僕は人を嫌えない。
すぐ傷つくくせに相手のせいにできない。
いつでも優等生であろうとしてしまう。
人事やカウンセラーのように、人の話ばかり聴いてしまう。
つまるところ、良い子であろうとしてしまう。
これらは、ずっとずっと、僕が否定したかった自分の特性だった。
半年前、僕は「良い子」という呪いを携えて生きるということ。という記事を書いていた。
この中で僕は、「良い子」というのは逃れられない呪いであり、それを最大限活かして生きるしかない、と書いた。読んでいただけるとわかるように、割と悲壮感漂うトーンの文章だ。
「良い子」ではない、自分を貫いている人。確固たる自分自身があって、それに従って生きている人。文中では「自己実現(できている人)」「やりたいことがある人」などと書いているが、そういう人への憧れが後ろに透けて見える、そんな文章である。
「良い子」であるのは不本意だけれど、それは仕方ない。消えない呪いは、利用して生きよう。それが、半年前に僕が思っていたことだった。
だけど、今は思う。
「良い子」って、めちゃくちゃ長所じゃないかと。
「嫌いな人がいない」って、死ぬほど素敵じゃないかと。
「優等生」って、いなきゃ世界は回らないよって。
「相手の話が聴ける」って、そんなに誰にでもできるようなことじゃないって。
僕はいつからか、他人から見て「良いところだよ」って言われる自分の特性のいくつかを、否定して生きていたように思う。
ネガティブな特性(例えば僕で言えば「高校時代リア充でなかったこと」へのトラウマ)よりも、ポジティブな特性の方が、「自分がそれを否定していること」は気付きにくい。
なぜなら、他人から褒められる部分というのは、健康診断で「問題なし」と言われているようなもので、自分で多少違和感があっても「まあ、いいか」と思ってしまう部分だからだ。
テレビ局担という荒療治によってネガティブな特性を受け入れることができた僕だったが、「良い子」をはじめとするポジティブな特性は受け入れられていなかった。
なぜ、ポジティブな特性である「良い子」を、僕は否定してしまっていたのだろうか?
その分析は、先の記事でもう済んでいる。
「やりたいことをやれていない人は、人生の失敗者だ」という価値観が、小さい頃から僕の中にあったからだ。
それは、僕の両親がずっと「お前はやりたいことをやって生きろよ」と言ってくれていたからだと思う。
これ自体は、まったく問題のないメッセージだと思う。むしろ、僕が親だったとしても、同じことを子どもに言って育てたいくらいだ。
問題は、受け取り手である僕の方にあった。生まれついての「良い子」であった僕は、「やりたいことをやって生きること」を「与えられた条件」として、それを満たすことを目標に、これまで生きてきてしまったのだ。
先の記事にも書いたが、「良い子」というのは、「与えられた価値基準の中で、良い結果を出すために努力できる人」のことである。「良い子」である僕は、「やりたいことをやって生きること」を、「与えられた価値基準」として設定してしまったのである。
「人の喜ぶことを率先してやる」「人の言うことをちゃんと聞く」といった「良い子」的な価値観は、「やりたいことをやる」のとは真逆で、だからこそ僕は学生時代から今にかけて、その狭間で死ぬほど苦しんだのである。自分が本当は「良い子」なのに、「良い子じゃない、自分のやりたいことをやっている人」を目指そうとしていたから。
それにつけても思うのは、教育というものの難しさである。どんな風に育てたとしても、子どもは親の影響をめちゃくちゃ強く受けて育たざるをえない。僕が子どもを育てる時は、「自分の言動は知らず知らずのうちにあなたに強く影響しているだろう。将来大きくなって何かが辛いなと感じる時は、親の影響についても考えてみてほしい」と言おうと思う。
(僕は今も両親の教育には心の底から感謝している。その気持ちについては、少しも変わるものではないことだけは、ここに書いておきたい。)
もう28歳になろうかというタイミングで、こんなことに気が付くなんて、人生は何が起こるかわからないなぁと思う。
そして、「自分は良い子なんだ」と気が付いてから、僕の人生はこれまでにない面白い動きを見せてくれている。
僕は「良い子100%」で生きる。
すべての人を信じて、自分を全部見せて、惜しまずに与えて、思ったことを口にして…。
それがどこに繋がるのか、何をもたらすのか、今の僕には見当もつかないけど、とてつもなくワクワクしていることだけは事実だ。
「良い子」って、本当に素晴らしいことだって、地球上のすべての「良い子」な人に届けばいいなって、そう思ってます。