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ロボットや人工知能によってアイデンティティが脅かされるのは、「人間より仕事ができるから」ではない。

生き方 雑感

「ロボットが人間の仕事を奪う未来」というテーマが、マクドナルドの前CEOの発言をきっかけに、話題になっていた。

 

ロボットが人間の仕事を奪う「最低賃金」は15ドル:マクドナルド前CEO発言

 

また、人工知能(Artificial Intelligence、AI)についての議論も、依然活発だ。少し前に行われた囲碁AIとプロの対決は、囲碁を少しでもかじったことのある人にとってはゾクゾクするものだったであろう。

 

圧勝「囲碁AI」が露呈した人工知能の弱点

 

「単純な作業、反復的な思考から解放され、人はより人間らしい、自分にしかできないクリエイティブな仕事に打ち込めるようになる」というのが、ロボットやAIの普及した世界の一つの理想像だ。

 

しかし、はたしてそのようなバラ色の未来予想図は実現するのだろうか?

 

労働の機会が失われることで、人は「自分にしかできない仕事に邁進することができる」どころか、「自分自身が何者なのか知る機会を与えられず、アイデンティティを喪失する」のではないだろうか。

 

それはもはや、個性を持たないロボットと同じ存在に、人間がなりはててしまうということではないだろうか。

 

今日の記事では、「人間に人間らしさを与えるために開発されたロボットやAIが、結果として人間の人間らしさを奪ってしまうこと」について書いてみようと思う。

 

 

 

人間は、労働によって自己自身を発見する。

 

これについては、難しく考えずとも、誰にでも思い当ることがあると思う。

 

大学時代、僕は自分の気になったことにとことん手を出してみようと思い、ベンチャー企業つげ義春の『無能の人』のごとく石を鉢植えにしたネギの家庭菜園セットを売ったり、学祭でドクターフィッシュを手製の足湯にぶち込んで商売しようとしたり、インドのムンバイまで行って高級アパートを日本人の駐在員に売る仕事に就いたりしたが、最も身になったと思っているのは、実はブラックと名指しされる某居酒屋チェーンでのアルバイトだった。

 

僕はそのアルバイトをするまで、ほとんど労働というものを体験したことがなかった。強いて言うなら、塾講師を少しやった程度。そんな僕が、「いらっしゃいませぇ!」と声を張り上げ、「お客さん、飲み放題コースいかがですか?」と営業する姿など、当初は想像することだにできなかった。

 

テーブル番号やメニューの名前、さらにはハンディ(オーダーを取る機械)の使い方を必死に覚えながら、ようやくお客さんの注文が取れるようになった時に僕が発見したのは、「自分は人が欲しいものと手持ちリソースをすり合わせていくことが好きなのだ」ということだった。

 

これに気付いたのは、いわゆる「飲み放題コース」を営業する中でであった。居酒屋には、「飲み放題コース」と呼ばれる、飲み放題付きのコース料理がある。一般的に、「飲み放題コース」は客単価が上がり、かつオペレーションが単純化されるため、お店側としては推奨して売ってゆきたいサービスである。一方で、飲み放題にしたいと思っているお客さんの側にも「この料理は別の料理に変えてほしい」「こんなに食べない」「そもそも飲み放題にするほど飲まない」など、様々な要望がある。

 

「飲み放題コース」はどうやったら売れるのか、というテクニックについては論旨から外れるためここでは書かないが、最終的に僕は、「飲み放題コース担当のホール責任者」として、忘年会シーズンはひたすら「飲み放題コース」を勧める社畜アルバイターと化し、その売上への貢献が認められて社長のW氏の署名の入った表彰状をもらったりもした。そういった結果につながったのは、僕に商才があったとかそういうことよりも、「人が好きなものは何かを探り、それにできる限り近いものを自分の手持ちのリソースの中から提案することが好きだったから」だと思う。

 

僕は今も、人と飲む時には「その人が好きそうなお店」をリサーチしたり、「その人が好きそうな小説や映画の話」を振ったりして、楽しいコミュニケーションの時間を創出するのが大好きだ。これだって、「相手の好きなものと自分のリソースをすり合わせる」ことに他ならない。

 

ヘーゲルは、「奴隷と主人」という関係の中でいかに奴隷が「自主性・自立」を獲得するかを述べた文章の中で、下記のように述べている。

 

物を形成するなかで自分が自主・自立の存在であることが自覚され、こうして、自主・自立の過不足のない姿が意識にあらわれる。

 

物の形は外界に打ち出されるが、といって、意識と別ものなのではなく、形こそが意識の自主・自立性の真の姿なのだ。

 

かくして、一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ。

 

(『精神現象学』p.137) 

 

精神現象学

精神現象学

 

 

労働する(=「物を形成する」) 中で打ち出されたアウトプットが自分自身のアイデンティティなのだ、ということが、この文章の中では書かれている。それは、何も有形のものに限らず、僕が上で例として挙げたような「無形のサービス」においても同じだ。

 

居酒屋のアルバイトというのは、学生が体験する労働の機会の中でも、最もありふれたものの一つだろう。物珍しい経験をしなくとも、「自分自身のアイデンティティ」というものは、いくらでも発掘可能なのだ。

 

 

 

しかし、ロボットやAIによって労働の機会が減ると、自己自身を発見する機会というのは少なくなる。

 

居酒屋の例で言えば、昨今増えている「タッチパネル式の注文」がすべてのお店で普及すれば、オーダーを取りに来る店員は不要となる。僕が自分自身の特性を発見した「飲み放題コースの営業」という仕事も、人間がやる必要はなくなるかもしれない。

 

ロボットやAIの普及が人間の価値を減じてしまうのではないか、という、ディストピアものの小説や映画でよくテーマとなる懸念は、たいていの場合ハード面での比較におけるものだ。つまり、「ロボットやAIの能力」と「人間の能力」を見比べて、「計算ならロボットの方が正確で速い」「過去の事例から現在の課題の最適解を見出す力ならAIの方が得意だ」という事実をもって、「だから人間は無価値なのだ」と結論するのである。

 

それは例えば、こういった広告事例を目にして「自分の投票したのが人工知能の作ったクリエイティブだったらなんとなくゾッとするなぁ」と感じる心にもつながっている。

 

AIがいよいよクリエイティブ領域に進出?!「クロレッツ ミントタブ」が人工知能クリエイティブディレクターにCM制作を依頼世界初!人間VS人工知能のCM制作対決! 

 

しかし、議論すべきより根源的な問題は、労働におけるソフト面、言い換えれば「なぜその仕事をしているのか」というその人のアイデンティティに関わる問題の方ではないだろうか。

 

人間どうしで職の奪い合いをしている今ですら、「自分の代わりとなる能力を持った人間」は、世の中にゴマンといる。ハード面で比較するなら、既にほぼすべての人が「誰かと代替可能な存在」なのである。

 

だが、それぞれの人は、それぞれの人に固有の「労働する理由」を持っている。それが「ソフト面」である。僕であれば、広告代理店で働く理由は「自分のメッセージを知らない人に届ける力を身につけたいから」というものだ。

 

同じ動機で広告業界で働いている人はたくさんいるが、「僕にとってのこの動機を満たすことのできる」人間は、僕しかいない。動機のオリジナリティという点で言えば、能力の比較と同じく代替可能だけれども、「その叶えたい欲望を満たして快感を覚える人間、幸せになれる人間」というのは、誰でもない、自分自身なのだ。

 

また、表面的には同じような動機であっても、掘り下げていくと誰にも真似しえない自身のアイデンティティの鉱脈に突き当たる。事実、僕が就職してから書いた 僕が「スクールカースト」から解放された日死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。といった記事の内容は、「働いてみて改めてわかった、自分自身の価値観」そのものである。

 

労働することで、人は自分自身を発見していく。労働というのは、金銭というものが関係している以上、「嫌だからやらない」「興味がないからやらない」と拒否しづらく、その結果「自分すら知らなかった自分自身」を発見するのである。

 

(学業でも同様の現象が見られることは、「教育に関心があります」と言う人はまず、「受験勉強の意味」を語れるようになってほしい。 でも書いた。)

 

ロボットやAIの存在は、そうした「労働」というプロセスを、アイデンティティを確立する極めて重要な機会を人間からはぎ取り、「自己とは何か?」と問う力を失わせてしまうのではないだろうか。

 

それは、「機械が人間より能力的に優秀だから、人間の仕事がなくなってしまう」などということよりも、遥かに深刻な問題ではないだろうか。

 

 

 

ロボットやAIが、人間の「労働」という機会を奪った時、そこで失われるのは「人間らしさ」そのものである。

 

人間に「人間らしさ」を発揮させるために開発された彼らがむしろ「人間らしさ」を失わせてしまうというのは、なんともぞっとする光景である。

 

願わくば、古代ギリシャ時代の哲学者たちのように、あり余る時間を持て余した人間たちが、新たな「人間らしさ」に辿り着けますように。