読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Twitterのツイート数の表示廃止によせて。あるいは、ざっくりと「共感」について。

発信 雑感

Twitter社がツイート数の表示を廃止したことで、ウェブの世界には小さからぬ旋風が巻き起こっている。

 

この機能変更により、インターネットという大海原の片隅にひっそりと浮かぶ当ブログのような零細メディアは、転覆し沈没するレベルの大打撃を被るだろう。

 

FBのシェア数があるじゃないかって?ダメなのだ。

 

なぜなら、FBのシェア数ではそのメディアの「良いも悪いもひっくるめたおもしろさ」はわからないからだ。

 

FBでシェアされるコンテンツというのは、基本的には、「明るいもの」「楽しいもの」「万人に受け入れられるもの」である。

 

ハロウィンがちっとも楽しくないあなたへ。 で使った表現をもう一度使わせてもらえば、「正の感情」に裏打ちされたコンテンツ、他人から肯定されるコンテンツが、FB上ではシェアされやすいのだ。

 

しかし、「ノスタル自慰でノスタル死」とか、「自分探しをやりまくれ」とか、「笑いが取れないなら自らをさらけ出せ」とか、そういうことばかり書いているこのブログは、間違っても「万人に肯定されやすい」コンテンツではない。そういうものを書いても、僕は気持がよくならないので、書けないのだ。

 

本当は、万人に肯定されるコンテンツの方が、価値がわかりやすいし、何より自分が生きやすいから、僕だってそっちの道に進みたかった。しかし、書けないものは書けないのだから、仕方がない。

 

そんな僕にとって、大げさかもしれないけど、ツイート数というのは一つの救いだった。時々自分のブログを覗きにきて、1つでもツイート数が増えているのを見た時は、とても嬉しかった。この広いインターネットの世界に、自分の発信したメッセージに反応してくれた人が1人でもいたのだと思うと、書いていてよかったなと思えたものだ。

 

実際、僕のコンテンツはTwitterでシェアされることが多い。それはきっと、ポジティブなこともネガティブなことも発信できるTwitterという中立的なプラットフォームだからこそ、ユーザーが拡散しやすいのだと思う。

 

インターネットの見えない部分で、僕をはじめ数多くの人たちを救ってきたはずのツイート数が表示されなくなるということに、僕は深い悲しみを覚える。

 

 

 

さて余談になるが、コンテンツの「拡散」はいつ起こるのだろうか?

 

一般的な回答の一つに、「人がコンテンツに共感した時」というものがある。

 

しかし、上で書いたように、例えばFB上では、いくらそのコンテンツに共感したとしても、「これは万人からは肯定されにくいものだ」とユーザーが思ってしまえば、拡散行為は阻害される。

 

また、「中立的な」プラットフォームであるTwitterにおいてはどうかと言えば、自らの心に刺さるコンテンツに対しては、人々はリツイートよりもむしろ「いいね」(昔の「お気に入り」)を押すのではないだろうか。

 

自分の心を抉った、深く共感させられたコンテンツに関しては、人は拡散せず自らの胸の内にそっとしまっておこうとする。僕はそれが人の本質であるように思う。友人にピロウズの'1989'という楽曲の素晴らしさを説いたところで、間違いなく共感されないだろう(参照:「明日も自主休講にするかぁ」とつぶやきながら、一人暮らしのアパートで深夜に聴き入るのにふさわしい洋・邦ロック10曲。

 

そんなふうに、共感したコンテンツを胸にしまい心の糧とするのは、素敵な行いではあるけれども、さらに多くの人の目に触れるチャンスに繋がらないという意味では、残念なことかもしれない。

 

したがって僕は、理想的な拡散装置のヒントは、はてなブックマークにあると思う。

 

はてブは、人々が「胸の内にしまってお」いたコンテンツを拾い上げ、プラットフォーム上で拡散する機能を持つ。

 

肯定のされやすさも気にすることなく、ただそのコンテンツが「それぞれの心に刺さったかどうか」だけで、拡散されるかどうかが決定される。

 

もちろん、「心に刺さったことを保存しておく」という使い方だけがはてブの使い方ではないけれども、「共感の深さを拡散の広さに変換する装置」を考える上で、はてブの秘める可能性は計り知れない。

 

ツイート数亡きあと、「メディアの価値」を考えるヒントは、はてなブックマークにあるのではないか。僕はそんなふうに思っている。