ハロウィンがちっとも楽しくないあなたへ。

僕が大学に入った2000年代の後半あたりから、ハロウィンというイベントは徐々に市民権を得てきたような気がする。

 

僕の入っていたサークルでは、毎年ハロウィンが近くなると「今年は何の仮装をしようか」とみんなで考え、あれこれと準備しあったものだった。

 

わいわい楽しく語り合っている同期たちの横で、僕はいつも「早く帰りたいな…」と思っていた。

 

ムーブメントに乗ったら乗ったで多少は楽しいのだが、その楽しさを遥かに上回る疲労感が、いつも僕を襲ってきた。

 

そのうちこの違和感に慣れるのかな、と思いながら月日を重ねてきたが、ハロウィンというイベントの規模が大きくなるのに比例して、僕の中の違和感は強まっていった。

 

そして気付いた。ハロウィンはつまらない。少なくとも、僕はハロウィンを楽しめるように生まれついていないということに。

 

 

 

ハロウィンの何が嫌かって、「楽しい!」とか「驚き!」とか、そういった人間の「素晴らしいとされる感情、正の感情」を強制されている気がするからだ。

 

こんな仮装をして友達をビックリさせてやろう!おもしろい恰好をした人たちとわいわい過ごそう!こういうのって楽しいよ!君もそう思わない?

 

そう、言われている気がする。

 

いや、気がするどころではなく、実際に会社の人から「ハロウィン何かするの?」と聞かれて、「僕ハロウィンの何が楽しいのかわからないです」などと言おうものなら、非国民扱いされること間違いなしだ。

 

自分が広告代理店にいるから、なおのことそう言われるのかもしれない。

 

広告代理店という存在は、昔から、「みんなが夢中になれるもの」を創り出すことによって、お金を生み出していた。テレビをはじめとしたマスメディアに乗る広告は、すべからく「みんなが楽しいと思うもの」「みんなが欲しいと思うもの」であって、「陰惨で憂鬱だけど、たった1人を救うもの」なんて、一切存在しなかった。

 

より多くの人に届く手段であるマスメディアを使うのだから、より多くの人が「いいね!」と言うような、万人が善だと信じているような感情に働きかけるのが、常道なのだ。

 

その「正の感情」のことを端的に表しているのが、広告業界の就職活動をしているとよく目にする「嬉しい驚き」という言葉である。

 

僕だって、「嬉しい驚き」の大切さは理解しているつもりだ。部活を引退する時に後輩から思いがけない手紙をもらって涙したり、恋人との記念日にとっておきのサプライズをして相手に喜んでもらったりした経験は、多くの人が思い当るものだと思う。

 

だが、人間の感情は正のものだけではない。

 

誰かを恨んだり、嫉妬したり、誰かに死ぬほど欲情したり、なんとなくあいつとはうまが合わないと思ったり、蔑んだり、コンプレックスを抱いたり、卑屈になったり…。

 

広告業界にいると、どうもこれらの「負の感情」が、忘れ去られているように思うことがある。広告業界人が「顕在化していない人の欲望や感情」を「インサイト」と言う時、そこには「嬉しい驚き」的なものしか想定されていないような気がするのだ。

 

そして、ハロウィンというイベントが僕をどうしようもなく苛立たせるのも、人間の「正の感情」にのみフォーカスしているからだと思う。

 

 

 

余談ではあるが、ハロウィンで出たゴミをみんなで集めて渋谷をきれいにしよう!という活動が、さまざまな場所で話題になっている。ほとんどは、賞賛という形で。

 

誰がどう見ても、「良いこと」だ。素晴らしい。

 

なのに、僕はこの活動が賞賛されることに、どうしてももやもやした感情を禁じえなかった。

 

それはきっと、自分がこの活動で想定されている枠組みから、排除されていると感じてしまうからだと思う。

 

ハロウィンを楽しむだけ楽しんで、旅の恥はかき捨てとばかりに大量のゴミを巻き散らす人(この活動の仮想敵)と、ハロウィンも楽しむけど、立つ鳥跡を濁さずな人。

 

この活動では、これら二者しか想定していない。

 

「ハロウィンをそもそも楽しいと思えない人」は、ここに入ってこない。

 

僕が感じた違和感の正体は、それなんだと思う。

 

 

 

「嬉しい驚き」的な「正の感情」ばかり取り上げるのではなく、マイナスも含めた「生の感情」を大切にしていこうよって、僕は思う。

 

今はマスメディアの勉強の身だから、「正の感情」ばかり感じさせられる日々だけど、僕がコミュニケーションプランナーになったら、そういう気持ちでプランニングをしてみたいなって思う。

 

…なんだかんだ書いたけど、生まれ変わったら、ハロウィンを素直に楽しめる人になりたいなぁ。だって、こういうふうに感じてしまうのは、めんどくさいんだもん。とても複雑なんだよ。

人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。

何度か書いていることだけれども、僕は人を笑わせたり、楽しませたりすることが苦手だ。

 

もちろん、僕と波長の合う人であれば、「村上春樹風に昨日の出来事を描写する」とか、「『シャイニング』のジャック・ニコルソンの顔真似をする」とかいったアホな遊びで、大変楽しく過ごすことができる。しかし、そんな人と出会えることは非常に稀だ。

 

特に今僕がいるテレビ広告業界においては、上で書いたようなことを「遊び」として楽しんでくれる人は「非常に少ない」と言わざるをえないだろう。(面白いことを言って笑わせることや、場を盛り上げることへの情熱にかけては、この業界の人の右に出るものはいないと思うけど。)

 

僕が「スクールカースト」から解放された日 でも書いたように、僕は生来、人を笑わせることが苦手だ。タイミング良くコミュニケーションを取って、うまいこと相手を楽しませるということができない。それを意識して面白いことを言おうとして、さらに変な感じになって場が凍りついてしまう。これまで何度も味わってきた、嫌な感覚だ。

 

そんな僕と同じ「場を盛り上げるのが苦手な人」に向けて、この記事を書いてみた。

 

少しでも気楽に、人と接することができるようになってもらえれば幸いだ。

 

 

 

「場を盛り上げるのが苦手な人のコミュニケーション戦略」を考える上で、まず、コミュニケーションというものを概観し、その後目指すべき方向性を示していこう。

 

コミュニケーションは、「テーマ」と「姿勢」の2つの軸で考えることができる。これは、「何を話すか」=Whatにあたる部分と、「どう話すか」=Howにあたる部分、と言い換えてもいい。

 

「テーマ」、つまり「何を話すか」についての軸の両極にあるのが、「最大公約数」と「ニッチ」という2つの項目だ。

 

「最大公約数」とは、幅広く多くの人が興味を持つであろうテーマのこと。少し前までは、ほぼイコールで「テレビで話題になっているようなこと」と捉えてもよかった。「最大公約数」は自分の今いる世界によっても変わってくるが、例えば僕のいるトラディショナルなニッポンのサラリーマン社会においては、プロ野球やクルマの話というのがそれなりに「最大公約数的な話題」になるだろう。

 

「ニッチ」とは、範囲は非常に限定されるものの、共感し合えれば非常に深い部分まで話し込めるテーマのことだ。冒頭の「ジャック・ニコルソンの顔真似」などは、映画好きの間でならそれなりに「公約数」かもしれないが、一般的にはかなり「ニッチ」なテーマと言えるだろう。

 

「最大公約数」と「ニッチ」は両極端ではあるが、実際のテーマというのはこの2つの間のグラデーションのどこかに位置している。

 

また「姿勢」、つまり「どう話すか」についての軸は、 「プッシュ」「対話」「プル」の3つの項目に分けることができる。

 

「プッシュ」とは、自分から話すことで相手を巻き込むようなコミュニケーションの取り方。演説や語りであったり、「すべらない話」のようなトークであったりをイメージしてもらえばよい。マーシャル・マクルーハン流に言えば、参加度の低い「ホット」なコミュニケーションである。

 

「対話」とは、相手と自分が交互に語りを差し出すようなコミュニケーションの取り方。僕の好きな「さし飲み」は、先輩が後輩にありがたい訓示を垂れたり、片方の一方的な語りを聴いてあげたりするものではなく、この「対話」が成り立っているさし飲みだ。

 

「プル」とは、自分に対する興味を相手に持たせるようなコミュニケーションの取り方。就職活動の面接などもこれに近い形になる。自分に興味を持たせ、相手を自分の土俵に引きずり込むコミュニケーションだ。プッシュ型と対になり、受け手に参加を要求する「クール」なコミュニケーションとも言える。

 

以上のように、 「テーマ」に関する2つの要素と、「姿勢」に関する3つの要素を掛け合わせた、合計 2 × 3 = 6(通り) が、コミュニケーションのあり方となる。

 

図にすると下記の通りだ。

 

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それぞれの領域での典型的なコミュニケーションは下記のようになる。

 

①「最大公約数」×「プッシュ」…お笑い芸人のしゃべくり

 

②「ニッチ」×「プッシュ」…マニアの趣味語り

 

③「最大公約数」×「対話」…「先週末はいい天気でしたね。どこか行かれたんですか?」

 

④「ニッチ」×「対話」…「New Orderが好きなんですか!個人的には『Technique』が一番聴いたアルバムですが、お気に入りのアルバムはありますか?」

 

⑤「最大公約数」×「プル」…「僕、高校野球をやってました」→「野球いいね。どこ守ってたの?」

 

⑥「ニッチ」×「プル」…「僕、インドのスラムで1年間不動産売ってました」→「インドのスラムで不動産営業?どういうことやねん!」

 

上記の6象限の中で、僕が冒頭で述べた「人を笑わせる、場を盛り上げる」コミュニケーションは、「最大公約数」×「プッシュ」型のコミュニケーションとなる。一般に僕らが思い浮かべる「コミュ力の高い」人物像というのも、この象限にいるイメージではないだろうか?

 

逆に言えば、この「最大公約数」×「プッシュ」の領域以外のところを狙っていくのが、僕ら「日蔭者」の取るべきコミュニケーション戦略である。

 

 

 

僕がおススメしたいのは、「最大公約数」から始めて、徐々に「ニッチ」な話に持っていくようなやり方である。

 

その際、「対話」と「プル」のどちらの領域でコミュニケーションを展開してもよいが(実際は双方を行き来する形になるはずだ)、今回は特に「プル」型のコミュニケーションについて書こうと思う。「対話」については、またどこかの機会で書くことになるだろう。

 

※「対話」について書いた記事がこちらです。人と深い話をするための、「コミュニケーションの4つのC」

 

なぜ「プル」型のコミュニケーションについて書こうと思うのか。それは、今回の記事の最終目的地となる「ニッチ」×「プル」型のコミュニケーションと、この記事を読んでくれている方々との親和性が、非常に高いと思われるからだ。

 

面白おかしくネタで場を盛り上げる、ウェ~イ的なコミュニケーションが苦手な人は、自分の世界を大切にしている人だと思う。

 

世の中の「最大公約数」にはどうも馴染めず、独自の路線を突っ走って構築してきた、自分だけの世界。他人から見れば取るに足らないようなこだわりや、理解不能な趣味で構成された、その人だけの世界だ。

 

皮肉なことに、そうやってメインストリームから外れて生きてきたことこそが、相手に「こいつは変な奴だ!」とツッコませ、「プル」型のコミュニケーションを成立させる武器となるのだ。

 

 

 

例を書こう。

 

僕は会社の先輩と「彼女とどんなデートをするのか」という話をすることがある。

 

「映画とか観ますかね」

 

「映画ね~。どんな映画観るの?」

 

ここまではどちらかと言うと「最大公約数」的な話だ。そこで、僕は「ニッチ」な話をいきなりぶっこんでみた。

 

名画座っていう、旧作だけを上映している映画館があるんですけど、そこで50~70年代のアメリカ映画を3本オールナイトで観て、その後喫茶店でモーニング頼みながらおしゃべりするとかいいですね」

 

そう言うと、先輩は「それ何が楽しいんだよ!やっぱりお前は変なヤツだなぁ」と爆笑したものだ。

 

 

 

このコミュニケーション方法には、勇気が必要だ。

 

相手が自分に興味を持ってくれるのか、自分の大切にしている世界の話を理解してくれるのか…。そんな不安が頭をよぎり、素の自分を出せずにコミュニケーションが終了してしまった経験が、あなたにもあるのではないだろうか。

 

だが、ここで非常に言いにくいことを言ってしまおう。 

 

「相手があなたの大切にしている世界を理解してくれるか」は、ぶっちゃけどうでもいいのである。

 

というか、100%に近い確率で、相手はあなたの語ったことを「理解しよう」とはしないだろう。なぜなら、その「大切にしてきた世界」というのは、「世の中の最大公約数」に背を向けてまで、あなたがせっせと作り上げてきた世界だからである。そもそも、相手との共通項にはなりえない性質のものなのだ。

 

しかし、であるがゆえに、相手の興味を引くことには成功するだろう。先ほどの繰り返しになるが、あなたがメインストリームから外れたことを言えば言うほど、相手は「ツッコミ甲斐のあるヤツだな」と感じて、「なんだよそれは!」と返してくるからだ。

 

言うなれば、「自分の大切にしている世界の話」というのは、「最大公約数」に背を向けた僕たちの放つことのできる、渾身のカウンターパンチなのである。

 

あなたは、モテてる奴や面白い奴みたいに【みんなを笑わせる】ことは、できないかもしれない。だけど「ギラギラしたまま」みんなと対話できて自己開示できれば、あなたは【みんなに笑われることができる】ようになる。(中略)

 

バカな自分を、自分で開示して(わざとらしく「おどける」のではなく「オレのことを解ってよ」と押しつけるのでもなく、ただ開示して)みんなに笑われることで、あなたは、みんなを和やかにすることができたのです。

 

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』p.139)

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

 

 

「プッシュ」×「最大公約数」型の「コミュニケーション強者」になれなくても、さまざまな人と楽しくコミュニケーションを取れる方法は存在する。

 

これまでしっかりと構築してきた「自分の世界」の話を、ちょろっと開示してあげるだけでいい。「こんなヤツに理解できるはずない」と相手を見下すのでも、「自分のことを理解してもらえるのかなぁ」と不安に思うのでもなく、ただ自分の思うところを、気負わずに提示してみればいい。もちろん、ツッコミをもらった後は「対話」路線に持っていくことも忘れずに。

 

そうすれば、これまでとはまた別の種類の人たちと、楽しく明るくコミュニケーションできるようになるはずだから。

思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。

ものごころついた時には部屋中に本がうず高く積まれていたという環境もあって、僕は昔からたくさんの活字に親しみながら生活してきた。

 

人生の時々で読んできた小説には、当時の記憶がしおりのように挟み込まれ、ページを開くといつでもその頃にタイムスリップできる。

 

今日は、僕にとってかけがえのないそんな小説を10冊、紹介しようと思う。

 

この小説たちが、別の誰かにとっての「戻ってきたくなる場所」になればいいなと思っている。 

 

 

 

 

 

第10位

 

僕は勉強ができない

 

山田詠美

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

率直に言って、僕はこの主人公に共感はしない。どうあがいても、高校時代の僕はこんなに自分の考えに素直に従える人間ではなかったからだ。

 

ただ、この作品が良いなと思うのは、そこに登場する人間たちが、とても正直にものを語るからだ。

 

特に好きなのは、いわゆる「ぶりっ子」なクラスのマドンナに告白されるも、「自分のこと可愛いって思ってるでしょ」と主人公が容赦なく切り返したところ、思わぬ反撃を食らうシーン。

 

「山野さん、自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。自分を好きじゃない人なんている訳ないと思っているでしょう。でも、それを口に出したら恰好悪いから黙ってる。(中略)だけど、ぼくは、そうじゃない。きみは、自分を、自然に振る舞うのに何故か、人を引き付けてしまう、そういう位置に置こうとしてるけど、ぼくは、心ならずも、という難しい演技をしてるふうにしか見えないんだよ」(p. 151)

 

「何よ、あんただって、私と一緒じゃない。自然体っていう演技してるわよ。本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持ってるって思ってるくせに。優越感をいっぱい抱えてるくせに、ぼんやりしてる振りをして。(中略)私は、人に愛される自分てのが好みなのよ。そういう演技を追求するのが大好きなの。中途半端に自由ぶってんじゃないわよ」(p. 152)

 

高校生でこんな応酬ができるヤツはそうはいない。人からよく見られたい、とか、自分はあいつより優れている、とかの、人間の本質的な部分が凝縮されたシーンだ。

 

(読者諸子にはどうでもいいと思うが、可愛い女の子がこんなにあからさまに自分のことを語ってくれたら、僕はそれだけで惚れてしまうだろう。どうでもいいが。)

 

 

 

第9位

 

限りなく透明に近いブルー

 

村上龍

 

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

初めて読んだ時にあまりにも性描写があけすけで、驚きながらも興奮してしまった小説。僕がアナルセックスという単語を知ったのはこの小説からではなかったか。

 

当時中学1年生のありあまる性欲を『いちご100%』とこの小説にぶつける日々の中で、「はて、著者はどうしてこんなにも過激なセックス描写をしているのだろうか」と、賢者タイム中に考えてみたことがあった。

 

その頃はわからなかったけれど(なにしろ賢者タイムが短いし…)、大学生になってサイケデリック・ロックやヒッピー文化に興味を持ってから、なんとなくその理由がわかってきた。

 

主人公は、自分を冷徹に見つめる「視点」から、逃れたかったんだと思う。

 

ドラッグやセックス、ロックンロールといった代物は、自分を一時的に陶酔させてくれる。自分って何者なんだとか将来どうするんだとか、そういっためんどくさいことを考えなくてもいい状態にしてくれる。

 

だが、どれだけそういった「劇薬」に手を染めても、主人公は冷徹な「視点」から、逃れることができなかった―。読み手の気分が悪くなるほど細かく徹底した情景描写は、それを暗示しているのだ。

 

 

 

第8位

 

夜は短し歩けよ乙女

 

森見登美彦

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

読んでいてニヤニヤしてしまう小説、というものがある。電車で読むにはすこぶる向いていないが、面白いので読み進めずにはいられず、またニヤニヤしてしまう。

 

『夜は短し歩けよ乙女』は、僕にとってそんな作品だ。自分が学生時代を過ごした京都の街や大学がこれでもかと出てきて、その情景がすべてありありと思い浮かぶものだから、これはもうたまらない。木屋町先斗町糺の森京都大学吉田南キャンパス…。地名を書くだけでノスタル死しそうだ。

 

森見氏の『太陽の塔』や『恋文の技術』は、ややもすると主人公のヘタレぶりが鼻につきすぎてうっとおしいかもしれないが、 『夜は短し歩けよ乙女』では、そのファンタジー要素とノスタルジックな描写によって、主人公の童貞臭さがマイルドに抑えられている。

 

そういえばどこかで「『夜は短し~』のヒロインは京大生の思い描く理想の女の子だ」とかいう文章を読んだことがあるのだけど…。

 

その通りです、と言っておこう。

 

 

 

第7位

 

グレート・ギャツビー

 

スコット・フィッツジェラルド

 

グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー

 

 

莫大な金をつぎ込んで夜な夜なパーティーを開き、蝶が花に集まるように意中の女性・デイジーが自分のもとに飛び込んでくるのを待っていたギャツビー。そのやり方はなんとも非効率的だ。デイジーと再会してからも、彼はおよそスマートとは言い難いアプローチで彼女に迫る。そして…悲しい事件が起こる。

 

純粋で不器用で、いつも遠いところにある「灯」を追い求めていたギャツビー。完璧なお金持ちのゴージャスな求愛の物語ではなく、あちこち欠けた部分のあるギャツビーという生身の人間の物語だからこそ、この作品は僕たちの胸をうつ。そして、そんな「純粋さ」をかつては自分も抱いていたことを回想するような、主人公ニックの語り。

 

1974年の映画版も観たのだが、とてもよかった。特にヒロイン役のミア・ファローがドンピシャだと思う。外国の映画に「物悲しさ」を感じることはあっても「儚さ」を感じることはそうないが、この映画にはそれがあると思った。話題になった2013年の作品もぜひ観てみたい。

 

 

 

第6位

 

ライ麦畑でつかまえて

 

J.D.サリンジャー

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

世の中や恵まれた人間に対しては斜に構えてあれこれ難癖をつけるホールデン少年の姿は、かつての頭でっかちでうじうじ悩んでいた自分自身を思い起こさせる。

 

主人公のとりとめのない独白が続くため「最後まで読めない!」という声を聞くことも多いこの小説。共感できないのであれば、それはそれでいいと思う。自分にそこまでコンプレックスが無く、世の中に対して不満の無い人であれば、この小説に「救われる」ということはあまりないかもしれない。

 

ただ、僕自身は「ライ麦畑から転がり落ちる前に」この小説にとっつかまえてもらった一人である。

 

ホールデン少年は、通俗的なあれやこれやを嫌悪しているけれど、そのかわり弱いものや醜いものに対しては人一倍優しい。そんな彼の、今でも僕の心に残っている言葉をいくつか紹介したい。

 

アーニーってのは、ピアノを弾く、大きな太った黒人だけど、すごく気どってやがって、一流人か名士なんかでなきゃ口もきかないんだけど、ピアノはほんものなんだ。(中略)彼の演奏を聞くのは、僕はたしかに好きなんだけど、でもときどき、あいつのピアノをひっくりかえしてやりたくなることがあるんだよ。それはたぶん、あいつの演奏を聞いてると、一流人でなければ話しかけようとしない男っていう、そんな感じがにおうからじゃないかと思う。(p.127)

 

 会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。(p.137)

 

仮に人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ。(p.268)

 

 

 

第5位

 

悲しみよ こんにちは

 

フランソワーズ・サガン

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

元々は、映画『ジョゼと虎と魚たち』を観て、この「ジョゼ」という名前の元ネタになった小説を読んでみたいと思い、サガンの『1年ののち』を手に取った。それがとても良かったので、それではと思いデビュー作の『悲しみよ こんにちは』を読んでみたところ、凄まじい作品だった。

 

大好きな父親を新たな結婚相手から取り戻すべく、自分のボーイフレンドや父の昔の愛人のコンプレックスや恋愛感情をことごとく利用して人々を翻弄するも、最後には「かなしみ」しか残らない少女の、透明で残酷な物語。

 

少年少女というと、どうしても純なる存在、穢れなき精神の象徴とされることが多いけれども、ほんとのところは、子どもはずるいし、汚いし、悪意に満ちた振る舞いをするものなのだ。人が何をしたら嫌がるのかよく知っていて、あたかも無邪気を装って他人の弱く柔らかい部分に土足で踏み込んでいく。

 

僕もそんなふうに人から傷つけられたし、傷つけていた。はずなんだけど、傷つけられた経験ばかり覚えていて傷つけた経験は思い出すことができない。無理に加害者になろうとしているわけではないのだけど、間違いなく、僕も他人に立ち入って不快な思いをさせたことはあったはずなのだ。

 

子どもの頃いかに自分が残酷だったかを、この小説は読む人に思い出させる。自分の過ちによって初めて「かなしみ」という感情を知った時のことを、思い知らせてくれる。

 

ヨットとかもめ、そして眩しく輝く海を思い起こさせる装丁が見事です。

 

 

 

第4位

 

夏の庭

 

湯本香樹実

 

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

 

こんな時代が自分にも確かにあったなぁと、ニヤニヤしながら、最初から最後まで一気に駆け抜けてしまう小説。

 

「幽霊が怖い」と夜中にトイレに行けなかったでぶの山下は、おじいさんとのひと夏の経験を経て、一人でトイレに行けるようになる。少年たちのささやかな成長を、僕たちは読者として目撃する。

 

一方で、僕たち読者はもう、月日は残酷だということを知ってしまっている。小学校や中学校で一緒だった友達の中で今も連絡を取り合っている人は、僕には数えるほどしかいない。おじいさんとは少ししか一緒にいられなかったけれど、この3人も、いつまでも一緒にはいられない。この夏の物語は、奇跡のようなバランスの産物であり、決して戻ってくることはないのだ。

 

そんなことに思いを馳せながら、3人がそれぞれの道に別れて進んでゆくラストシーンを読むと、涙なしではいられないのだ。

 

素敵だな、という感想しか出てこない、僕の大好きな小説の一つ。

 

 

 

第3位

 

郷愁 ペーター・カーメンツィント

 

ヘルマン・ヘッセ

 

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

 

 

1人の男の幼少期から晩年までを1冊の小説に閉じ込めた作品。報われない恋、花開く友情、そして愛…。ヘッセの代表作『車輪の下』の主人公ハンスが晩年まで生きていたなら、こんな人生を送ったかもしれない(そしてこんなふうに救われたかもしれない)と思わせる、幸せな物語。最初と最後が故郷の村の同じような描写であるというところが、読み手に「帰ってきたんだな」というノスタルジーを呼び起こす。

 

僕はヘルマン・ヘッセという作家に自分自身を発見することがある。学校の勉強では良い点を取るかもしれないけど、人との付き合いや世の中への接し方は決してスマートではなく、他者からの見え方をとても気にしながら、その裏で嫉妬や軽蔑といった暗い感情を抱えながら生きている。そんな自分だ。「なんでこんなに自分のことがわかるの」って、読みながら泣いてしまったことも数知れない。

 

ヘッセ後期の作品である『荒野のおおかみ』にも、「世の中的なもの」にどうしてもなじめず、かと言ってそこから逃れることもできない主人公が登場する。『郷愁 ペーター・カーメンツィント』でヘッセが思い描いた歳の取り方はやや空想的にすぎなかったが、『荒野のおおかみ』では主人公が自我を確立するに至るまでの葛藤ぶりが真に迫っていた。

 

このブログを読んでくれている方々には、ぜひヘッセの作品を読んでみてほしい。「読書感想文の推薦図書」というイメージは、捨ててほしい。世間的なものをどうしても諸手を挙げて受け入れることができず、それでいて突き抜けた生き方を貫くこともできない、そんな中途半端な僕には、めちゃくちゃ刺さった作家です。

 

 

 

第2位

 

スティル・ライフ

 

池澤夏樹

 

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

 

これまで読んだ中で最も透明感のある小説は何か、と言われたら、僕は迷わずこの作品を挙げるだろう。

 

先ほど書いた『限りなく透明に近いブルー』も、「僕」の微に入り細にわたった描写を通して、セックスもドラッグも彼自身を「没頭」させる劇薬になりえず、主人公は永遠に醒めきったままなのだということを読者に伝えようとしていた。それはある意味「透明な、冷徹な」物語だと言える。

 

しかし、『スティル・ライフ』の透明感は全然別の種類のものだ。一人称なのに、頭の遥か上の方から世界を眺めている誰かの視点で描かれているような、そんな透明感だ。きっとそれは、筆者が理系のバックグラウンドを持っており、理系的な「世界の運行」みたいなものをイメージとして置きながら、この作品を書いたからではないかと思う。

 

僕が一番好きなシーンは、雨崎で雪を受けるシーン。

 

雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。(p.32)

 

これほどまでに文章で映像を観させられた経験は、僕にはない。素晴らしい、の一言だ。

 

何にも刺激されることなく、癒しを求めたい時に、抜群の威力を発揮する作品。

 

 

 

第1位

 

ノルウェイの森

 

村上春樹 

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 

僕が人生で一番読み返している小説だ。ノスタルジックな大学の風景、「僕」の周りのちょっと変わった人々。それらが自分の学生時代の記憶とミックスされて、夢か現か判別しようのない、霞みがかった映像が目の前に現れてくる。それを観たいがために、僕はこの小説を読み返している気がする。

 

ノルウェイの森』はよく「村上春樹作品の中では珍しくファンタジー要素が入っていない作品」だと言われるけれど、僕がこの小説を好きなのは、別にリアリスティックな作品だからというわけではない。村上春樹の作品の中で、最も「人間」が描かれていると思うからだ。

 

中学生の頃、この本を初めて読んだ時に思ったのは、「直子も緑も変な女の子だなぁ」ということだった。メンヘラと(その時はまだメンヘラなんて単語は無かったけれども)、なんかハイテンションな女の子。そんな程度だった。

 

もちろん、その頃は女性の気持ちを深く知る機会なんてあるよしもなかった、ということもあるのだろうけれど、もっと一般的に、自分以外の「人間」に対する興味があまりなかった、ということなのだと思う。

 

だけど、年齢を重ねるにつれ、誰もがみな直子や緑のような「歪み」を持って生きているんだ、と思うようになった。

 

この小説のセックスシーンが、『限りなく透明に近いブルー』の徹底した描写とは対極の穏やかなものであるにも関わらず、読む者を心の底から欲情させるのは、そんな「歪み」を許しあい共有しあうようなセックスが、世界で一番幸せなコミュニケーションだからではないだろうか。

 

 

 

 

 

この他にも、武者小路実篤『友情』は最後まで入れようかどうか迷ったし、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、川上弘美センセイの鞄』など、最近読んでとてもよかった小説がいくつかある。それらの評価は今後の「読み返し」を経て定まってくるだろう。

 

小説は、自分を救ってくれる1つの小宇宙だ。そんな小宇宙に1つでも多く出合えることを願って、僕はまた新しい本のページをめくるだろう。

死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。

「自分探し」という言葉に軽侮のニュアンスが含まれるようになったのは、いつからだろうか。

 

僕が大学を休んで1年間インドで暮らしていたと言うと、決まって返ってくるのは「自分探しにでも目覚めちゃったの?」という言葉である。

 

ここでいう「自分探し」には、なんとなく相手をバカにする気持ちが含まれている。「1年間インドで暮らすなんてすごいねぇ。でも、俺にはそんな経験は必要なかったなぁ」というような。

 

そんな裏の意味をなんとなく感じてしまうから、「自分探しでもしてたの?」という問いに対しては、受ける側も「ええまぁ…ちょっとその頃血迷ってまして」と濁したり、「いえ、やってみたかったことがありまして…」と否定したりする。「はい、自分探しのために行きました」と正面切って言うのは、なかなか難しいのだ。

 

はい、と言ったら言ったで、「でもさあ、自分なんて今ここにいるじゃん。わざわざ遠い外国に行って探す必要なんてないんじゃないの?」と、わかったふうなお説教が飛んできたりする。

 

そういった一連の流れが嫌でも想像できてしまうから、僕は自らの「インドに行ってスラムのアパートで1年間暮らした経験」を、「自分探しのために行きました!」と言えずにいた。就活の面接でも、もっと「建設的な」別の理由をこしらえて、それを真面目な顔をして語ったりしていた。

 

でも、そういうのはもうやめにしたい。

 

今日の記事では、僕と同じく「自分ってなんだろう」という問いにのたうち回って苦しんでいる人たちに、「自分探しは悪なんかじゃない」というメッセージを、届けたいと思う。

 

 

 

なぜ、「自分探し」は悪だと感じてしまうのだろうか。

 

それは、自分自身をしっかりと把握し、自分のやりたいことを定め、地に足をつけて毎日を過ごしている人が「偉い」という風潮が、世の中にあるためだ。

 

いつまでも「自分自身」なんてものについて悩んでいないで、就職して、結婚して、幸せな家庭を築きなさいよ。あるいは、起業するなり、医者や弁護士になるなり、自分の夢の実現に向かって邁進しなさいよ。そうした無言の圧力が、日本にはある。

 

高校なり大学なりのその人の「最終学歴」を経た後、日本の社会システムから突然要請される「進路を決定せよ」という圧力は、僕らが永遠に「自分探し」し続けることを許さない。そして、進路を決めるということは、自分自身を定めるということ、自分探しのための「ゆとり」や「バッファ」を切り捨てることに他ならない。

 

 

 

果たして、「モラトリアム期間に自分探しを終え、アイデンティティを確立して社会に入ってゆく」という考え方は正しいのだろうか?

 

まず、「自分探し」というものにさほど関心を持たない人、「自分自身について知ること」に興味の薄い人が、世の中にはいる。そういった人たちにとっては、そもそも「自分探しとかアイデンティティとか、よくわかんないなぁ。適当に生きていけばいいんじゃないの?」といった程度の感想しかないと思う。

 

次に、「自分自身」には非常に興味があるけれども、人生のどこかの時点で「自分の夢」を明確に描くことができた人がいる。そういった人たちは、きっと「自分探しした時期もあったけど、今自分はこうした夢に向かって邁進している。やりたいことがわかれば、自分探しの時期は終わりだと思うよ」と言うだろう。自己啓発書の「夢を見つけて逆算して日々を生きなさい」というメッセージも、このカテゴリーの人たちに向けて書かれたものだ。

 

しかし、僕と同じように、「自分自身」について強烈に思い悩み、さまざまな体験をくぐり抜けてきたけれど、それでも自分は何がやりたいのか、どういう人間なのかがコロコロ変わってわからない、という人もいるはずだ。

 

そういった人たちにとって、自分探しとは、社会に出る前に終わらせておかねばならない通過儀礼ではなく、社会に出てからもずっと、生きている限り自らに課され続けるカルマのようなものではないだろうか。

 

僕たちのような人間は、「自分探しは一生続いていくものだ」と捉え直した方が、救われる思いがするのではないだろうか。

 

 

 

さて、「自分探しは一生続く」などと書くと、「これからも(典型的な『自分探し』人間のごとく)海外をさまよったり珍しい経験をしたりして、『自分自身』を追い求めなければいけないのか…」と絶望する人もいるかもしれない。

 

しかし、そうではない。自分探しはどこででもできるからだ。

 

僕は新卒で入った広告代理店に勤めてもうすぐ1年半になる。

 

いわゆる「自分探し」という言葉の持つイメージからすると、1つの企業で働き続けるというのは、「自分探し」からは程遠い行為のように思える。

 

しかし、会社という組織の中でさまざまなことを半ば強制的に経験させられると、その過程で「新しい自分」を発見することができる。その具体例については、『僕が「スクールカースト」から解放された日』で書いた通りだ。高校時代に植えつけられた「リア充的なもの」への苦手意識が、広告代理店のテレビ局担当をやったことで自然と消失し、「自分は自分。リア充にはなれなくても、自分を開示することで人と楽しくやっていくことができる」ということを発見したのだ。

 

自分探しは、どこででもできる。むしろ、自分の興味に従った行動を取りがちな学生時代よりも、配属や転勤などで予想もつかない環境に放り込まれる社会人時代の方が、よっぽど「自分探し」には適しているかもしれない。さらに企業のサイズで言えば、明確なジョブローテーションのあることの多い日本の大企業の方が、より「自分探し」の舞台としてぴったりなのかもしれない。

 

内田樹氏によると、ヘーゲルマルクスは「普遍的人間性というものはなく、行動(労働)を通じて作り出したものによって自分自身を知る」と述べている。

 

人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。そうして制作された物を媒介にして、いわば事後的に、人間は自分が何ものであるか知ることになります。(中略)

 

この「作りだす」活動は一般に「労働」と呼ばれます。マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』p.29)

 

現代病とも言える「自分探し」に取り憑かれた僕たちにとってのオアシスが、昭和的価値観の象徴とも言える「日本的大企業」における「労働」であるというのは、なんとも皮肉なことだ。が、ここまで書いてきたように、これら両者の相性は決して悪くないのだ。

 

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

 

  

 

 

もう少し言えば、「自分探し大好き人間」は、むしろ組織の中でうまくやっていける可能性をも秘めている。

 

梅田望夫氏は『ウェブ時代をゆく』の中で、大企業勤務に向いている人の特性として以下の点を挙げている。

 

(1)「配属」「転勤」「配置転換」のような「自分の生活や時間の変え方を他者によって規定されること」を「未知との遭遇」として心から楽しめる。

 

(2)与えられた問題・課題を解決することに情熱を傾けることが出来る。その課題が難しいほど面白いと思える。

 

(3)Whatへの「好き嫌い」やこだわりがあまり細かくなくおおらかで、一緒に働く人への「好き嫌い」があまりない。仮に合っても、苦手(つまり嫌い)を克服することを好む。

 

(4)「これが今から始まる新しいゲームだ」とルールを与えられたとき、そのルールの意味をすぐに習得してその世界で勝つことに邁進することに興味を覚える。

 

(5)多くの人と力を合わせることで、個人一人ではできない大きなことができることに充実感を覚えるチームプレーヤーである。

 

(6)「巨大」なものが粛々と動くことへの関与・貢献に達成感と充実感と感じ、長時間長期の「組織へのコミットメント」をいとわず、それを支える持久的体力にすぐれる。

 

(7)組織への忠誠心や仕事における使命感のほうが、個人の志向性よりも価値が高いと考える。

 

このうち、特に(1)は言うまでもなく、(2)や(3)も「与えられた環境に単純な好き嫌いで反応する」よりも、「与えられた環境に対して自分がどう感じるのか、さらにどうすればそれを好きになるのか」を考える「自分探し大好き人間」の特質と、決して相性は悪くないだろう。

 

(一方で、個人より所属集団を優先する(5)~(7)に関してはまったく当てはまらないと思う。僕も(5)から(7)の項目については興味がない。)

 

「自分探し」がしたい!という欲求は、まったくもって悪いことではないのだ。むしろ、企業で働くにあたって「自分とはなんだろう?」と考えることの好きな人間は、自分だけの力では経験できなかった環境をプラスに変えて、さらなる自分の強みを発見していける可能性を秘めているのだ。

 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

 

 

 

  

ここまで「企業で働き続けることは自分探しと決して矛盾しない」ということについて書いてきた。それをもう少しだけ、一般化してみたい。

 

キルケゴールの『死に至る病』の冒頭部分では、「自己とは何なのか」ということについて書かれている。

 

人間は精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?

 

自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

 

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

 

キルケゴール死に至る病』p.20)

 

これだけ読むと意味がわからないが、要するにキルケゴールはこういうことを言っている。「人間は、優しい面、冷たい面、恐ろしい面、さまざまな面を持ち合わせている。それらが統合されて(=関係して)1人の人間になっている。しかし、さまざまな面が関係し合うだけでは自己は存在しない。その人間に自己自身が『自分とは何者か?』と問いかけ、関係して初めて、自己は存在するのだ」。

 

結局、海外に長期滞在するのも、会社に所属して働くのも、「自分探し」という点では何も変わらない。出会ったものを内面深くまで取り込み、自分はどう感じるのか、どう考えるのかについて掘り下げてゆく。「自分とは何者か?」と問うのは、どこでだってできる。

 

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

 

 

「自分探しインスパイア系小説」の代表作としてよく名前の挙がる、沢木耕太郎氏の『深夜特急』は、決して「新しい理想の自分」を探しながら異国を巡った青年の冒険譚ではない。むしろ、旅先で生じた無数の(特別ではなく日常の、ハレではなくケの日の)出来事について、自らがどう考えるのかを自問し続けた哲学書なのだ。

 

舞台はどこだっていいのだ。キルケゴールの言う「関係が自己自身に関係するというそのこと」、「自分とは何者か?」と問いかけ続けるあの厄介だが愛すべき胸の中の声さえあれば、「自分探し」は可能になるのだ。

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 

 

 

「本当の自分はこうではないはずだ」と今の環境を否定し、こことは別の場所に出かけていくのではなく、あらゆる環境を(遠い異国も通いなれたオフィスもすべて)自分という未知の物質Xを特定するためのフラスコと捉え、「自分にはこういった側面もあるんだな」と日々知見を重ねてゆく。

 

僕はそんな「永遠の自分探し人間」としてしか生きていけないだろうし、また、生きていきたいとも思う。

 


パドル - YouTube

 

PADDLE / Mr.Children 

 

 

 

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「明日も自主休講にするかぁ」とつぶやきながら、一人暮らしのアパートで深夜に聴き入るのにふさわしい洋・邦ロック10曲。

毎朝9時に出社し、ひたすら仕事をこなし時には詰められ、ふと気がつくと夜9時を回っている…。Mr.Childrenの『雨のち晴れ』に出てくるほど単調な生活ではなくとも、大学時代からは考えられぬほど「充実した」僕の生活だ。

 

大学生の頃は、2限目あたりの講義にちょろっと顔を出し、お茶の時間には鴨川をぶらぶら、友達と学食で安い晩ご飯を食べて、オンボロなサークル棟で夜中までギターを練習する、そんな生活だった。

 

今の僕にはもう絶対に手の届かない、たくさんの「無駄」や「隙間」が存在していたあの時代。自分は何者なんだろう、これからどう生きていくんだろう…。持て余した時間についそんなことを考えてしまって、眠れなくなってしまう夜もあった。

 

今日は、青春時代の僕が一人暮らしのアパートで丑三つ時を共に過ごしたロック・ミュージックを10曲、紹介しようと思う。

 

 

 

第10位

 

Two, Three, Fall / Mice Parade

 


Mice Parade - Two, Three, Fall.mov - YouTube

  

いわゆる「ポストロック」と呼ばれる分野は分け入っても分け入っても聴ききれない数のアーティストがいる印象だが、その中でも好きで聴きやすい1曲。

 

この曲を聴くと、夜の京阪電車に乗って窓の外をぼんやり眺めていた、あの秋のひと時を思い出す。奇妙な拍子や♯・♭の大量に入り混じったコード音に乗って流れるキャッチーで切ないメロディは、どこか遠い異国を思わせると同時に、妙に懐かしく僕の耳に響くのだ。

 

 

 

第9位

 

体操 / Yellow Magic Orchestra

 


YMO 体操 - YouTube

 

日本語なのに異国的な雰囲気を醸し出す、YMOの名曲。外国人から「日本」を見つめたらこんな感じなんだろうかと思わせる。深夜にぼんやりとこの曲を聴いていると、次第に自分の気が狂っていくのではないかという幻想に囚われる。

 

この曲を聴いていると、ジョージ・オーウェルの小説『1984』で、主人公が「ビッグ・ブラザー」に見守られながら体操を行うシーンが思い浮かぶ。惜しくもこの曲がアルバム『テクノデリック』に乗って世に出たのは1981年だけど、冷たい世界観に背筋がゾッとするのは、どちらの作品でも同じだ。

 

  

 

第8位

 

Search And Destroy / The Stooges

 


The Stooges - Search And Destroy - YouTube

 

1960年代後半から70年代前半のバンドといえば、僕の好きなカオティックで内向きな音を出すバンドがどうしても少ない。そんな時代にオルタナの元祖とでも言うべき音を出していたバンドが、The Velvet UndergroundとThe Stoogesだ。

 

四条通を酔っ払って歩きながら、大音量でこの 'Search And Destroy' をイヤホンに流す。タテ乗りで首をぶんぶん振っている僕の横をチャリに乗ったオバハンが迷惑そうに通り過ぎて行くのを見て、ふと我に返る。そんなことを、愚かにも何度か繰り返した気がする。

 

イギー・ポップの声を聴いていると、自分が何でもできるような気がしてくるのが不思議だ。

 

 

 

第7位

 

銀河鉄道の夜 / 銀杏BOYZ

 


銀杏BOYZ_銀河鉄道の夜 - YouTube

 

ゴイステとどちらにしようか迷ったが、僕がよく聴いていたのは銀杏BOYZだったのでこちらにした。

 

この「非モテロック」とでも言うべき音楽が、僕は大好きだ。恵まれた人間がカッコいい音楽をやるのも、それはそれでいいものだが(金持ち坊ちゃんバンドのThe Strokesとかがそれにあたるのだろうか)、やっぱりロックは良いも悪いもひっくるめたその人の衝動を歌いあげるものであってほしいから、汚い欲望も美しい旋律も自らの音楽に乗せてしまう銀杏BOYZというバンドに、僕は惹かれる。マンガ『モテキ』の作中に女の子がこの曲をカラオケで叫ぶシーンがあるが、そんな女の子がいたら素敵だなと思う。

 

曲中、バッハの『主よ人の望みの喜びよ』を引用している部分がある。僕が大学のクラシックギター部で初めて弾いたのが、この曲だった。大先輩から「バッハは通奏低音を意識しろ」と口を酸っぱくして言われたあの日々が、つい昨日のように思い出される。

 

 

 

第6位

 

Friday I'm In Love / The Cure

 


The Cure - Friday Im In Love - YouTube

 

The Cureの音楽はとても抒情的だしメロディがしっかりしているので、日本人の耳にも合うのではないかと思う。その中でも特に素晴らしいなと思う1曲。全曲聴いたバンドではないのだが、アルバムだと 'Bloodflowers' が好きかな。

 

この曲はなぜか就職活動の時によく聴いていた。今働いている会社から内定の連絡をもらった後、「これで当分は東京ともおさらばだな」と思いながら乗った新幹線で 'Friday I'm In Love' を聴いたことを覚えている。

 

たわいもない話だが、映画を観ていると時折「この映画にはこのバンドが合うなぁ」というマッチングを思いつくことがある。それで言うと、『シザーハンズ』を観た時はドンピシャでThe Cureだ!と思ったものだ。(他の組み合わせで言えば、『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とThe Smiths、『台風クラブ』とNumber Girlとか。)

 

 

 

第5位

 

ロードムービー / Mr.Children

 


Mr.Children - ロードムービー - Q tour - YouTube

 

今なお邦楽ロック・ポップス界に燦然とそびえ立つ名盤 "Q" 。オートバイの後部座席に女の子を乗せて夜の高速道路をひた走った思い出など僕にあるはずもないが、心地よくキープされたリズムとギターのストロークが、高速道路のつなぎ目の「ガタン、ガタン」という規則正しい衝撃を思わせる。

 

僕がミスチルと出会ったのはそれこそ小学校高学年くらいの時だったが、 "深海" や "DISCOVERY" 、 "Q" といったアルバムの凄さを思い知ったのは、それからずいぶん後だった。 

 

 

 

第4位

 

Disorder / Joy Division

 


Joy Division - Disorder - YouTube

 

若くして死んだ伝説のフロントマン、イアン・カーティスをボーカルに据えたカルト的バンド。暗い洞窟の中でずっと虚ろに鳴っているような音楽が、妙に胸にくる。

 

代表曲 'Love will tear us apart' ももちろん名曲なんだけど、僕はこの名盤 "Unknown Pleasures" を丸ごとお勧めしたい。1曲目の 'Disorder' を聴くだけでぶっ飛ぶはずだ。

 

イアン亡き後、New Orderに転身を遂げてからの彼らの音楽も僕は大好きだけど、夜に鬱々としながら聴くならやっぱりJoy Divisionではないだろうか。

 

  

 

第3位

 

No Surprises / Radiohead

 


Radiohead - No Surprises - YouTube

 

「俺はウジ虫だ」と歌っていた1stアルバムの頃から大変身を遂げた3rdアルバム "OK Computer" 。 'Airbag' から続く、機械的で取り付く島のないタフな音の連なりの中で、唯一癒しと言ってもいいのがこの曲だ。

 

映画『スパニッシュ・アパートメント』では、ラストシーン近く、主人公が留学生活を回想するシーンで、この 'No Surprises' が流れる。そこに入ってくるナレーションがまた良い。「なぜ(スペインに)行ったのか?今もわからない。僕は平凡な男」。

 

僕はこのシーンがとても好きで、思わず涙ぐんでしまったものだ。

 

僕も昔、理由もなくインドに旅立ち、その地で1年を過ごしたことがあった。自分が特別なことを経験すれば、特別な人間になれると信じていた、そんな時代があった。だが、異国で悟ったのは、自分は何者でもない、ただの凡人でしかないという事実だった。

 

人生の早い段階で「自分には特別なものなど何もない」と思い知れたことこそが、今の僕のアイデンティティになっている。だから、何か新しいことをしようと思い立った人には、別にそこに大した理由などなくても、ぜひ挑戦してみてほしいのだ。挑戦して、自分が大したことのない、空っぽな人間だと思い知ってほしいのだ。そこから人生が始まるのだから。

 

 

 

第2位

 

Last Scene / スーパーカー

 


Supercar - Last Scene [PV] - YouTube

 

今日の記事のタイトルに一番合っている音楽は文句なしにこれだと思う。解散間際のスーパーカーの微妙な空気がPV含め至るところで感じられて、美しさと悲しさを同時に感じさせる。

 

僕はよくこの曲を聴きながら真夜中の鴨川沿いを歩いていた。3月の川端通を渡ってくる風は冷たくて、時折すれ違う車のヘッドライトが優しく目にしみて…。どうするあてもなく三条通まで歩けば、対岸の木屋町通の灯りがずっと南の方まで伸びていた。明日の講義どうしようかなぁ、出ないと単位ヤバいなぁ、でも今はこの夜にずっと佇んでいたいなぁ、毎日そんな贅沢な時間の使い方をしていた。

 

生産性なんてまるでなかったけれど、今でも夢に見る、素敵な風景。

 

 

 

第1位

 

1989 / The Pillows

 


the pillows / 1989 - YouTube

 

ごく個人的な思いでこの曲を1位にした。深夜に内向きなロックをひたすら聴いている僕は、当然1人だ。ひたすら悶々と悩んでいた時もあったと思うし、どこにも届くあてのない文章を書いていた時も、きっとあったと思う。

 

そんな僕をずっと応援し続けてくれている音楽が、この '1989' という曲。

 

一番最初に聴いたのは、たぶんインドの崩れかけたアパートの一室で、同室のインド人たちが寝静まった後だったと思う。「君に届くように歌っていたのさ」という部分で、僕はすすり泣いた。ずっと一人ぼっちだった僕の背中を、「そのままでいいのさ、もがき続けろ」と押してもらったような気がした。

 

先日、僕が前に書いていたブログに立ち寄った。そこに、とても嬉しいコメントがついていた。3年間ずっと読んでいました、あなたの投げる一石が大好きでした―。これだけで僕が文章を書いていた意味はあった、そう思えた。

 

正直、書いた文章で有名になりたいという欲望は、昔からずっとずっと感じている。同時に、僕の書きたいものがまったくもって大勢に受けるものではないことも、わかっている。腹に抱えたそんな欲望や矛盾を正直に書いていくことだけが、僕にできることなんだろうなと思う。それを読んで救われる人も、きっといるはずだ。

 

一度はメジャーな世界を夢見たものの、'ストレンジカメレオン' で国民的バンドになるという夢と決別し、ひたすら自分たちの道を歩み続けたThe Pillowsというバンド。自らをそこになぞらえるのはおこがましいけれども、少なくとも彼らの魂やメッセージは胸に秘めて、これからも生きていきたい。この '1989' という名曲とともに。

 

 

 

この記事を書いていて、「無駄なものをたくさん抱えた人間になりたいな」と思った。

 

たくさんの音楽とそれらを聴きながら思考した内容が、今の僕をつくっているのだ。

SNSが浮き彫りにした、僕たちが心の底から恐れているもの。それは「他者への無関心」である。

インターネット論壇で時たまテーマとして取り上げられるのが、「嫌われてもいいから自分をさらけ出せ」という話である。

 

僕も以前このブログとは別の場所で「人に嫌われてもいいから、自分の好きなことを発信しよう」といった内容の記事を書いたことがある。インターネットというフラットな場所で、もっといろんなメッセージを発信している人がいてもいいではないか、そう思って、他人の視線を必要以上に気にする自分自身を半ば励ますように、記事を書いたのだ。

 

しかし、最近思う。僕たちがインターネット上で自由に発信できないのは、他人に嫌われたくないからではなく、他人が自分にこれっぽっちも関心を持っていないということを思い知らされるのが怖いからなのではないか、と。

 

 

 

例えば、Facebookで何か写真を投稿するとしよう。僕がまず考えるのは、「このポストを見て不快な気持ちになる人がいたらどうしよう」ということではない。「このポストにいいね!が一つもつかなかったらどうしよう」ということなのだ。

 

「この投稿にリアクションがまったくなかったらどうしよう」という不安は、さらに二つの種類の不安にわけることができる。

 

一つは、「特定のAさんが自分に関心を持っていないことが判明してしまう」ということ。

 

そしてもう一つは、「AさんもBさんもCさんも…Zさんも自分に関心を持っていないことを、αさんが知ってしまう」ということだ。

 

正直、僕は前者については大して気に留めていない。確かに、好きな女の子がSNS上にアカウントを持っていたとして、自分の働きかけに対してその子から何のリアクションもなければ、多少落胆はするかもしれない(『ソーシャル・ネットワーク』のラストシーンで、ザッカ―バーグがひたすら女の子からのフレンド承認返しを待っていたように)。だけど、そんなのはSNSに頼らずリアルの人間関係で距離を詰めればいい話だ。

 

問題は後者である。要するに、「自分が人気者であるか否か」といったことが、SNS上では周囲のユーザーにバレてしまうのだ。

 

この問題を引き起こすのは、いいね!やリツイート、コメントといった、「他者から自分への関心」を数値化した指標が、万人に公開されているためだ。

 

いわば、「自分に対する無関心の度合いが可視化されている」ことが、インターネット(特にSNS)における僕たちの自由な振る舞いを阻害する要因なのだ。

 

 

 

本来、無関心というのは当人には知らされるはずのない態度だった。

 

もし誰かが僕に「お前になんて誰も興味持ってないんだよ」という言葉を吐いたとしたら、その時点でその誰かさんは僕に興味を持っていることになる。「相手と関わりを持つ必要すら感じない」のが、無関心ということだからだ。

 

もともと知るよしもなかった「無関心の度合い」というパンドラの箱を、僕たちは開けてしまったのだ。

 

 

 

中島義道氏の『人を「嫌う」ということ』には、嫌う・嫌われる理由の一つとして「相手に対する絶対的な無関心」が挙げられている。

 

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

 

 

人は誰でも、自分に関心を持ってくれる人のことが好きだし、気にかけてくれない人のことは嫌いだ。

 

問題は、これまでは目に見えることの少なかった「無関心」という「嫌い」の火種を、これからは(インターネット上で「もう1つの人格」を生きるのであれば)直視せざるをえない時代になってゆくということなのだ。

 

 

 

SNSが浮き彫りにした、これまでは見えることのなかったはずの「無関心」という冷たい態度。

 

僕たちが取れる道は、3つしかない。

 

1つは、SNSに背を向けて、「無関心」が目に見えないリアルライフのみで生活してゆく道。

 

1つは、FacebookInstagramでひたすらウケの良さそうなポストを投稿し、風車に挑むドンキホーテのように「無関心」に抗い続ける道。

 

そしてもう1つは、自分に向けられなかった「関心」を追いかけることなく、コツコツと自分のインターネット上の人生を生きていく道。前述の中島義道氏の言葉を借りれば「サラッと嫌いあってゆく」道だ。

 

「他者から関心を持たれないことに恐怖を感じる」人間の性質は、コミュニケーションを取り合い集団で生きてきた祖先たちの時代には仲間はずれにされることがすなわち死を意味したために、発達したものだと思う。

 

しかし、SNS上で「もう1つの人生」を生きることのできる現代では、ややもするとその「無関心への恐怖」が、自身の自由な振る舞いを制限してしまいかねない。

 

「嫌われる勇気」とともに「無視される覚悟」というものも、これからの時代には必要になってくるのではないだろうか。

怨念、悪魔崇拝、狂気、絶望、憤怒…人間の心のグロさを存分に楽しめる映画5選。

小説でも映画でもよいのだが、僕の好きなコンテンツの特徴の一つに、「人の心の歪みや偏りを存分に描いている」というものがある。

 

「希望はいいものだよ。多分最高のものだ」という名言を否定するつもりはないが、個人的には絶望も希望と並ぶ最高のスパイスだ。妬みや憎しみや悲しみといった、一般的にはネガティブとされている感情がきちんと描かれている作品であればあるほど、僕はその作品に「真実」を感じる(「真実味」ではなく「真実」である)。

 

というわけで、今日はそんな「グロい」映画の名作を5つ、挙げてみようと思う。ゾンビやバラバラ死体が出現するわかりやすい「グロさ」ではなく、僕らの身体の芯の部分を震えさせ、全身の毛穴を開かせるような、狂気じみた「グロさ」を感じさせてくれる作品たちである。

 

 

 

 

 

雨月物語

 

監督:溝口健二

 

公開:1953年

 

雨月物語 [DVD]

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溝口健二監督は、いわゆる「日本映画の名監督」の中では断トツで好きな監督。独特のアジア的なノスタルジー、どうしても抗えない運命の不条理さ、それでも自らの矜持を持って生きていこうとする人間たちの描写が、すさまじく良い。『近松物語』『山椒大夫』『赤線地帯』など、いずれも心に残る作品だけど、「人の心のグロさを感じる」という点では『雨月物語』が一番かな。

 

彼の作品の特徴は、その終わり方にあるように思う。上で挙げたような作品群は、基本的にはハッピーエンドでは終わらない。さりとて、アメリカン・ニューシネマのようなドラマチックで悲劇的な結末を迎えるわけでもない。登場人物たちが、絶望の淵に立たされながらも、淡々としかし前向きに生きていく姿を映して、作品は終わるのである。その終わり方は、大嵐が過ぎ去った後の仄明るくなってきた空のような、かすかな希望を感じさせてくれる。

 

映画と現実の人生との違いは、映画はどこかで終わるけれども、人生は(死なない限り)続いていくということだ。その意味で、物語が終わった後も登場人物たちの行く末に思いを馳せさせられる溝口健二監督の作品は、より僕たちの人生に近いものだと言えるだろう。

 

 

 

ローズマリーの赤ちゃん

 

監督:ロマン・ポランスキー

 

公開:1968年

 

ローズマリーの赤ちゃん [DVD]

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幸せいっぱいの新婚夫婦が子どもを授かる。だが、頼りになるはずの夫や主治医、隣人たちの不可解な行動によって、妻は精神的に追い詰められてゆく…。この作品の後、1974年版の『グレート・ギャツビー』 でヒロインのデイジー役を演じることになる、ミーア・ファローの儚げな演技がドンピシャだ。

 

この作品を観ていると、誰が狂っていて誰が正常なのか、だんだんわからなくなってきてしまう。どんな子どもが生まれても受け入れる母性の偉大さを、普段僕たちは賞讃しているが、それこそが実は狂気じみたことなのではないかと、この作品は警告する。

 

個人的な好みの話になってしまうが、この「1960年代後半~1970年代前半」のアメリカ映画が、僕は大好きだ。荒い粒子で構成された画面の向こう側で、古臭いアイビー・ファッションに身を包んだ男たちが、煙草を吸ったりウイスキーをあおったりする。アイビー・ファッションは今でもアメトラ(アメリカン・トラディショナル)などと言われて本も出ているくらいだが、僕のような「クソマジメ男」の方々には、ぜひトライしていただきたいスタイルである。

 

絵本アイビー図鑑 The Illustrated Book of IVY

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シャイニング

  

監督:スタンリー・キューブリック

 

公開:1980年

 

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

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キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』や『博士の異常な愛情』などは狂気の中にもユーモアを忍ばせたコメディだが、この作品は狂気そのものを描いている。時折挿入される無機的な双子と大量の血のイメージが、死ぬほど怖い。

 

実はまだ原作となったスティーブン・キングの原作を読んでおらず、それゆえの?ストーリーの展開について理解できない部分もたくさんあるのだけど、Wikipediaを見ると映画版と原作との間には相当の違いがあるようだ。

 

小説と映画の大きな違いの一つとして、「人の心の内側は、文字で描写することはできても、映像で表現することはできない」というものがあると思う。(だからこそ僕は昔、映画なんてつまらないと思っていた。)

 

しかし、直接的に心を表現することができないからこそ、「なぜこの登場人物はこのような行動をしたのだろうか?」と考えることが楽しくなる。人の心を描けないという映画に課された制約・条件が、むしろ映画という娯楽の価値を高めているのだ。

 

問題は、原作が小説であった場合、映像化する過程で言語による内面の描写が必然的に削ぎ落されるため、わけのわからない作品になってしまうことがある、という点である。

 

例えば『ノルウェイの森』だ。

 

ノルウェイの森』は、原作の小説でも映画版でも、緑がワタナベに「あなた、今どこにいるの?」と問いかけるシーンで終わる。登場人物たちの内面を描き出せる小説においては、これでよかった。直子が死に、レイコさんは旭川に去って行った。「18から19の間を永遠に行ったり来たりしている」ワタナベだけが、自らの場所を決められずにいる。そんな逡巡を、文字でならば描写することができる。しかし、映画版だけ観るとラストシーンの意味がまるでわからない。電話の最中という、表情や動作が見えにくいシーンであることも相まって、登場人物たちの内面は「セリフ」から想像するしかない。せめてアパートでの電話シーンだけにとどまるのではなく、「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿」を、ラストシーンでは挿入するべきではなかったか…。原作に深い思い入れがあるからこそ、映画版を観た時に、僕はそう思ったのだ。

 

『シャイニング』においてもこれと同様に、小説から映画に落とし込む過程の中で必然的に削ぎ落されてしまう心情描写が、キューブリック監督によってフォローされていないことは十分にありえる。まあ、なにはともあれ原作を読んでみることが重要だ。『2001年宇宙の旅』は、映画版を観てさっぱりわからず、原作を読んでやっぱりわからなかった。「どうやってもわけがわからない」ことがわかるだけでも、原作にあたってみる価値はあるはずだ。

 

 

 

ファニーゲーム

 

監督:ミヒャエル・ハネケ 

 

公開:1997年

 

ファニーゲーム [DVD]

ファニーゲーム [DVD]

 

 

初めから終わりまで観る者に絶望しか与えない、ミヒャエル・ハネケ監督の大傑作。淡々と進行する一家心中を撮ったデビュー作『セブンス・コンチネント』が透明な絶望だとすれば、こちらはどす黒い血の色に染まった絶望と言えるだろう。

 

この映画がただの悪趣味な映画に終わらない理由は、僕たちがいかに暴力を快感として楽しんでいるかを自覚させられる点にある。主人公のパウルは時折カメラのこちら側に語りかけてくるが、これによって僕たちはあたかも主人公の仲間として暴力に加わっている心持ちがしてしまう。また、暴力シーンを意図的に撮影しないことで、その映像を強制的にイメージせざるをえなくなってしまう。

 

『贈与論』で語られているように、僕たちの人間社会は「与えること」から始まっている。「卵をください」と言ってきた隣人を助けてあげようとする親切心が、この作品のような形で踏みにじられたら、この世界は成り立たなくなってしまう。観た者にリアル『北斗の拳』のような秩序なき世界さえ想像させてしまう力を持つ、この作品が大好きです。

 

 

 

うなぎ

 

監督:今村昌平

 

公開:1997年

 

うなぎ [DVD]

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浮気真っ最中の妻をめった刺しにして殺す冒頭シーンのエログロっぷりがハンパない。男なら間違いなく勃起ものだけど、勃起しながら「オレなんでこんな血まみれのシーンで勃起してるんだろう…」と、自らの性癖を疑いたくなる。唯一心を許せる友である「うなぎ」に語りかける主人公のイカレ具合が素敵な作品。妻の浮気を許せなかった主人公が、他人の子を育てる決意をするまでに成長する、わかりやすいハッピーエンドなのがまた安心できる。

 

今村昌平監督はこれ以外に『豚と軍艦』しか観ていないのだけど、作品の根底を貫く「人生は喜劇だ」という哲学がイイです。同じ哲学が垣間見える園子音監督の作品が好きな方は、けっこうハマるんじゃないかな。音楽もぬるっと良い感じ。

 

 

 

 

 

いわゆる「ヒューマン」な名作といえば、『フォレスト・ガンプ』や『グッド・ウィル・ハンティング』などの名前が挙がると思う。もちろんそれらも素晴らしい作品だ。

 

しかし、希望、勇気、感動といったポジティブな心の動きだけが、"human" beingの、人間の感情だろうか?

 

僕はそうは思わない。

 

せっかく人間に生まれたのだから、美しい部分も醜い部分もひっくるめて、全部味わい尽くして死にたい。

 

映画というフィクションの世界では、どんな悪いことを体験したって、許されるのだから。