕のクラスメートの中には、嬉々として1回生の早々から研究室に通い、2回生の時には論文を書いて、それ以降は研究のために世界を飛び回っているような人間が何人もいた。

 

つまり、「テストで点を取っていれば良い子」だとか「部活に真剣に打ち込んでいれば良い子」だとかいう考え方が、大学では消えてしまうのである。かろうじて、国家公務員や弁護士といった難関資格に合格することや、就職活動で一流とされる企業に入ることが、「良い子」的な考え方なのかもしれないが、京大の理学部にはそうした風潮はみじんもなかった。

 

そんな環境の中で、僕は自分が何をやりたかったのかを見失ってしまった。

 

最初は、これまで信じていた夢に従って、生物科学の研究室を志し、スキューバダイビングのサークルに入った。「自主ゼミ」と呼ばれる学生の自主勉強会に顔を出し、生物科学徒のバイブルとも言える『Essential 細胞生物学』をノートにまとめていった。ダイブマスターの免許を取ることを目指して、サークルのツテを頼って沖縄・久米島にあるダイビングショップに泊まり込み、プロのインストラクターたちに怒鳴られながらアルバイトをした。海洋生物学者という、わかりやすい、きちんと世の中的に名前のついた職業を目指して、僕は順調に歩を進めているかのように思えた。

 

しかし、どうも気が乗らない。生物学の講義の単位は落とすし、ダイビングも大きな合宿以外は顔を出さなくなっていった。所属していたもう一つのサークル、クラシックギター部の部室にこもって、昼間から授業をサボってギターばかり弾いている人間になってしまった。それでも大学の構内にいるならまだマシな方で、ITベンチャーで新規事業と称して石の鉢を売ろうとしたり、『夜は短し歩けよ乙女』に出てくる京大の学祭でドクターフィッシュを泳がせた足湯を出そうとしたり(参照:変人なんて、やめちまえ。)、さし飲み100人斬りをしたり、インターネットで人を集めてウェブサイトを立ち上げたり、果てはご存じのとおり、インドに行って高級アパートを売り歩くインターンにトライしたりした。

 

たぶん、事情を知らない人からすれば「こいつは何をやっているんだ?」と思うに違いない、そんな大学生活だった。それでも自分の中では、「これがやりたいのかもしれない」という気持ちが芽生えるたびに、骨でもしゃぶるようにその希望にすがりついていたのだ。学者、サイエンスライター、新聞記者、起業家、経営コンサルタント…。だがそのどれも、「自分の本当にやりたいこと」ではなかった。

 

 

 

望むと望まざるとにかかわらず、僕は大学の時に、自分の中の「良い子」と決別したつもりだった。

 

元々僕は、「良い子」的な特徴を多分に持ちながら、自分がやりたいことをやって暮らしていきたいと願っていた人間だった。高校までは、「良い子」であることと「自己実現」がうまく共存できていたから、何も疑問を持つことなく「よし、人生はうまくいっている」と確信できていた。いわば「良い子」と「自己実現」は車の両輪であった。

 

しかし、大学という自由な場所では、「良い子」という概念は消失する。それまでと同じ車で走ろうとしても、既に車輪の片方が外れてしまっている以上、前進は望めない。

 

さあそれでは「やりたいこと」に向かって駆け出そうか、と思ったものの、自分がやりたいことだと思っていたものと向き合ってみると、なんだか違う。そんな風にして、「良い子」と「自己実現」の両方の車輪を失ってしまった僕は、今自分が向かおうとしている方角がどの方角なのかもわからず、迷走し続けたのである。

 

繰り返しになるが、僕は高校生の時点では「やりたいこと」が比較的明確にあった人間だと思っている。海が好きだったし、生き物が好きだったし、活字を読んだり生み出したりするのが好きだった。生物学者の他にも、ダイビングのインストラクターだったり、モノカキだったり、そういう仕事ならできるんじゃないかとも思っていた。そんな僕が、やりたいことを見つけられないなど、大学に入る前は想像もしていなかったのだ。

 

 

 

大学1年の春、就職活動をしていたスキューバダイビングサークルの先輩との会話の中で、今でも心に残っている言葉がある。

 

「好きなことを仕事にして生きていくのは、無理なことやで」

 

その時僕は、強烈に腹が立ったものだった。そんなこと勝手に決めるな、お前はそうなのかもしれないが俺はそうじゃない。嘘だと言うのなら、証明してやる―。

 

だが皮肉にも、そこからの大学時代で証明されていったのは「自分はやりたいことを見つけることができない」という、思ってもみなかった命題だった。

 

世界中のカラスを確認した後でなければ、「白いカラスは存在しない」ということは証明しえない。同じように、自分の興味のあることをすべて試してみた後でなければ、「自分は夢ややりたいことを見つけることができない」とは言い切れない。

 

僕は藁にもすがるような気持ちで、脈絡など度外視して、新しい経験を求め続けた。夢が見つかるということが、世界のどこかに白いカラスを発見するのと同じくらい、稀有な可能性だったとしても。

 

 

 

6年に渡る苦闘の末、僕は広告代理店に入ることにした。

 

高校までの「良い子」という属性を失い、「自分のやりたいこととは何か」を問い続けた結果、「限りある時間の中ではやりたいことは見つけられない」という結論に達した僕は、「やりたいことが見つからない生き方でもいいじゃないか」という自分のマイノリティなメッセージを広めたいと思い、広告代理店を志望した。

 

そこで待っていたのは、かつて自分が決別したはずの「良い子」との再会だった。

 

仕事というのは、お金という強制力の介在により、普段の自分なら到底取り組まないようなことに挑戦させるものだ。お金をもらってしまえば、得意だ不得意だ、好きだ嫌いだなどとは言ってられない。それはつまり、「クライアントの喜ぶこと」が「与えられた価値基準」となり、「良い子」を駆動させていく、ということだ。

 

広告代理店のテレビ局担当となった僕は、高校時代のトラウマによってあんなにも距離を置いていた「テレビ業界」の人たちと、日夜濃厚に絡み合うこととなった(参照:僕が「スクールカースト」から解放された日。)。

 

僕が「良い子」でなければ、ここで仕事を辞めていたかもしれない。それほど、僕は「リア充」的なものに苦手意識を抱いていたのだ。しかし、幸か不幸か僕はやっぱり「良い子」だった。苦手だと言って飛び出すよりは、その場所のルールを見定め、そこで評価される努力をする方が性に合っていた。

 

テレビ局担当となった僕は、各局の視聴率を眺め、自分の担当する局の強みを把握し、どのクライアントがどんな番組にCMを流してほしいのか、細かく頭に叩き込んだ。自己流の数式を作って、どうやったら担当局に発注がもらえるのか仮説を立てた。厳しい交渉の中で「お前はもう電話してくるな」と言われても、「嫌われたくない!」という一心で、しつこく相手にまとわりついた。すべて僕が「良い子」だったためだ。

 

普段の業務以外でも、「良い子」であることは役に立った。会社の部活動や、有志の活動で、僕は率先して雑用をやることにした。「若手は雑用でもなんでもやって下積みの中から学べ」という価値観と、「そうした体育会系的な考え方が生産性をなくしているのだ」という価値観のどちらが正しいのか、僕にはわからない。ただ思うことは、「若手が雑用なんて時代は終わった、俺は好きなことをやるんだ」と思っている人が多ければ多いほど、「良い子」的なあり方の価値は、相対的に高まるということだ。「良い子」的なふるまいに苦痛を感じないのであれば、雑用でもなんでもして、人とのつながりを作っていった方が、自分のためになるのだ。

 

そうした「良い子」的な活動の中で、次第に「自分とは何か」という疑問の答えが明らかになってくる。そこにつながっている「自分のやりたいこと」も、少しずつ見えてくる。

 

最近、僕が「良い子」でなければ書けなかったであろう局担の記事が、少なからず業界内で読まれたことによって、社内のまったく知らない人から「何か書いてくれないか」と頼まれることになった。そのうちにこのブログでも告知をするかもしれないが、ミレニアルズ世代について書く予定だ。「自分探し」や「キャリア」のことなら、僕以上に悩んだ人間はそうそういないだろう。そうした自分のテーマとミレニアルズ世代を絡めながら、書いていくつもりだ。入社当時に掲げたマイノリティなメッセージを広めるという志望動機は、もしかしたらここで叶うのかもしれない。

 

 

 

会社に入って改めて思ったのは、自分はこの「良い子」という属性から、生涯逃れることはできないだろうということだ。自分がゼロイチで何かを創り出すのではなく、既にある仕組みの中で「良い子」としてふるまうことしか、自分にはできそうもない。

 

自分が「良い子」であることは、しかたのないことなのだ。それは、どれだけ拭い去ろうとしても消えない呪いである。もしそうだとするなら、「良い子」を最大限自分のために利用して、生きてやろうじゃないか。

 

「良い子」なんて言われるのは嫌だし、もっと自分の夢をかっこよく形にしていっている人のように生きたいけど……。僕にはこんなふうに、泥臭く生きるしかないのだ。

 

 

 

既にお気付きかもしれないが、僕が今日ここで書いたことは、すべて対症療法にすぎない。本来であれば、「自分が本当にやりたいこと」を見つけられるような教育の在り方や人の生き方を、誰か偉い人が説くべきなのかもしれない。

 

しかし、僕が教育を受けた時代は「学歴至上主義ではなく各々の自己実現を可能にする」すなわち「個人がやりたいことをやって生きる」という名目で実施されたゆとり教育のど真ん中だ。その中身には賛否両論あるだろうが、「個人の可能性の実現」が大義名分として掲げられた教育を受けた僕が、ここまで自分のやりたいことを叶えられていないのであれば、それは教育ではどうにもならない性質のものなのではないだろうか。つまり、人間の本質として、「やりたいことをやって生きる」というのは、困難なことなのではないだろうか。

 

そして何より、僕はもう修正の効かない27年間を既に過ごしてしまっており、そこに「理想の教育」や「理想の人生」を持ち込もうとしても、時を巻き戻すことは不可能なのだ。

 

であるなら、今ここにいる自分が少しでもよく生きることができるような対症療法を提示するのも、悪くはないのではないだろうか。

 

「自由に、やりたいことをやって生きようよ」という無邪気な掛け声が、誰かの気持ちを暗くしているとしたら、僕はこう言ってあげたい。

 

「良い子」という呪いを携えて生きることだって、人間には選べるのだと。

検索エンジンには捉えられない「雰囲気がどんぴしゃに似てる」作品5組。

小説を読んでいて、音楽を聴いていて、あるいは映画を観ていて、「あ、この作品はあの作品に似ているぞ!」と思ったことが、誰しも一度はあるだろう。

 

当然、別のジャンルの作品どうしよりは、SF小説ならSF小説、ロック・ミュージックならロック・ミュージックといった同ジャンル内の方が、そういった繋がりを発見することは多いだろう。昨今はインターネットという便利なものがあるので、「ビートルズボブ・ディランが接触した結果、前者はメッセージソングを歌い始め、後者はフォークギターをエレキギターに持ち替えた」といった詳細な相互関係を、知識によって把握することも可能になった。

 

ちなみに、ロック・ミュージックのファンであれば、こうした「ミーム的な繋がりに基づいて次に聴くバンドの目星をある程度つけてしまう」という経験には、思い当る節があるだろう。

 

一方で、ジャンルも時代も国籍も異なっており、その間には何の繋がりも無いはずなのに、同じ匂いを嗅いでしまう作品の組み合わせというのも、確かにある。生物学で言うところの相似器官、ルーツを同じくしないはずの昆虫の翅と鳥の翼のような関係である。

 

僕は、そうした相似の対を見つけると、つい嬉しくなってしまう。それはきっと、四半世紀もそれについて考え続けている「自分自身」なるものが、まったく別の作品に同じような反応を見せたという事実をもって、少しは自分がその正体に近づけた気になるからだと思う。

 

今日は、ミーム的な繋がりのない(はずの)相似的な作品のジャンルを超えた組み合わせを紹介することで、僕と似たような感覚を持つ人たちへのリコメンドになればいいなと思う。  

 

 

 

 

 

1, 【映画】ハル・アシュビーハロルドとモード 少年は虹を渡る』と【音楽】ザ・スミス

 

ハロルドとモード 少年は虹を渡る』は、「アメリカン・ニューシネマで好きな作品を3つ挙げてくれ」と僕が言われたら、必ずその名を挙げるであろう作品だ(ちなみにあとの2つは『イージー・ライダー』と、ニューシネマと呼んでよいのかわからないが『チャイナタウン』)。

 

主人公ハロルドは自殺を演じることが趣味という19歳の少年。ある日、縁もゆかりもない他人の葬式に参列した先で、79歳の老女モードと出会い、恋に落ちる―。いかにも「カルト映画」と呼ばれる作品にありがちな訳のわからなさが匂ってくるようだが、プロットがとてもしっかりしていて、ニューシネマには珍しい希望を(それも純度100%の希望ではなくコクと深みのあるやつを)受け手に抱かせてくれる作品なのだ。

 

 

一方で、ザ・スミスというバンド。非常に内省的で繊細な音を奏でるバンドだ。「もしロッカーが作家をやるなら成功しそうなのは?」という問いがあるとすれば、僕はザ・スミスモリッシージョイ・ディヴィジョンイアン・カーティスを挙げると思う。ただ、両者を隔てる壁は、(結果論であるが)前者は生き残り、後者は死んでしまったということだ。そういう意味でも、『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』という作品に漂う雰囲気は、ジョイ・ディヴィジョンではなくザ・スミスに近い。

 

鬱々とした青春時代に、授業をサボって観るのに最高な映画であり、最高な音楽であると思う。

 

ハロルドとモード/少年は虹を渡る [DVD]

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The Smiths: Reel Around The Fountain

 

 

 

2, 【小説】川上弘美『神様』と【音楽】スピッツ

 

小説を読んでいて音楽が思い浮かぶことは、僕の場合ほとんどない。それでもこの両者の名前だけは、挙げずにはいられない。

 

川上弘美は、これまでのところ女性作家で一番好きだと思える書き手である。これは僕が男だからかもしれないが、女性の方が男性に比べて、その作家特有の心理描写の傾向があるように思う。そこに共感できないと辛いし、共感できるとめちゃくちゃ入り込める。川上弘美以外だと、田辺聖子も好きな作家である。

 

川上弘美の作品は、ビー玉のように透き通っていて可愛らしくて、僕はそういうラムネみたいな作品にめっぽう弱いのだ。なんとセンチメンタルな我がガラスのハート…ではあるが、そういうのにビンビンに感じてしまうのだから仕方ない。

 

そしてこの感覚は、完全にスピッツにも当てはまるものだ。特に初期のスピッツの透明感と童話的世界観は半端ない。直接的ではないのにエロいところも似ている。川上弘美スピッツは、僕の中で絶対に切り離せないマッチングなのだ。

 

冒頭のくまを始め、この世のものではない存在たちがたくさん登場する、川上弘美の『神様』。そこに合わせていくなら、やっぱり『ウサギのバイク』から始まる、スピッツの『名前をつけてやる』だろうか。

 

神様 (中公文庫)

神様 (中公文庫)

 

 

名前をつけてやる

名前をつけてやる

 

 

『名前をつけてやる』についてはこちらもどうぞ!→名前をつけてやる - スピッツ / 情けない青春が詰まった、幻想的な絵本みたいな音楽。 

 

 

 

3, 【映画】ティム・バートンシザーハンズ』と【音楽】キュアー

 

メジャーでオシャレな作風の映画監督を3人挙げろ、と言われたら、『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ、『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソン、そしてティム・バートンのトリオがつい頭に浮かんでしまう。僕なんかは「オシャレ」という概念からほど遠いようなところで幼少時代を送ったものだから、彼らの作品を観ると「オシャレだなぁ」というよりむしろ「これがオシャレというやつなのか…メモメモ」といった感想を抱く。

 

というわけでティム・バートンである。ここで特に取り上げたい作品は『シザーハンズ』。多かれ少なかれ彼の作品はゴシック・ロックっぽい雰囲気をまとっているが、とりわけ本作はその匂いが強い。そしてなかなかテーマが深い。両手がハサミと化した主人公エドワードの姿は、「僕たちは人を傷つけることなく生きることができるのか」という問いを象徴しているように見える。

 

キュアーというバンドは、邦楽をよく聴く人にとってはいわゆる「ビジュアル系」っぽくて敬遠してしまうかもしれないけど、なかなかどうして、聴きやすいバンドである。確かに暗い曲は多いが、メロディがしっかりしていてキャッチーだ。僕が『シザーハンズ』と重ねたのは、彼らの屈指の名曲 "Friday I'm In Love"。映画のドラマチックさと温かみが、見事なまでにこの楽曲の中で表現されている。この映画の音楽をキュアーが作っていたらドンピシャだった。

 

シザーハンズ (字幕版)
 

  


The Cure - Friday Im In Love

 

…とここまで書いて、ティム・バートンがキュアーの影響を受けていたと明言している記事を発見してしまった(The Cure 奇才ティム・バートン監督からラヴ・コール)。「ミームレスな相互関係」ではどうやらなさそうだが、それでもこの両者を結び付ける補助線が1本でも多くあった方がよいと思うので、そのまま記載しておく。 

 

 

 

4, 【小説】筒井康隆『敵』と【映画】イングマール・ベルイマン『野いちご』

 

中学生の頃というのは一生のうちで最も「見えないけれど見たい」という欲求に突き動かされることの多い時期ではないだろうか。もちろん第一に来るのは異性の肉体だ。サルのごとく性欲を持て余した男子中学生たちがこぞって河原のエロ本やアパートの郵便受けのピンクチラシに向かう様は今思うと滑稽であるが、当時はそんな客観的な視点なぞ持つ余裕はなかった。ただ、性欲以外にも、自我というものが目覚め、自分以外の人間は何をどう考えて生きているのだろうかと想像して、見えない他人の「こころ」を見たいと渇望する時期である。

 

中学生の僕にとり、筒井康隆村上春樹と同じく、「見えないけれど見たいもの」を鮮やかに描いてくれた作家だった。当時僕がハマったのは『家族八景』。人の心を読める魅力的なエスパー七瀬が女中に扮し、現代社会を生き抜いていく物語である。人の心がこんなにも自己中心的で欲望に満ちているものなのかと、僕は賢者タイムに絶望したものである。今思うと、あの作品は夏目漱石の『こころ』へのアンサーだったのかもしれない。

 

エロチックでグロテスクと称されることの多い筒井康隆だが、今回取り上げたいのは『敵』という作品だ。高齢の域に達した主人公の精神が、次第に狂気に汚染されてゆく様子を描いている。僕はこの本を初めて読んだ時、老人になっても、人は欲望を抱いたままシームレスに狂った世界へ足を踏み入れてゆくのだということを感じ、恐怖を感じたものだ。

 

そして、『敵』を読んでから10年以上経ったある日、ふと思い立って名画座で観賞したのが、イングマール・ベルイマンの『野いちご』だった。白黒の世界で展開される老人の奇妙な一日を眺めていて、僕はふと「この感覚は昔どこかで味わったことがある」と思った。

 

 

両作品に共通点は多い。主人公が老人であること、そんな主人公の日常を描写した作品であること、そして現実と幻想を行き来すること、などだ。しかし、この2つの作品を何よりも強く結びつけたのは、「現実を現実として認識できる時間が有限であること」の恐怖だった。

 

要素だけで作品どうしを結び付けることなら、コンピューターにも可能である。しかし、「恐怖の色あい」で作品を繋げるということは今のところ人間にしかできないのだ。

 

  

敵

 

 

 

 

5, 【映画】相米慎二台風クラブ』 と【音楽】NUMBER GIRL

 

相米慎二監督の作品は、ナンセンスな筋書きも多く、「よくわからないものが多い」というのが僕の正直な感想だ(わかりやすいのは『風花』くらいだろうか…)。ただこの『台風クラブ』では、中学生たちの「自分でも捉えきれていない訳のわからない感情」がその作風にぴたりとハマり、奇跡的な仕上がりとなっている。

 

 

 

そして世紀末の邦楽ロックを力強く牽引したNUMBER GIRL。彼らの曲は、特に大学時代によく聴いたものだ。徹夜でマージャンをやった後、脳みそがかっとなって冷めやらないところに、不思議とすっと入ってくる音楽なのだ。

 

「初期衝動」という、正体のあるのかないのかよくわからない言葉が、ロックバンドの音像を描写するのにしばしば使用される。そして、NUMBER GIRLほど「初期衝動」という言葉の意味をわかりやすく伝えてくれたバンドはそうないと思うし、映画において「初期衝動」という形容をするのであれば、『台風クラブ』ほどふさわしい作品はないのではないかと思う。

 

台風クラブ [DVD]

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NUMBER GIRL OMOIDE IN MY HEAD

 

(2:49あたりから)

 

 

 

 

 

検索エンジンには捉えられない」と書いておきながら、この記事をアップロードした時点でそれは叶わなくなるわけだな…と自嘲気味に笑いながら、文章を書いた。

 

今日紹介した作品の組み合わせのどちらかが好きなら、もう片方もきっと好きだと思う。そんな風にして、この記事を読んでくれた人の好きなものが増えていけばいいなと思う。 

 

逆に、こいつこういうのが好きなんじゃないか…と思ってくれた人は、ぜひ僕におススメの作品を教えてくれると嬉しい。

 

 

 

 

 

関連記事:青春時代に聴いておくと、後からもれなく思い出になって死ねる邦楽ロック・ポップス10曲

「メディア・プランニング」が意味をなさなくなる時代へ。

昨今、日本では新しい動画サービスが次々と誕生している。NETFLIX・Huluといった黒船勢にはじまり、民放各局の合同キャッチアップサービスTVerテレビ朝日サイバーエージェントが立ち上げたAbemaTVなどがそれに続く。

 

僕も時々NETFLIXTVerを観るのだが、TVerは民放のテレビコンテンツが百花繚乱のごとし、NETFLIXに至っては映画ありドラマあり、国内あり海外ありとあらゆるカテゴリーの映像コンテンツを網羅している。

 

もちろん、日本版ウィキペディアのページすら無いアメリカン・ニューシネマの隠れた名作を観たい時などは、NETFLIXへの入荷を期待するより渋谷のTSUTAYAに行って発掘した方が早いとは思うが、これもウェブに置き換わるのは時間の問題であるように思う。ウェブ進化論で提唱されていた「ロングテール」が、「ウェブのあちら側」で利用できるニッチなコンテンツには適用されるからだ。

 

また、海の向こうアメリカでは、動画プラットフォームの隆盛ぶりを追いかけるようにして、「パリティ」という考え方が登場してきている。

 

パリティ」とはParity、等価という意味合いである。あまり聞きなれない英単語だと思うが、物理学(特に素粒子物理学)をやっている人なら「パリティ対称性の破れ」で知っているだろう。

 

動画広告の世界において、「パリティ」は「TVにおける1回の広告露出とウェブにおけるそれは同じ価値を持つ」という考え方を指す。下記は、今年の5月11日に出た記事である。

 

Will There Be a Multiplatform Upfront? ~Digital Video, TV Industries Face Need for a Common Measurement~ - AdvertisinAge

 

タイトル訳:複数プラットフォームのアップフロント※市場は実現するのか?~デジタル動画とTV業界は共通の指標の必要性に迫られている~

 

※「アップフロント」とは、アメリカのTV広告市場における「先買い」のこと。日本で言う「タイム」に似て、年間を通じて枠を買い付ける市場のことを言う。

 

上記の AdvertisingAge の記事はかなり長いので乱暴に要約すると、「TVとデジタル広告においてはこれまで異なる指標が用いられてきており、同一の指標で計測すること(=「パリティ」)は難しいと思われていたが、デジタルGRPなどの新しい指標の開発により互換性が高まった結果、TVとデジタルが統一されたプラットフォームでの広告取引は決して遠い未来の話ではなくなってきた」といったところだろうか。

 

いずれにせよ、「パリティ」という考え方によって、TV番組もウェブの動画も、同じ価値を持つコンテンツとして認識されてゆくことは間違いない。

 

そうなると、映像コンテンツが巨大なプラットフォームに集約されてゆくという現在の流れは、ますます加速するだろう。TV番組は、民放各局のチャンネルで観るものではなく(そうした習慣も少しは残ると思うが)、NETFLIXかHuluかAmazonプライムビデオかはたまた他のサービスになるかは知らないが、TV・ウェブの両方に接続可能なプラットフォームで観るものとなるだろう。

 

今日の記事では、様々なコンテンツが少数のプラットフォームに集約されていく先にある、「プラン・バイ・コンテンツ」という考え方について書こうと思う。

 

 

 

コンテンツの置きどころが少数のプラットフォームに収斂していった場合、広告代理店のプランニングは形を変えていくだろう。各メディアごとのコミュニケーションの最適化を図る「メディア・プランニング」ではなく、各コンテンツごとのコミュニケーションの最適化を図る必要が出てくる。それを、この記事では「プラン・バイ・コンテンツ」とした(長いので以下PBCとする)。

 

いかにもダサい名前なので、よりよい名前を思いついた人はぜひ共有してほしい。

 

PBCとは何かと言うと、「コミュニケーションの最適化を、メディアごとではなくコンテンツ(の形式)ごとに考える」ということである。

 

具体的に書こう。コンテンツには、様々な形式のものがある。映像、活字、音楽、画像……。また、映像が好きな人、活字が好きな人……と、人によって好きなカテゴリーが異なるのも、周知の事実だろう。

 

例えば僕にとって、最も親和性の高いコンテンツ形式は活字である。子どもの頃から身の回りに本が山と積まれていた僕は 、小学生にして椎名誠の『あやしい探検隊』シリーズに憧れ、筒井康隆の『七瀬』三部作にエロチックな妄想を抱く、ませたガキになってしまった。

 

(僕が子どもの頃から好きだった本については、思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。 参照。)

 

あやしい探検隊 アフリカ乱入 (ヤマケイ文庫)
 

  

家族八景 (新潮文庫)

家族八景 (新潮文庫)

 

 

時系列で辿れば、小説と同時期かやや遅れて目覚めたのが日本のポップスやロックであった。それも、「言葉がわかるから」といった理由だった。そこから高校~大学にかけて洋楽も聴くようになった。映像コンテンツは実はずっと苦手で、それこそ社会人になってから、きちんと観賞するようになったと言ってもよい。

 

そんな僕にとって、最も響きやすいコミュニケーションの形は「活字」である。椎名誠が『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』というフィクションだかノンフィクションだかわからないホラーな物語で描いたように、僕もまた「活字中毒者」であるから、そこに文字の羅列がある限り、それを読まずにはいられない。

 

四谷学院の「なんで私が○○大に!?」というおなじみの広告は、常にあの細かい文章の部分を読まないと気が済まないし、迷惑なダイレクトメールはとりあえず最初から最後まで読んでみて「なんて支離滅裂な文章なのだ……」と絶望しながらゴミ箱に放り込む。

 

もし、「活字コンテンツ」のプラットフォームが一元化されれば(その最初の波がKindleだと目されていたが)、こうした「活字中毒者」たちを一網打尽に捉えることが可能だ。これまでのプランニングでは、「雑誌なら、柔らかめで『Pen』や『BRUTUS』に、堅めで『文藝春秋』に出稿しよう」という「メディア選定」が必要だったのが、「活字好き」をターゲットにして一発でコミュニケーションを図ることができるのだ。

 

もちろんそれは活字コンテンツに留まらない。シネフィルやロック中毒の方々も、もれなく捕捉されるだろう。そもそも、映像プラットフォームが一元化され映画とドラマの間の垣根が取り払われれば、「シネフィル」という言葉すらなくなっているかもしれない。

 

PBCが実現された時、マーケティングにおいては「映像が好きな人ってどんな人だろう?」「音楽が好きな人ってどんな人だろう?」と、心理学により接近したアプローチが行われると推測される。もう少し言えば、メディア・プランニングの時代から「より人間の本質に迫ったマーケティング活動を行う必要が出てくる」ということだ。

 

僕は自分が映像や画像といったものに苦手意識を持っていたためにわかるのだが、視覚で情報を捉えるタイプの人は、「形」や「色」にこだわりのある人が多い。反対に、活字が好きな人は「言葉」にこだわりがあると言えるだろう。コンテンツによってターゲットを横断的に観察することが可能になることで、「人間」についての理解のされ方も更新されるだろうし、クリエイティブにおいて力を入れる部分も変わってくるだろう。

 

既に、ウェブに繋がれたメディアにおいては、運用型の広告枠によって一律な広告配信が可能になっている。しかし、現在はまだ、「ターゲットをコンテンツの形式ごとにカテゴライズする」という動きは生じていない。

 

それぞれのコンテンツのプラットフォームが統合された時、それは、広告代理店において人間の捉え方が変わってしまう瞬間になるだろう。