旧ブログ「忘れられても。」のタイトルについて

「忘れられても。」というタイトルには、僕が文章を書く上でこうありたいなと思う、二つの気持ちを込めています。

 

一つは、「忘れられてもいいんだ」ってこと。

 

僕は、良いコミュニケーションって水みたいなものだと思っています。無色透明で何の味もしない、どんなやり取りをしたのかどうにも思い出せない、でも不思議と良い感じだったことは覚えている。それが、良いコミュニケーション。

 

僕の好きなことの一つに、さし飲みがあります(別にさしでなくてもよいのですが)。良い飲みってのは、人生の先輩からありがたいアドバイスをいただいたとか、とにかく沈黙を埋めるために騒いで盛り上がったとか、そういった飲みではないのです。コミュニケーションの中身は覚えていないけど、居心地のよいコミュニケーションだった、そう言い切れる飲みが、良い飲みでしょう。

 

ブログも、僕と読んでくれる人のコミュニケーションです。僕がなんだかこれは書かないとムズムズするぞと思ったことを書いて、どこかからやってきたあなたがふむふむと読んでくれる。たぶん、読み終わって5分後には、僕の書いたことなんて忘れているでしょう。でも、もしかしたら、僕の文章の何かがあなたの心に引っかかって、読んでいた時はなんだかよくわからないけどワクワクしたぞ、じーんとしたぞ、そんな風に思ってもらえるかもしれない。そうしたらまた、『忘れられても。』というブログに遊びに来てもらえるでしょう。

 

僕は、そんな文章が書きたいのです。何を書いていたかなんて、忘れられてもいい。読んでいた時の気持ちさえ、忘れられなければね。

 

そしてもう一つは、「忘れられても、書き続ける」ってこと。

 

僕は昔、「自分は何かオモシロイことをやって耳目を集め、人とは違った人生を歩むんだ」という、強迫観念にも近いような感情を抱いていました。勉強はよくできたので、がんばって世の中的にはすごいと言われる大学に入りました。それだけで、特別だと思っていました。そして、「人と違った人生」を求めて、ああでもない、こうでもないとさまよっていました。

 

でも、僕には特別なものなんて何もありませんでした。中学・高校とやっていた野球は、高校3年の夏の大会で背番号10をもらえる程度の実力にしかなりませんでした。小学校の頃から海が好きでスキューバダイビングの免許まで取ったのに、100本も潜らないうちに飽きてやめてしまいました。学者になりたかったはずなのに、大学で真剣に学問をする気にはなれませんでした。 

 

僕は、将来何がやりたいのか、自分がどんな人間なのかまるでわかっていない、そのくせ自分の物差しで測れない人間を怖れて見下す、どこにでもいるただの凡人に過ぎませんでした。

 

そんな凡人が、特別な存在になど、なれるはずはないのです。

 

僕の文章は、ネットの海に埋もれ、時代に忘れられてゆく、無数のコンテンツの一つに過ぎません。

 

それでもいい。僕の文章を読んでくれる人がたった一人でもいるのなら、その人に向けて、メッセージを放ち続けたいんです。

 

ピロウズというバンドがその昔、【Please Mr.Lostman】というアルバムに、「THE BEATLESのようなビッグネームになれなくても、俺たちは俺たちの音楽を、聴いてくれる人たちに届けるんだ」というメッセージを込めたように、ね。

 

長くなっちゃいました。今書いた二つのことが、僕が『忘れられても。』という名前に込めた気持ちです。

 

どうぞごゆっくり、お楽しみください。

 

 

 

2014年以前のブログ:『Rail or Fly』