SNSが浮き彫りにした、僕たちが心の底から恐れているもの。それは「他者への無関心」である。

インターネット論壇で時たまテーマとして取り上げられるのが、「嫌われてもいいから自分をさらけ出せ」という話である。

 

僕も以前このブログとは別の場所で「人に嫌われてもいいから、自分の好きなことを発信しよう」といった内容の記事を書いたことがある。インターネットというフラットな場所で、もっといろんなメッセージを発信している人がいてもいいではないか、そう思って、他人の視線を必要以上に気にする自分自身を半ば励ますように、記事を書いたのだ。

 

しかし、最近思う。僕たちがインターネット上で自由に発信できないのは、他人に嫌われたくないからではなく、他人が自分にこれっぽっちも関心を持っていないということを思い知らされるのが怖いからなのではないか、と。

 

 

 

例えば、Facebookで何か写真を投稿するとしよう。僕がまず考えるのは、「このポストを見て不快な気持ちになる人がいたらどうしよう」ということではない。「このポストにいいね!が一つもつかなかったらどうしよう」ということなのだ。

 

「この投稿にリアクションがまったくなかったらどうしよう」という不安は、さらに二つの種類の不安にわけることができる。

 

一つは、「特定のAさんが自分に関心を持っていないことが判明してしまう」ということ。

 

そしてもう一つは、「AさんもBさんもCさんも…Zさんも自分に関心を持っていないことを、αさんが知ってしまう」ということだ。

 

正直、僕は前者については大して気に留めていない。確かに、好きな女の子がSNS上にアカウントを持っていたとして、自分の働きかけに対してその子から何のリアクションもなければ、多少落胆はするかもしれない(『ソーシャル・ネットワーク』のラストシーンで、ザッカ―バーグがひたすら女の子からのフレンド承認返しを待っていたように)。だけど、そんなのはSNSに頼らずリアルの人間関係で距離を詰めればいい話だ。

 

問題は後者である。要するに、「自分が人気者であるか否か」といったことが、SNS上では周囲のユーザーにバレてしまうのだ。

 

この問題を引き起こすのは、いいね!やリツイート、コメントといった、「他者から自分への関心」を数値化した指標が、万人に公開されているためだ。

 

いわば、「自分に対する無関心の度合いが可視化されている」ことが、インターネット(特にSNS)における僕たちの自由な振る舞いを阻害する要因なのだ。

 

 

 

本来、無関心というのは当人には知らされるはずのない態度だった。

 

もし誰かが僕に「お前になんて誰も興味持ってないんだよ」という言葉を吐いたとしたら、その時点でその誰かさんは僕に興味を持っていることになる。「相手と関わりを持つ必要すら感じない」のが、無関心ということだからだ。

 

もともと知るよしもなかった「無関心の度合い」というパンドラの箱を、僕たちは開けてしまったのだ。

 

 

 

中島義道氏の『人を「嫌う」ということ』には、嫌う・嫌われる理由の一つとして「相手に対する絶対的な無関心」が挙げられている。

 

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

 

 

人は誰でも、自分に関心を持ってくれる人のことが好きだし、気にかけてくれない人のことは嫌いだ。

 

問題は、これまでは目に見えることの少なかった「無関心」という「嫌い」の火種を、これからは(インターネット上で「もう1つの人格」を生きるのであれば)直視せざるをえない時代になってゆくということなのだ。

 

 

 

SNSが浮き彫りにした、これまでは見えることのなかったはずの「無関心」という冷たい態度。

 

僕たちが取れる道は、3つしかない。

 

1つは、SNSに背を向けて、「無関心」が目に見えないリアルライフのみで生活してゆく道。

 

1つは、FacebookInstagramでひたすらウケの良さそうなポストを投稿し、風車に挑むドンキホーテのように「無関心」に抗い続ける道。

 

そしてもう1つは、自分に向けられなかった「関心」を追いかけることなく、コツコツと自分のインターネット上の人生を生きていく道。前述の中島義道氏の言葉を借りれば「サラッと嫌いあってゆく」道だ。

 

「他者から関心を持たれないことに恐怖を感じる」人間の性質は、コミュニケーションを取り合い集団で生きてきた祖先たちの時代には仲間はずれにされることがすなわち死を意味したために、発達したものだと思う。

 

しかし、SNS上で「もう1つの人生」を生きることのできる現代では、ややもするとその「無関心への恐怖」が、自身の自由な振る舞いを制限してしまいかねない。

 

「嫌われる勇気」とともに「無視される覚悟」というものも、これからの時代には必要になってくるのではないだろうか。

怨念、悪魔崇拝、狂気、絶望、憤怒…人間の心のグロさを存分に楽しめる映画5選。

小説でも映画でもよいのだが、僕の好きなコンテンツの特徴の一つに、「人の心の歪みや偏りを存分に描いている」というものがある。

 

「希望はいいものだよ。多分最高のものだ」という名言を否定するつもりはないが、個人的には絶望も希望と並ぶ最高のスパイスだ。妬みや憎しみや悲しみといった、一般的にはネガティブとされている感情がきちんと描かれている作品であればあるほど、僕はその作品に「真実」を感じる(「真実味」ではなく「真実」である)。

 

というわけで、今日はそんな「グロい」映画の名作を5つ、挙げてみようと思う。ゾンビやバラバラ死体が出現するわかりやすい「グロさ」ではなく、僕らの身体の芯の部分を震えさせ、全身の毛穴を開かせるような、狂気じみた「グロさ」を感じさせてくれる作品たちである。

 

 

 

 

 

雨月物語

 

監督:溝口健二

 

公開:1953年

 

雨月物語 [DVD]

雨月物語 [DVD]

 

 

溝口健二監督は、いわゆる「日本映画の名監督」の中では断トツで好きな監督。独特のアジア的なノスタルジー、どうしても抗えない運命の不条理さ、それでも自らの矜持を持って生きていこうとする人間たちの描写が、すさまじく良い。『近松物語』『山椒大夫』『赤線地帯』など、いずれも心に残る作品だけど、「人の心のグロさを感じる」という点では『雨月物語』が一番かな。

 

彼の作品の特徴は、その終わり方にあるように思う。上で挙げたような作品群は、基本的にはハッピーエンドでは終わらない。さりとて、アメリカン・ニューシネマのようなドラマチックで悲劇的な結末を迎えるわけでもない。登場人物たちが、絶望の淵に立たされながらも、淡々としかし前向きに生きていく姿を映して、作品は終わるのである。その終わり方は、大嵐が過ぎ去った後の仄明るくなってきた空のような、かすかな希望を感じさせてくれる。

 

映画と現実の人生との違いは、映画はどこかで終わるけれども、人生は(死なない限り)続いていくということだ。その意味で、物語が終わった後も登場人物たちの行く末に思いを馳せさせられる溝口健二監督の作品は、より僕たちの人生に近いものだと言えるだろう。

 

 

 

ローズマリーの赤ちゃん

 

監督:ロマン・ポランスキー

 

公開:1968年

 

ローズマリーの赤ちゃん [DVD]

ローズマリーの赤ちゃん [DVD]

 

 

幸せいっぱいの新婚夫婦が子どもを授かる。だが、頼りになるはずの夫や主治医、隣人たちの不可解な行動によって、妻は精神的に追い詰められてゆく…。この作品の後、1974年版の『グレート・ギャツビー』 でヒロインのデイジー役を演じることになる、ミーア・ファローの儚げな演技がドンピシャだ。

 

この作品を観ていると、誰が狂っていて誰が正常なのか、だんだんわからなくなってきてしまう。どんな子どもが生まれても受け入れる母性の偉大さを、普段僕たちは賞讃しているが、それこそが実は狂気じみたことなのではないかと、この作品は警告する。

 

個人的な好みの話になってしまうが、この「1960年代後半~1970年代前半」のアメリカ映画が、僕は大好きだ。荒い粒子で構成された画面の向こう側で、古臭いアイビー・ファッションに身を包んだ男たちが、煙草を吸ったりウイスキーをあおったりする。アイビー・ファッションは今でもアメトラ(アメリカン・トラディショナル)などと言われて本も出ているくらいだが、僕のような「クソマジメ男」の方々には、ぜひトライしていただきたいスタイルである。

 

絵本アイビー図鑑 The Illustrated Book of IVY

絵本アイビー図鑑 The Illustrated Book of IVY

 

 

  

 

シャイニング

  

監督:スタンリー・キューブリック

 

公開:1980年

 

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

 

 

キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』や『博士の異常な愛情』などは狂気の中にもユーモアを忍ばせたコメディだが、この作品は狂気そのものを描いている。時折挿入される無機的な双子と大量の血のイメージが、死ぬほど怖い。

 

実はまだ原作となったスティーブン・キングの原作を読んでおらず、それゆえの?ストーリーの展開について理解できない部分もたくさんあるのだけど、Wikipediaを見ると映画版と原作との間には相当の違いがあるようだ。

 

小説と映画の大きな違いの一つとして、「人の心の内側は、文字で描写することはできても、映像で表現することはできない」というものがあると思う。(だからこそ僕は昔、映画なんてつまらないと思っていた。)

 

しかし、直接的に心を表現することができないからこそ、「なぜこの登場人物はこのような行動をしたのだろうか?」と考えることが楽しくなる。人の心を描けないという映画に課された制約・条件が、むしろ映画という娯楽の価値を高めているのだ。

 

問題は、原作が小説であった場合、映像化する過程で言語による内面の描写が必然的に削ぎ落されるため、わけのわからない作品になってしまうことがある、という点である。

 

例えば『ノルウェイの森』だ。

 

ノルウェイの森』は、原作の小説でも映画版でも、緑がワタナベに「あなた、今どこにいるの?」と問いかけるシーンで終わる。登場人物たちの内面を描き出せる小説においては、これでよかった。直子が死に、レイコさんは旭川に去って行った。「18から19の間を永遠に行ったり来たりしている」ワタナベだけが、自らの場所を決められずにいる。そんな逡巡を、文字でならば描写することができる。しかし、映画版だけ観るとラストシーンの意味がまるでわからない。電話の最中という、表情や動作が見えにくいシーンであることも相まって、登場人物たちの内面は「セリフ」から想像するしかない。せめてアパートでの電話シーンだけにとどまるのではなく、「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿」を、ラストシーンでは挿入するべきではなかったか…。原作に深い思い入れがあるからこそ、映画版を観た時に、僕はそう思ったのだ。

 

『シャイニング』においてもこれと同様に、小説から映画に落とし込む過程の中で必然的に削ぎ落されてしまう心情描写が、キューブリック監督によってフォローされていないことは十分にありえる。まあ、なにはともあれ原作を読んでみることが重要だ。『2001年宇宙の旅』は、映画版を観てさっぱりわからず、原作を読んでやっぱりわからなかった。「どうやってもわけがわからない」ことがわかるだけでも、原作にあたってみる価値はあるはずだ。

 

 

 

ファニーゲーム

 

監督:ミヒャエル・ハネケ 

 

公開:1997年

 

ファニーゲーム [DVD]

ファニーゲーム [DVD]

 

 

初めから終わりまで観る者に絶望しか与えない、ミヒャエル・ハネケ監督の大傑作。淡々と進行する一家心中を撮ったデビュー作『セブンス・コンチネント』が透明な絶望だとすれば、こちらはどす黒い血の色に染まった絶望と言えるだろう。

 

この映画がただの悪趣味な映画に終わらない理由は、僕たちがいかに暴力を快感として楽しんでいるかを自覚させられる点にある。主人公のパウルは時折カメラのこちら側に語りかけてくるが、これによって僕たちはあたかも主人公の仲間として暴力に加わっている心持ちがしてしまう。また、暴力シーンを意図的に撮影しないことで、その映像を強制的にイメージせざるをえなくなってしまう。

 

『贈与論』で語られているように、僕たちの人間社会は「与えること」から始まっている。「卵をください」と言ってきた隣人を助けてあげようとする親切心が、この作品のような形で踏みにじられたら、この世界は成り立たなくなってしまう。観た者にリアル『北斗の拳』のような秩序なき世界さえ想像させてしまう力を持つ、この作品が大好きです。

 

 

 

うなぎ

 

監督:今村昌平

 

公開:1997年

 

うなぎ [DVD]

うなぎ [DVD]

 

 

浮気真っ最中の妻をめった刺しにして殺す冒頭シーンのエログロっぷりがハンパない。男なら間違いなく勃起ものだけど、勃起しながら「オレなんでこんな血まみれのシーンで勃起してるんだろう…」と、自らの性癖を疑いたくなる。唯一心を許せる友である「うなぎ」に語りかける主人公のイカレ具合が素敵な作品。妻の浮気を許せなかった主人公が、他人の子を育てる決意をするまでに成長する、わかりやすいハッピーエンドなのがまた安心できる。

 

今村昌平監督はこれ以外に『豚と軍艦』しか観ていないのだけど、作品の根底を貫く「人生は喜劇だ」という哲学がイイです。同じ哲学が垣間見える園子音監督の作品が好きな方は、けっこうハマるんじゃないかな。音楽もぬるっと良い感じ。

 

 

 

 

 

いわゆる「ヒューマン」な名作といえば、『フォレスト・ガンプ』や『グッド・ウィル・ハンティング』などの名前が挙がると思う。もちろんそれらも素晴らしい作品だ。

 

しかし、希望、勇気、感動といったポジティブな心の動きだけが、"human" beingの、人間の感情だろうか?

 

僕はそうは思わない。

 

せっかく人間に生まれたのだから、美しい部分も醜い部分もひっくるめて、全部味わい尽くして死にたい。

 

映画というフィクションの世界では、どんな悪いことを体験したって、許されるのだから。

僕が「スクールカースト」から解放された日。

高校の頃、学校に行くのが嫌でしかたがなかった時期があった。

 

傍目には、決してそうは見えなかったと思う。硬式野球部に所属し、平日も土日もなく朝から晩まで野球漬けだった僕は、「バラ色の高校生活」とは言えないまでも、「そこそこアツい青春」を送っていたと言えるだろう。

 

しかし、グラウンドの上でいくら汗を流そうとも、クラスの中での自分がおもしろいことを言えるようになるわけではない。誰もが自分の意見を尊重し、自分を取り巻いてくれるような人気者になれるわけではない。

 

特に、僕の生まれ育った大阪では、「オモロイ人間」こそが神だった。毎晩テレビを見て新しい芸人のネタを仕入れ、翌日のホームルームで披露して笑いを取れる人間が、クラスの中心だったのだ。

 

今日は、僕が高校の頃死ぬほど苦しんだ、「スクールカースト」について書こうと思う。

 

 

 

スクールカーストとは、『桐島、部活やめるってよ』などの作品でも描かれている、学校のクラス内の見えない上下関係のことである。

 

男の場合、一般的には、運動部に所属し、ルックスがよく、笑いが取れて、女の子にモテるヤツが、スクールカースト上位に属していることが多いようだ。要は「キャッチーなヤツ、パッと人を楽しませることのできるヤツ」こそが、「一軍」と呼ばれる連中になりうるのだ。

 

中学時代もそれなりにスクールカーストは僕のまわりに存在していたのだろうが、公立の中学校にいて、学年で一番勉強ができた僕は、おそらく特異なポジションにいたのだろう。スクールカーストというものを意識したことがなかった。

 

ところが、高校というのは自分と似たような学力の連中が集まってくる場所だ。勉強が断トツにできればそれだけで一目置かれる中学時代とは異なり、勉強以外のキャッチーな「何か」を持ち合わせていなければ、自分という人間が尊重されることはなくなる。

 

僕は、「一軍」の連中と話すのが苦手だった。普通の会話をしていても、何かおもしろいこと、キャッチーなことを求められているような気がして、その焦りがいつもの自分なら到底言わないようなことを口にさせ、場が白ける。そんな場面を、何十回と経験したかしれない。

 

僕が今も人の内面を深くまで知りたいと欲求するのは、この頃味わった苦痛の裏返しなのだと思う。イケメンでなくても、おもしろいことが言えなくても、一見キャッチーでない人間の内面にこそ、その人の真実が現れている。僕はそんな風に人間を捉え、世の中に訴えたいのだ。そして、自分を慰めたいのだ。お前は決して、価値のない人間ではないのだ、と。

 

結局、僕の高校時代は、「一軍」に憧れと軽蔑のないまぜになった感情を抱きながら、あっという間に過ぎていった。僕はスクールカーストから逃げるように受験勉強に励んだ。立花隆の『東大生はバカになったか』に衝撃を受け、それこそ「内面を充実させないヤツはバカだ」という教養主義的な、アンチスクールカースト的なメッセージを信じて、僕は京都大学に滑り込んだ。

 

大学では、僕は「リア充的なもの」にひたすら背を向けて過ごした。吉田寮の隣にあるオンボロのサークル棟でクラシックギターを弾いて講義をサボり、嵐山の渡月橋南禅寺のトロッコ跡をぼんやりと歩いては思い出に浸り、理学部や文学部の友人と麻雀を打ちながら「熱力学第二法則の哲学的な意味について」語りあったりした。しまいには、インドに行って1年間スラムに住むという荒行に出た。

 

僕の人生にはもう「スクールカースト的なもの」は出現しないと、僕はそう楽観視していた。もうリア充たちと付き合わなくていいんだ、あいつらのテンポだけの中身のない会話や、あいつらの下らない趣味に合わせた会話は、金輪際しなくていいんだ。そう、思っていた。

 

 

 

しかし、何の因果か僕は広告代理店の仕事に興味を持ってしまった。

 

広告業界は、リア充の巣窟だ。

 

クリエイティブはそうではないかもしれない。クリエイティブというのは、ネクラであること、悶々と考え続けることこそが、発想の原点になる仕事だからだ。

 

しかし、営業や媒体担当というのは、人に好かれてナンボな商売である。よく使われるキモチ悪い言葉を使えば、「人間力」こそすべてなのである。それこそ、スクールカースト上位でずっと青春時代を謳歌してきて、求心力のある人間にしか、務まらない仕事なのだ。

 

コミュニケーションプランニングをしたいと思って広告代理店に入った僕が、よりによってバイヤー、それも一番パーティーピープルの多い「テレビ局担」に配属されてしまったのだ。

 

配属1週目は、本当に死にそうだった。ノリは合わない、仕事はキツい…。しかも1週目から泊まりがけの媒体社旅行に参加しなければならず、じんましんが出たほどだった。

 

僕が苦い苦い高校時代を送っていた頃、テレビ番組というのは「一軍」の象徴だった。あいのりやめちゃイケ、アメトーク、リンカーンなど、テレビのバラエティを観ていなければ非国民扱いされたものだった。まさか10年後に、そういったリア充コンテンツを作っていたテレビ局相手に仕事をするなんて、考えてもみなかった。本当に運命とは皮肉なものだ。

 

配属直後は、毎日朝起きるたびに「今日も「一軍」のヤツらと話さなきゃいけないのか…。本当に嫌だなぁ」とため息をついていたものだった。自分が人生で一番の苦手意識を持っている人たちと相対せねばならないというストレスは、相当のものだった。

 

 

 

だが、局担になって1ヶ月、2カ月…と経つうちに、初めの頃に感じていた閉塞感は、次第に薄れていった。仕事上でリア充たちのグループに入って話をしていても、今すぐここから消え去りたいという衝動は感じなくなった。

 

ショック療法とも言える局担への異動によって、僕はスクールカーストから解放されたのだ。

 

それは、昔「一軍」に憧れ、嫌悪していた頃の自分が、自意識過剰だっただけなんだと気付いたからだ。

 

「自分は人から好かれるはずだ、一目置かれるはずだ」というプライドが邪魔をして、自分の醜い部分、他者より劣った部分をさらけ出すことができないと、人はスクールカースト的な人間関係に苦しむことになる。「なぜ俺は人気者になれないのか」と、周囲を恨んで過ごすことになる。

 

オモロイ話ができないのなら、「いや~俺はホンマにオモロイことが言えへんのよ!」と開き直ればいい。本当に、それだけでいい。

 

イケメンから程遠く童貞くさい雰囲気を醸し出しているのなら、「永遠の童貞なんです」とでも言ってヘラヘラしていればいい。自分の雰囲気を大切にすればいい。

 

人は、開き直って肚を見せている人間に、好意を持つ。自分の弱点を認め、その一方できちんと自分に自信を持っている人間に、人は集まる。

 

広告代理店の最終面接で、昔はさぞ遊んでいらっしゃったんだろうなと思わせるナイスミドルのおっさんに、僕はこう聞かれた。

 

「君は、女の子にモテますか?」と。

 

僕は力強く「いえ、モテません」と答えた。「モテませんが、好きな女の子にアプローチするのは得意です。二人で飲みに行ってもらえれば、好きになってもらえると思います」と付け加えることを忘れずに。

 

もしもあそこで、高校時代と同じく、自分のプライドを守って「それなりにモテますね」などと答えていたら、今僕はこの会社で働いていなかっただろう。

 

 

 

「一軍」とか「リア充」とかいった言葉で誰かを括っても、それは自分と同じくらい遠巻きにその誰かを眺めている人にしか刺さらない。

 

何よりもまず、どこか一歩身を引いて相手と付き合っていこうとしている自分を捨てて、至近距離でそいつと相対しないと、その人のほんとのところはわからない。

 

プライドを捨てて、バカになって接しよう。そうすれば、この世の中にはもっといろんな人間がいるんだなって、おもしろく思えてくるはずだ。

広告代理店のテレビ担当「局担」の正体

広告代理店のメディア担当、と言えば、オシャレなスーツに身を包み、夜な夜な宴会を渡り歩いている―。あなたも、そんなイメージを持っていないだろうか。

 

特に、「メディアの王様」と言われるテレビの担当者のことを、広告業界では「局担」と呼ぶ。

 

今日は、ほとんど世に出ることのない「局担」という仕事のことを、紹介してみようと思う。

 

 

 

局担はキツい仕事だ。代理店の他のセクションの人間から、そんなふうに言われることは多い。

 

まず、フィジカル的にキツい。

 

テレビ業界(特に営業)というのは日本で一・ニを争うほど体育会系な業界だ。当然、そこに相対する広告代理店の局担も、そういった雰囲気に合わせて仕事をしていかねばならない。

 

飲みは基本的に激しいし、残業の多いキー局の現場との飲みは12時を回ってから(業界用語で「テッペンを超えてから」)始まることもザラだ。いきおい、夜が深くなる。

 

1年の仕事納めの日には、自分の担当するテレビ局を訪れて回り、酒を飲みながら挨拶を交わすのが局担のしきたりだ。「なんだ、昼間から酒飲んで気楽な仕事だな」と思うかもしれないが、自分の担当局は1つではないのだ。案件数が多くその分担当局の数が少ない汐留や赤坂の代理店でも3つや4つの局は担当しているし、もっと規模の小さい代理店だとその数はゆうに10を超える。そうやって訪問するすべてのテレビ局で「まあ一杯」と酒を注がれ、そしてもちろん献杯は一度では終わらないのだ。

 

12月最終週のお昼ごろ銀座を歩くと、点在するローカル局を巡る途中で息絶えた局担たちの骸を、みゆき通りあたりで発見できるかもしれない。

 

酒の席の暴挙というところで言うと、極めつけはテレビ局との宴会旅行だ(ゴルフ旅行という名目になることもある)。局も代理店も伸び悩む視聴率に思い煩うことから解放され、ハメを外してしまうのか、こういった宴会旅行は非常にディープで下品な会になることが多い。興味のある方は「2ちゃんねる 宴会芸 ランキング」で検索してみてほしい。このランキングの6段あたりまでは、僕はその芸が存在することをこの目で確認済みだし(やったとは言ってない)、8段くらいまでは社内の誰それや媒体社の誰それがやったという話を聞いたことがある。また、温泉の水を抜いてしまったり掛け軸をぶち破ったりして旅館から出禁を食らうことも、よくたまにあることのようだ。

 

一方で、飲む方だけでなく食べる方も激しい。昼ごはんを食べた後にビッグマック5個食べさせられた食べた、先輩に牛丼を10杯注文されたおごってもらった、ポムの樹のLサイズ(茶碗6杯、卵6個)を2つ完食させられた完食したなどなど、事例にはこと欠かない。

 

こうした雰囲気に今のテレビ局の若手はなかなかついてこないらしく、最近とある局では「自分より年次が下の者に無理やり食べさせること」を禁じる社内規則ができたそうだ。

 

とはいえ、こうしたバブルの残骸のような風土は、テレビ広告業界には未だに色濃く残っている。

 

 

 

フィジカル的にもキツいが、本当に厳しいのはメンタルの部分だ。

 

僕が聞いただけでも、媒体担当をしていて「メンタルを病んで会社を辞めた・休職した・異動になった」人はかなりの数にのぼる。

 

なぜ、局担はメンタルをやられるのか?それは、広告代理店というビジネスのシステムが抱える「矛盾」を、容赦なく背負わされるためである。

 

 

 

広告代理店は、どうやって利益を出しているのだろうか?

 

すぐに思い浮かぶのは、広告の制作費だ。テレビCMや雑誌広告、ポスターなど、クリエイティブを制作するのに必要な実費に、利益を上乗せしてもらっている。

 

あるいは、広告業界について多少ご存じの方なら、プランニングフィーというものを思い浮かべるかもしれない。以前から、広告代理店も戦略コンサルティングファームのように、マーケティングの上流から顧客のビジネスに関わっていかねばならないと言われている。そのことは、広告業界を視野に入れて就活をしている学生であれば、誰でも知っている話だろう。

 

しかし、広告代理店のビジネスの根幹を支えているのは、上に挙げた2つの収益のいずれでもない。

 

広告代理店のビジネスの源泉、それは「メディアマージン」である。

 

もともと日本における広告代理店は、新聞の広告枠の取り次ぎの仕事から誕生した。このあたりの歴史に関しては、下記のブログを参照されたい。

 

斜陽化する広告代理店の歴史考察|聖太郎のブログ

 

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1): ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

 

広告業の進化と歴史、そして大転換 - 業界人間ベム

 

要は、広告を出したい広告主を、広告を載せたいメディアと結び付け、仲介料を取っていたのだ。

 

広告代理店は、戦後日本のマスメディアの発展とともに、ぐんぐんと伸びていった。メディアを使えば使うほど、代理店にカネが落ちる仕組みだ。マスメディアが今とは比べ物にならないほどの力を持っていたその時代、広告代理店に落ちるカネは尋常ならざる額であったはずだ。実際、タクシーチケットが社内のあちこちに山と積まれ、誰でもフリーパスで持ち帰れたなどという、隔世の感のある話を大先輩から聞くことがある。

 

要は、広告代理店の主要なビジネスは、昔から「メディアマージンで稼ぐ」というものなのだ。制作やプランニングという仕事も、元々はメディアに発注する際の付帯サービスだったと聞く。広告代理店は、広告枠の実際の金額にマージンを乗せたお金を、広告主からもらっているわけである。

 

一方で、媒体社への発注が一定期間(一カ月、半年、一年など)で一定金額に達すれば、その何%かのキックバックが媒体社から広告代理店に入ってくる。

 

つまり、主要なビジネスであるメディアの取引を巡って、広告代理店は広告主と媒体社、どちらからもお金をもらっているわけだ。

 

お金をくれる人の言うことを聞かねばならないのが、この世の常である。

 

しかしもし、お金をくれる人同士の利害が、対立しているとしたら?

 

 

 

対立の最も簡単な例は、広告枠の値段である。

 

テレビCMには、スポットとタイムという2種類の売り方がある。どちらも、正確な値段は決まっていない。いや、値段らしきものは一応設定されているのだが、季節や需要の大小、流したい時間帯や番組などによって、非常に大きく変動する。

 

広告主は、広告枠をできる限り安く買いたい。一方で、媒体社はできる限り高く売りたい。そうした綱引きの真ん中で、「クライアントのマーケティング戦略を手助けする広告代理店の人間でありながら、媒体社の窓口・利益代表としても存在している局担」は、どちらの立場に立つべきか、永遠に悩み続けることとなる。

 

値段の他にも、どの時点の視聴率を基準に枠の買い付けを行うかとか(これを「号数」と言う。いつか「テレビ広告ビジネス入門」的な記事を書くことがあれば、このことについても触れよう。)、とかく広告主と媒体社は対立する存在なのだ。そこをうまくやりくりできなければ、局担は両者の板挟みにあい、死んでしまう。

 

 

 

僕が局担という仕事をして一番痛感したのは、「この仕事は、自分という人間の価値を絶えず問われ続ける仕事だ」ということだ。

 

局担に限らず、「バイヤー」(枠を買い付ける人の意)というのは、「誰にでもできる仕事」だと言われることが多い。僕も社内の別のセクションの人間が「局担は要するに連絡係だからな」と口にしているのを聞いたことがあるし、広告系のビジネス書やネットの記事には「次世代の広告代理店に媒体担当者は不要だ」「バイヤーは市場価値が低い」などと書かれていることがある。

 

確かに、世の中をあっと言わせて人の心を掴む表現のできるクリエイティブや、ターゲットの心にどんぴしゃで突き刺さるコミュニケーションプランを考えられるプランナーは、社内・社外から引っ張りだことなり、彼らの仕事は「その人にしかできない仕事だ」と称されるだろう。

 

実際、僕もメディアバイイングの仕事というのは潰しが効かない、やりたくない仕事だと入社前に思っていた。そんな、覚えれば誰にでもできる体育会系の仕事よりも、頭脳を働かせて自分にしか出せないプランを描くような、そんな仕事がやりたいのだ、と。

 

しかし、「誰にでも務まる連絡係」として局担の仕事をこなそうものなら、たちまち手痛い目に遭うだろう。代理店の営業やプランナーから言われたことをそのまま媒体社に伝えても、「お前は代理店の犬か!」と突っぱねられて終わりだし、媒体社のやりたいことを代理店内部にそのまま伝えると、「お前は媒体社の回し者かよ!」と激怒されることになる。

 

「お前はどうしたいんだ」「お前がいる意味はなんなんだ」毎日、この言葉を浴びせられ、「今目の前にある仕事」を、どうやったら代理店・媒体社の双方が納得するような形に持って行けるかをひたすら考え続ける…。それが「局担」という仕事なのだ。

 

それは決して、「誰にでも務まる連絡係」などではないはずだ。

  

 

 

広告業界という、華やかなイメージの先行しがちな舞台の下で、必死になって屋台骨を支えている存在。それが「局担」。

 

彼らの存在は、誰にも気づかれまい。

 

今日もまた局担たちは、ダークカラーのスーツに身を包み、文字通り「黒子」として、夜の街に繰り出していく。

 

必死になって酒を飲み、歌い、踊り、誰にも見られることのない祭りを連日のように媒体社とともに催して、この業界を少しでも盛り上げようと、血みどろになりながら…。

 

 

 

関連記事:もうすぐ絶滅するという、広告代理店の「テレビ局担当」の仕事について。

青春時代に聴いておくと、後からもれなく思い出になって死ねる邦楽ロック・ポップス10曲

どうやら春が来たようだ。

 

いろんな人に聞くと、春は「希望に満ちた、ワクワクする」季節であるらしいが、僕にとっては春という季節ほど切なくて胸が苦しくなる季節は他にない。

 

過去のあれこれをとりとめもなく思い出して、一人でノスタルジーに浸り、死にそうになる。僕はこれを「ノスタル自慰してノスタル死に」と呼んでいる。

 

というわけで、青春時代に聴いておくともれなく大人になってから「ノスタル死に」できる曲を、邦楽のロックやポップスのジャンルからランキング形式で10曲選んでみた。

 

 

 

第10位

 

風をあつめて / はっぴいえんど

 


Κаze Wо Аtumеte - YouTube

 

70年代、日本のロックがまだ英語で歌われていた時代、「日本語ロック論争」にケリをつけ、邦楽の歴史に新たな1ページを刻んだ名盤『風街ろまん』。

 

このアルバムのどこか異世界のような雰囲気はそれだけでも鳥肌モノだが、その中でもこの名曲中の名曲『風をあつめて』。いやあ、ノスタル自慰が捗りますね…。

 

この曲を劇中曲として使用した映画『ロスト・イン・トランスレーション』ならぬ、テクノブレイク・イン・ノスタルジーです(全然上手いこと言えてない)。

 

 

 

第9位 

 

Camera! Camera! Camera! / フリッパーズ・ギター

 


Flipper's Guitar - Camera! Camera! Camera ...

 

90年代初め、彗星のごとく登場し「渋谷系」なる言葉を創りだしたフリッパーズ・ギター。この頃に青春を送ってみたかったとどれだけ思ったか知れない、センス抜群のギタープレイ。

 

イントロが流れただけでテクノブレイクしそうになります。

 

 

 

第8位

 

ハイウェイ / くるり

 


くるり - ハイウェイ - YouTube

 

ご存じ『ジョゼと虎と魚たち』の主題歌でもあります。この映画自体、観る人にさまざまなことを考えさせる名作だと思いますが、『ハイウェイ』という曲がその名作ぶりを一層際立たせていることに疑いの余地はないでしょう。

 

『ジョゼ虎』も『ハイウェイ』も好きだという人は、ぜひフランソワーズ・サガンという人の小説を読んでみてください。「ジョゼ」という名前がこの作品から来ている『1年ののち』や、デビュー作『悲しみよこんにちは』など、素晴らしい作品ばかりです。 

 

ちなみに…この記事の洋楽版があれば間違いなくランクインするであろうサイモン・ガーファンクルの名曲『サウンド・オブ・サイレンス』の歌い出し"Hello Darkness, My Old Friend,"は、「悲しみよこんにちは」("Hello Sadness")から取られたそうです。

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

 

 

第7位

 

KYOTO / JUDY AND MARY

 


ジュディマリ KYOTO - YouTube

 

学生時代、僕は京都に住んでいました。おとぎ話のように幻想的な夜桜の並ぶ木屋町先斗町、遠く春霞のかかる嵐山の渡月橋ジブリ映画に出てきそうな水門とトロッコ跡が素敵な南禅寺、そして大学生たちが一瞬の青春を新歓コンパというバカ騒ぎに費やす鴨川沿い…。

 

ジュディマリというバンドは、とてもポップでありながら、時々本当に信じられないくらい切ないコードを繰り出してきます。それが思い出とぐちゃぐちゃに混ざり合って、僕をノスタル死にさせるのです。

 

 

 

第6位

 

おまつり / 四人囃子

 


四人囃子 ブエンディア~おまつり - YouTube

 

※『おまつり』は8分くらいから。

 

1970年代の邦楽が誇る、ジャパニーズ・プログレッシヴ・ロック・バンド。とか言うとなんだか誰も聴く耳を持たなそうだけど、このバンドはとてもキャッチーで聴きやすい。

 

なんでも当時は「18歳の若さでピンク・フロイドの大曲"Echoes"を完璧に演奏できるバンド」として有名だったそうだけど(Wikipedia参照)、この『おまつり』という日本的ノスタルジーの塊のような曲は、Pink Floydには作れまい。

 

 

 

第5位

 

My Girl / The Pillows

 


The Pillows - My Girl (Document Version) - YouTube

 

山中さわおがリアルの世界でモテるのかどうかは知らないが、彼の作る音楽は、過去を引きずってばかりの冴えない男たちのハートに突き刺さる。

 

いつだったか、この曲を『秒速5センチメートル』のキャプチャ画像にかぶせて編集した動画を観たが、それはそれは、ひどく心にこたえるものでありましたよ。

 

 

 

第4位

 

ひこうき雲 / 荒井由実

 


荒井由実 - ひこうき雲 MUSIC CLIP - YouTube

 

僕が初めて『風立ちぬ』を観たのは映画館だったのですが、ラストシーンでこの曲が流れてきた時には、それはもう死にそうになりました。「これを持ってきたか!」と。

 

詩の世界観やメロディももちろん素晴らしいのですが、ギターの教本でもよく取り上げられる、サビのコード進行がすごいです。「空を駆けてゆく」のところ。本当にぶっ飛んでアタマがおかしくなりそう。

 

ところで、「ひこうき雲」って素敵な日本語だなぁ、と思います。英語だと"Vapour Trail"、つまり「水蒸気の跡」という意味になりますが、なんとも味気ないですよね。ちなみにRideというイギリスのバンドがその名もズバリ"Vapour Trail"という曲をやってます。聴いてみてもらえれば、彼らはきっと日本的なマインドを持ち合わせていたんだろうなぁと思いますよ。

 


Ride- Vapour Trail - YouTube

 

 

 

第3位

 

OMOIDE IN MY HEAD / NUMBER GIRL

 


NUMBER GIRL - OMOIDE IN MY HEAD (last live ...

 

※2:45~ 

 

大学時代、徹マンをやった明け方に、東大路通を下宿に向かってゾンビのように歩く。徹夜明けの妙な高揚感、くたくたに疲れ果てた身体、ぐるぐると回り続ける頭に、この曲はいつも沁み入ってきました。

 

説明不要。たぶん一生聴き続けるであろう、超名曲です。

 

 

 

第2位

 

アパート / スピッツ

 


アパート / スピッツ(ピッチ上げ) - YouTube

 

これ、大学時代に一人暮らししたことのある人なら、誰でもノスタル死にできるんじゃないかと思います。現実なのか妄想なのか、本当にそんなことがあったのか、今ではもう僕にはわからない、君との二人暮らしの世界。

 

add9やsus4のコードが絶妙な透明感を醸し出しています。「壊れた季節」とかすごい表現ですよね。そしてこのスピッツ真骨頂とも言えるアルペジオ。ニクし、三輪テツヤ

 

スピッツは僕の中での「テクノブレイクできるバンド」1位ですが、その中でもオカズ実用度の素晴らしく高い名曲です。

 

 

 

第1位

 

LUCKY / スーパーカー

 


SUPERCAR - Lucky - YouTube

 

※0:40~

 

まあ、この曲はちょっとヤバいですね。僕は昔、その頃付き合ってた女の子と遊びのバンドを組んでこの曲を演奏したことがありました。もちろんフルカワミキがその子で、僕はナカコーでした。誰にでもそんな過ちはあると思いますね。ハイ。

 

 

 

思い返すと、今日挙げた曲のどれも、最初に聴いた時は別段大した思い入れもありませんでしたが、年月が経つにつれ、ノスタル自慰に無くてはならない音楽になっていったのでした。

 

過去の風景とか思い出してみても、当時はなんとも思っていなかった景色が、パッと思い浮かんだりする。そのくせ、あんなに強く好きとか嫌いとか思ってた気持ちが、きれいさっぱりなくなってたりする。思い出ってホント、不思議なものです。

 

また10年くらい経ってこの記事を更新してみたら、今日なにげなく聴いてる音楽が、ランクインしてくるのかもしれませんね。

インターネットは、人間を強化することはできない。あるいは、僕が前のブログをやめた理由について。

この2015年の2月の時点で、この記事を読んでくれている人は、おそらく僕の前のブログを読んでくれていた人だろう。

 

好きか嫌いかは別にして、僕が何か文章を書いていたらそれを読んでやってもいいよ、そういう気持ちを持ってくれている人たちだと思う。そうじゃないと、少なくともこの記事を書いた時点では、このブログには辿りつけないようになっているから。

 

そんなありがたい読者の方々のために、『忘れられても。』の記念すべき1発目の記事として、「僕がどうして前のブログをやめたのか」ということを書こうと思う。

 

 

 

僕がブログを書き始めたのは、ちょうど3年半ほど前。インドに1年間の武者修行に行く、少し前だった。

 

その頃僕はmixi以外のSNSはまったくやっておらず、インターネットの世界のこの僕を、リアルのあの僕だと認識している人は誰もいなかった。利根川進氏と立花隆氏による対談本『精神と物質』でいうところの"Nobody"、何も成していない無名の人間に過ぎなかった。

 

その"Nobody"は、自分が無名であることを武器に、けっこう生意気なことを書いていた。やれ「英語なんて学んでもグローバルで生き残れやしない」とか、やれ「留学の理由なんてどうでもいい、さっさと行け」とか、そんなことを書いていた。

 

ブログの立ち上がり時期にずっと海外にいたというのも、好き勝手に書けた理由だった。自分が書いたものがどんなふうにリアルの世界に届いているのか、僕はそれを目撃せずにすんでいた。

 

この頃は、書くことが本当に心の底から気持ち良かった。キーボードを叩くたびに、カタルシスを感じていた。良い意味で無責任に、誰かの心に傷を負わせるような言葉を、インターネットの海に投げつけていくことができた。

 

そのうち、もっといろんな人に自分のブログを読んでほしいと思い、ちょうどアカウントをつくったばかりのTwitterFacebookに、僕は更新情報を流すようになった。知り合いから「ブログ読んでるよ!」と言ってもらえることも多くなった。時々、友達が別の友達に、僕のブログを紹介してくれることもあった。

 

僕のブログは、はてなにあまた存在するお化けのようなアクセス数を誇るブログたちには遠く及ばないものの、それなりの存在感を持って、僕という人間のアイデンティティとなってくれた。

 

だが、伸びてゆくアクセス数や反響の声とは裏腹に、僕は次第に、自分が息苦しくなってゆくのを感じていた。自分を自分と認識している人たちに向けて、感じたままの心の叫びをぶちまけるのをためらうようになった。

 

そういった息苦しさは、就職してからさらに強くなっていった。

 

テレビ局担当という仕事のキツさ、広告代理店というビジネスの限界、そういったことを、すでにリアルの人間関係にオープンにしてしまっていた以前のブログでは、書くことができなかった。誰が見ても問題ないような抽象的なテーマや、好きな映画や小説のこと、そういったことしか書けなかった。

 

それにもかかわらず、「リアルな世界とつなげることこそが、インターネットの最高の使い方なのだ!これこそが個人でできるO2Oなのだ!」などと、自分を騙してブログを書き続けていた。

 

 

 

インターネットは、リアルの可能性を拡げてくれると人は言う。

 

SNSを見れば、実名で自分の意見を書き綴り、「いいね!」を山のようにもらっているスーパースターたちがたくさんいる。そして、僕が毎日その片隅で脂汗を流している広告業界は、そんなスターたちの養成所のようになっている。

 

だが、どれほどインターネットが個人の可能性を拡大してくれたとしても、それを利用している僕や君は、ただの人間に過ぎない。

 

インフラは、人間の心を強化することはできない。

 

顔見知りの友人たちに向けて、自分の昔からのコンプレックスや、どす黒い感情や欲望に裏打ちされた文章を書きつけることができるほど、僕は強い人間ではない。

 

職場の同僚が見ているSNS上で、自分の働く業界や企業のことを赤裸々に語れるほど、僕は勇敢な(あるいは鈍感な)人間ではない。

 

インターネットがリアルの個人を救ってくれるかどうかなんて、その人次第なのだ。当たりさわりのないポエム程度なら、実名を出したってどうってことない。事実、僕が昔野球をやっていた頃やギターを弾いていた頃に書いたポエムは、今でもインターネット上に置き去りにされていて、僕の名前で検索すればそれらは時間を飛び越えて目の前に現れる。

 

だが僕は、そんなポエムではなく、もっとエグいことが書きたいのだ。人の心の気持ち悪い部分、どうしようもなく救いがたい部分、それでも希望を持てるような部分を、全部描ききりたいのだ。仕事の理不尽さやクソさについても、このまま死んでもいいと思えるような性愛の体験についても、自分が悩んで悩んでひねり出した人生観についても、それから、好きな音楽や小説や映画やお店やお酒についても。

 

だけどそれらのコンテンツを僕という弱い人間がつくる以上、僕がそこに実名で存在し続けるのは不可能なのだ。

 

自分が吐き出したいコンテンツの強さと、自分自身の強さ。左辺が右辺を上回るなら、僕らはインターネットを自分のリアルと接続するべきではないのだ。

 

だから僕は、リアルの人間関係と紐付いたSNSで、自分のブログを宣伝することをやめた。気持ち良く書けてなおかつ誰の目に触れても問題ないと思えるテーマを、針の穴を通すように探し求めるのはやめた。匿名という透明マントを身にまとい、インドのスラムに住む膨大な数の人間たちの中の一人として、遠く離れた日本に己のメッセージを届けていたあの頃を思い出すために、僕はブログを新しくした。

 

 

 

僕は、まったくもってスーパーマンではない。自分の信念に確固たる自信を持っているわけでもない。

 

だからこそ、僕が前のブログをやめると宣言した時に、「新しいブログができたら必ず教えてください」と言ってくれた人たちには、心から感謝している。

 

僕がもし、どんなに世間の反応が鈍くとも自分の信じたことをやり続けられる超人だったなら、そういった読者の人たちの声は、別段気にも留めなかっただろう。

 

自分が凡人であるからこそ、「お前のやっていることは価値があるんだよ」と教えてもらえることが、自分のモチベーションになるのだ。

 

「自分のやりたいこと」など、環境やタイミングに左右される、極めてあいまいなものでしかない。そういったあいまいさを認めて、自分の弱さを前提にして、僕はこれから文章を書いてゆきたい。

 

八方美人で器用貧乏で、何一つ突出することなどできない、こんな僕が書けることなど、たかが知れている。ただ一つ、自分が感じたものを、心のままに書き綴ってゆくこと。それだけは、違えることはしないはずだ。

 

読んでくれている方々に、心からの感謝を。そしてこれからも、こんな僕を応援してやってください。どうぞよろしくお願いいたします。

旧ブログ「忘れられても。」のタイトルについて

「忘れられても。」というタイトルには、僕が文章を書く上でこうありたいなと思う、二つの気持ちを込めています。

 

一つは、「忘れられてもいいんだ」ってこと。

 

僕は、良いコミュニケーションって水みたいなものだと思っています。無色透明で何の味もしない、どんなやり取りをしたのかどうにも思い出せない、でも不思議と良い感じだったことは覚えている。それが、良いコミュニケーション。

 

僕の好きなことの一つに、さし飲みがあります(別にさしでなくてもよいのですが)。良い飲みってのは、人生の先輩からありがたいアドバイスをいただいたとか、とにかく沈黙を埋めるために騒いで盛り上がったとか、そういった飲みではないのです。コミュニケーションの中身は覚えていないけど、居心地のよいコミュニケーションだった、そう言い切れる飲みが、良い飲みでしょう。

 

ブログも、僕と読んでくれる人のコミュニケーションです。僕がなんだかこれは書かないとムズムズするぞと思ったことを書いて、どこかからやってきたあなたがふむふむと読んでくれる。たぶん、読み終わって5分後には、僕の書いたことなんて忘れているでしょう。でも、もしかしたら、僕の文章の何かがあなたの心に引っかかって、読んでいた時はなんだかよくわからないけどワクワクしたぞ、じーんとしたぞ、そんな風に思ってもらえるかもしれない。そうしたらまた、『忘れられても。』というブログに遊びに来てもらえるでしょう。

 

僕は、そんな文章が書きたいのです。何を書いていたかなんて、忘れられてもいい。読んでいた時の気持ちさえ、忘れられなければね。

 

そしてもう一つは、「忘れられても、書き続ける」ってこと。

 

僕は昔、「自分は何かオモシロイことをやって耳目を集め、人とは違った人生を歩むんだ」という、強迫観念にも近いような感情を抱いていました。勉強はよくできたので、がんばって世の中的にはすごいと言われる大学に入りました。それだけで、特別だと思っていました。そして、「人と違った人生」を求めて、ああでもない、こうでもないとさまよっていました。

 

でも、僕には特別なものなんて何もありませんでした。中学・高校とやっていた野球は、高校3年の夏の大会で背番号10をもらえる程度の実力にしかなりませんでした。小学校の頃から海が好きでスキューバダイビングの免許まで取ったのに、100本も潜らないうちに飽きてやめてしまいました。学者になりたかったはずなのに、大学で真剣に学問をする気にはなれませんでした。 

 

僕は、将来何がやりたいのか、自分がどんな人間なのかまるでわかっていない、そのくせ自分の物差しで測れない人間を怖れて見下す、どこにでもいるただの凡人に過ぎませんでした。

 

そんな凡人が、特別な存在になど、なれるはずはないのです。

 

僕の文章は、ネットの海に埋もれ、時代に忘れられてゆく、無数のコンテンツの一つに過ぎません。

 

それでもいい。僕の文章を読んでくれる人がたった一人でもいるのなら、その人に向けて、メッセージを放ち続けたいんです。

 

ピロウズというバンドがその昔、【Please Mr.Lostman】というアルバムに、「THE BEATLESのようなビッグネームになれなくても、俺たちは俺たちの音楽を、聴いてくれる人たちに届けるんだ」というメッセージを込めたように、ね。

 

長くなっちゃいました。今書いた二つのことが、僕が『忘れられても。』という名前に込めた気持ちです。

 

どうぞごゆっくり、お楽しみください。

 

 

 

2014年以前のブログ:『Rail or Fly』