「良い子」という呪いを携えて生きるということ。

最近、会社で「お前は本当に良いヤツだな」と言われることが多い。

 

これは自慢でもなんでもなく、むしろ皮肉やからかいといったニュアンスを多分に含んでいるのだが、確かに僕は自分自身「とても良い子」であると思っている。

 

大学生の頃の僕は、「良い子」であることがこの上なく嫌だった。優等生であることより、自分の好きなことで生きていける人になりたいと思っていたし、「自分が生涯かけて成し遂げたい夢」を探して、人一倍あちこち駆けずり回っていたように思う。

 

しかし、今思うのは、自分は「良い子」としてしか生きることはできないのだな、ということ。そして、もしそうであるなら、自分が「良い子」に生まれついてしまったという呪いを最大限利用して、生きてやろうじゃないかということだ。

 

今日は、僕と同じように「良い子」である人に向けて、「良い子が幸せに生きるためにはどうすればよいか?」ということについて書いてみたい。

 

 

 

まず、「良い子」の定義をしておこう。

 

僕が思うに、「良い子」の定義とは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」だと思う。

 

想像しやすいのは、「クラスの優等生」だ。内申点を取るということがよい高校に進学するのに有利なのであれば、定期テストで高得点を取り、学級委員などの雑用を進んで引き受け、部活でもリーダーシップを発揮する。嫌なヤツかというとそうでもなく、人を見下したり差別したりせず、誰にでも人当たりよく接することができる。

 

ここでのポイントは、あくまでその価値基準が「与えられた」ものであるということだ。学校であれば「良い成績を取ること」、会社であれば「仕事で結果を出すこと」が、その価値基準になるだろうし、人が集まる場所であればどこでも「そこにいる人と仲良くやること」が、大切な価値基準になるだろう。

 

自分で「作りだした」価値基準ではなく、誰かから、どこかから「与えられた」価値基準。それが、「良い子」にとっての重要な指針となる。

 

 

 

振り返ると僕は、ものごころついた時から今の今まで、とてつもなく「良い子」であったように思う。

 

両親の名誉にかけて言うが、僕は決して「テストで良い成績を取り、先生に好かれる優等生になりなさい」と言われて育ったわけではない。むしろ両親は、事あるごとに「お前は好きなことをやって自由に生きろ」と僕に言い続けていたし、そのためにいろんな環境を準備してもくれた。

 

その教育方針を示す、象徴的なエピソードがある。僕が小学校5年生の時に参加した、サマースクールというイベントだ。

 

サマースクールは、今はもう亡くなってしまったジャック・モイヤー氏という海洋学者が始めた野外学習プログラムといった趣のイベントで、小学校高学年から高校生までの青少年たちが伊豆諸島や沖縄の慶良間といった日本各地の離島に集い、昼はスキンダイビングシュノーケリング)をして海中を観察し、夜は昼間見た生物の生態について、モイヤー氏をはじめとした講師陣の講義を受ける、といった内容だった。

 

僕は子どもの頃から生き物が好きだったし、自分が興味を持ったものについて、本を読んだり話を聴いたりするのが好きだった。そうした姿を見た親が、このイベントに応募してくれたのである。この体験から、僕は将来生物学者になりたいと考えるようになる。

 

サマースクール以外にも、両親は僕のやりたいことのためにあれこれと環境を整えてくれた。僕がやりたいと思ったことを、自由に応援してくれる人たちだった。そのことについて僕は心から感謝しているし、自分が子どもを持ったら、そんな風に育ててあげたいと思っている。

 

 

 

一方で、僕はこの国の教育課程において、一貫して「良い子」であった。

 

この「良い子」がどこから来たものなのか、未だに僕はわからない。生来のもの、と答えにならない答えをつぶやくしかないのである。

 

少なくとも中学を卒業するまで、学校の勉強で苦労したことはなかった。部活ではキャプテンをやり、生徒会なども頼まれれば立候補した。きっと教師からすれば、とても扱いやすい優等生という印象だったのではないかと推察する。

 

高校は、とにかく部活と勉強に一所懸命だった(部活と勉強の両立というのが、公立高校にとってこれ以上ない「良い子」像であることは、議論の余地がない)。高校野球の激戦区・大阪では、僕の通う高校が甲子園に出ることなど夢のまた夢だったが、それでも毎日必死に練習していた。レフトのフェンスまで60mほどしかない小さなグラウンドが使えない日には、母校の目の前にある大阪城の急坂を何度も駆け上がり、「秀吉め、こんなキツい練習環境を後世に遺しやがって…」などと悪態をついたりしたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

 

野球部を引退してからは、立花隆氏の『脳を鍛える』という本に頭をかち割られるような衝撃を受け、上述のサマースクールに参加する中で心に抱いた「生物学者になりたい」という夢を無条件に信じて、大学に合格するために一心不乱に勉強した。

 

その中で、「本当に自分は学者になりたいのだろうか?」といった問いは、心に浮かぶことはなかった。仮に浮かんだとしても、「まあ、それは大学に受かってから考えればいいか」と思っていたことだろう。

 

日本においては、大学に入学するまでは、「やりたいことを見つけた時のために選択肢を広く持っておく」ことと「良い子でいる」ことはパラレルであり、ほぼイコールになっている。

 

中学生、そして高校生だった頃を振り返っても、僕は将来の自分が「やりたいことを見つけられない」という事態に陥ることなど想像もしていなかった。とにかく、選択肢を幅広く持っておくためには、難しい大学に入っておいた方がいい。やりたいことは大学に入ってから本格的に固めればいい、そう思っていた。

 

 

 

しかし、大学に入ってじわじわと感じていったのは、「自分が何をすればよいのかわからない」という絶望であった。

 

大学では、何をやるかは個人の自由である。特に、僕の入った京都大学は、本当に「何をしても良い大学」であり、その中でも理学部というのは、京大らしさを煮詰めて瓶詰めにしたような場所であった。なにせ、生物専攻の人間が数学の講義を受けても、単位として認められるような学風なのだ。僕のクラスメートの中には、嬉々として1回生の早々から研究室に通い、2回生の時には論文を書いて、それ以降は研究のために世界を飛び回っているような人間が何人もいた。

 

つまり、「テストで点を取っていれば良い子」だとか「部活に真剣に打ち込んでいれば良い子」だとかいう考え方が、大学では消えてしまうのである。かろうじて、国家公務員や弁護士といった難関資格に合格することや、就職活動で一流とされる企業に入ることが、「良い子」的な考え方なのかもしれないが、京大の理学部にはそうした風潮はみじんもなかった。

 

そんな環境の中で、僕は自分が何をやりたかったのかを見失ってしまった。

 

最初は、これまで信じていた夢に従って、生物科学の研究室を志し、スキューバダイビングのサークルに入った。「自主ゼミ」と呼ばれる学生の自主勉強会に顔を出し、生物科学徒のバイブルとも言える『Essential 細胞生物学』をノートにまとめていった。ダイブマスターの免許を取ることを目指して、サークルのツテを頼って沖縄・久米島にあるダイビングショップに泊まり込み、プロのインストラクターたちに怒鳴られながらアルバイトをした。海洋生物学者という、わかりやすい、きちんと世の中的に名前のついた職業を目指して、僕は順調に歩を進めているかのように思えた。

 

しかし、どうも気が乗らない。生物学の講義の単位は落とすし、ダイビングも大きな合宿以外は顔を出さなくなっていった。所属していたもう一つのサークル、クラシックギター部の部室にこもって、昼間から授業をサボってギターばかり弾いている人間になってしまった。それでも大学の構内にいるならまだマシな方で、ITベンチャーで新規事業と称して石の鉢を売ろうとしたり、『夜は短し歩けよ乙女』に出てくる京大の学祭でドクターフィッシュを泳がせた足湯を出そうとしたり(参照:変人なんて、やめちまえ。)、さし飲み100人斬りをしたり、インターネットで人を集めてウェブサイトを立ち上げたり、果てはご存じのとおり、インドに行って高級アパートを売り歩くインターンにトライしたりした。

 

たぶん、事情を知らない人からすれば「こいつは何をやっているんだ?」と思うに違いない、そんな大学生活だった。それでも自分の中では、「これがやりたいのかもしれない」という気持ちが芽生えるたびに、骨でもしゃぶるようにその希望にすがりついていたのだ。学者、サイエンスライター、新聞記者、起業家、経営コンサルタント…。だがそのどれも、「自分の本当にやりたいこと」ではなかった。

 

 

 

望むと望まざるとにかかわらず、僕は大学の時に、自分の中の「良い子」と決別したつもりだった。

 

元々僕は、「良い子」的な特徴を多分に持ちながら、自分がやりたいことをやって暮らしていきたいと願っていた人間だった。高校までは、「良い子」であることと「自己実現」がうまく共存できていたから、何も疑問を持つことなく「よし、人生はうまくいっている」と確信できていた。いわば「良い子」と「自己実現」は車の両輪であった。

 

しかし、大学という自由な場所では、「良い子」という概念は消失する。それまでと同じ車で走ろうとしても、既に車輪の片方が外れてしまっている以上、前進は望めない。

 

さあそれでは「やりたいこと」に向かって駆け出そうか、と思ったものの、自分がやりたいことだと思っていたものと向き合ってみると、なんだか違う。そんな風にして、「良い子」と「自己実現」の両方の車輪を失ってしまった僕は、今自分が向かおうとしている方角がどの方角なのかもわからず、迷走し続けたのである。

 

繰り返しになるが、僕は高校生の時点では「やりたいこと」が比較的明確にあった人間だと思っている。海が好きだったし、生き物が好きだったし、活字を読んだり生み出したりするのが好きだった。生物学者の他にも、ダイビングのインストラクターだったり、モノカキだったり、そういう仕事ならできるんじゃないかとも思っていた。そんな僕が、やりたいことを見つけられないなど、大学に入る前は想像もしていなかったのだ。

 

 

 

大学1年の春、就職活動をしていたスキューバダイビングサークルの先輩との会話の中で、今でも心に残っている言葉がある。

 

「好きなことを仕事にして生きていくのは、無理なことやで」

 

その時僕は、強烈に腹が立ったものだった。そんなこと勝手に決めるな、お前はそうなのかもしれないが俺はそうじゃない。嘘だと言うのなら、証明してやる―。

 

だが皮肉にも、そこからの大学時代で証明されていったのは「自分はやりたいことを見つけることができない」という、思ってもみなかった命題だった。

 

世界中のカラスを確認した後でなければ、「白いカラスは存在しない」ということは証明しえない。同じように、自分の興味のあることをすべて試してみた後でなければ、「自分は夢ややりたいことを見つけることができない」とは言い切れない。

 

僕は藁にもすがるような気持ちで、脈絡など度外視して、新しい経験を求め続けた。夢が見つかるということが、世界のどこかに白いカラスを発見するのと同じくらい、稀有な可能性だったとしても。

 

 

 

6年に渡る苦闘の末、僕は広告代理店に入ることにした。

 

高校までの「良い子」という属性を失い、「自分のやりたいこととは何か」を問い続けた結果、「限りある時間の中ではやりたいことは見つけられない」という結論に達した僕は、「やりたいことが見つからない生き方でもいいじゃないか」という自分のマイノリティなメッセージを広めたいと思い、広告代理店を志望した。

 

そこで待っていたのは、かつて自分が決別したはずの「良い子」との再会だった。

 

仕事というのは、お金という強制力の介在により、普段の自分なら到底取り組まないようなことに挑戦させるものだ。お金をもらってしまえば、得意だ不得意だ、好きだ嫌いだなどとは言ってられない。それはつまり、「クライアントの喜ぶこと」が「与えられた価値基準」となり、「良い子」を駆動させていく、ということだ。

 

広告代理店のテレビ局担当となった僕は、高校時代のトラウマによってあんなにも距離を置いていた「テレビ業界」の人たちと、日夜濃厚に絡み合うこととなった(参照:僕が「スクールカースト」から解放された日。)。

 

僕が「良い子」でなければ、ここで仕事を辞めていたかもしれない。それほど、僕は「リア充」的なものに苦手意識を抱いていたのだ。しかし、幸か不幸か僕はやっぱり「良い子」だった。苦手だと言って飛び出すよりは、その場所のルールを見定め、そこで評価される努力をする方が性に合っていた。

 

テレビ局担当となった僕は、各局の視聴率を眺め、自分の担当する局の強みを把握し、どのクライアントがどんな番組にCMを流してほしいのか、細かく頭に叩き込んだ。自己流の数式を作って、どうやったら担当局に発注がもらえるのか仮説を立てた。厳しい交渉の中で「お前はもう電話してくるな」と言われても、「嫌われたくない!」という一心で、しつこく相手にまとわりついた。すべて僕が「良い子」だったためだ。

 

普段の業務以外でも、「良い子」であることは役に立った。会社の部活動や、有志の活動で、僕は率先して雑用をやることにした。「若手は雑用でもなんでもやって下積みの中から学べ」という価値観と、「そうした体育会系的な考え方が生産性をなくしているのだ」という価値観のどちらが正しいのか、僕にはわからない。ただ思うことは、「若手が雑用なんて時代は終わった、俺は好きなことをやるんだ」と思っている人が多ければ多いほど、「良い子」的なあり方の価値は、相対的に高まるということだ。「良い子」的なふるまいに苦痛を感じないのであれば、雑用でもなんでもして、人とのつながりを作っていった方が、自分のためになるのだ。

 

そうした「良い子」的な活動の中で、次第に「自分とは何か」という疑問の答えが明らかになってくる。そこにつながっている「自分のやりたいこと」も、少しずつ見えてくる。

 

最近、僕が「良い子」でなければ書けなかったであろう局担の記事が、少なからず業界内で読まれたことによって、社内のまったく知らない人から「何か書いてくれないか」と頼まれることになった。そのうちにこのブログでも告知をするかもしれないが、ミレニアルズ世代について書く予定だ。「自分探し」や「キャリア」のことなら、僕以上に悩んだ人間はそうそういないだろう。そうした自分のテーマとミレニアルズ世代を絡めながら、書いていくつもりだ。入社当時に掲げたマイノリティなメッセージを広めるという志望動機は、もしかしたらここで叶うのかもしれない。

 

 

 

会社に入って改めて思ったのは、自分はこの「良い子」という属性から、生涯逃れることはできないだろうということだ。自分がゼロイチで何かを創り出すのではなく、既にある仕組みの中で「良い子」としてふるまうことしか、自分にはできそうもない。

 

自分が「良い子」であることは、しかたのないことなのだ。それは、どれだけ拭い去ろうとしても消えない呪いである。もしそうだとするなら、「良い子」を最大限自分のために利用して、生きてやろうじゃないか。

 

「良い子」なんて言われるのは嫌だし、もっと自分の夢をかっこよく形にしていっている人のように生きたいけど……。僕にはこんなふうに、泥臭く生きるしかないのだ。

 

 

 

既にお気付きかもしれないが、僕が今日ここで書いたことは、すべて対症療法にすぎない。本来であれば、「自分が本当にやりたいこと」を見つけられるような教育の在り方や人の生き方を、誰か偉い人が説くべきなのかもしれない。

 

しかし、僕が教育を受けた時代は「学歴至上主義ではなく各々の自己実現を可能にする」すなわち「個人がやりたいことをやって生きる」という名目で実施されたゆとり教育のど真ん中だ。その中身には賛否両論あるだろうが、「個人の可能性の実現」が大義名分として掲げられた教育を受けた僕が、ここまで自分のやりたいことを叶えられていないのであれば、それは教育ではどうにもならない性質のものなのではないだろうか。つまり、人間の本質として、「やりたいことをやって生きる」というのは、困難なことなのではないだろうか。

 

そして何より、僕はもう修正の効かない27年間を既に過ごしてしまっており、そこに「理想の教育」や「理想の人生」を持ち込もうとしても、時を巻き戻すことは不可能なのだ。

 

であるなら、今ここにいる自分が少しでもよく生きることができるような対症療法を提示するのも、悪くはないのではないだろうか。

 

「自由に、やりたいことをやって生きようよ」という無邪気な掛け声が、誰かの気持ちを暗くしているとしたら、僕はこう言ってあげたい。

 

「良い子」という呪いを携えて生きることだって、人間には選べるのだと。