仕事に疲れ果てた君を救ってくれる、おススメの小説5選+α。

社会人1年目の、10月も終わりの頃だった。新卒で配属された内勤の部署から媒体の部署への異動を、僕は当時の上司から言い渡された。

 

それは、コミュニケーションプランニングの仕事を志望して入社した僕にとって、青天の霹靂だった。

 

深夜まで続く会食、初ラウンドで234という壊滅的なスコアを叩き出したゴルフ、まともにやり合えば確実に利害が対立するスポンサーとメディア、そして何より、自分の長年のトラウマだった「スクールカースト的価値観」との対峙(参照:僕が「スクールカースト」から解放された日。)。異動して最初の頃は、僕にとってネガティブなこれらの要素が絡み合い、仕事のできなさにボコボコにされ、自分でも「このままだとおかしくなってしまうかもしれない」と危惧していた。

 

そんな瀕死の僕を救ってくれた小説がある。

 

多くの人は、小説をエンターテイメントとして読むだろう。僕もそこに異論はない。ただ時として、小説は人を救う宗教書のような存在になりうる。

 

現実逃避ではなく、かといって自己啓発書のような直接的なカンフル剤でもなく、優しく前を向かせてくれる作品を5冊と、それらに関連する作品をいくつか紹介する。

 

 

 

 

 

センセイの鞄

 

川上弘美

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

僕はひとりぼっちが好きだ。それでも時々、一人でいるのが寂しいな、と感じることがある。目いっぱい残業した帰り道、午前0時を回ったコンビニでついホットコーヒーを買ってしまうのは、そういった寂しさを紛らわせたいからだと思う。

 

そんな孤独感を、肯定するでも否定するでもなく、ふんわりと包んでくれるのがこの作品。

 

登場人物たちは、「おひとりさまの達人」である。やがて恋仲になる「わたし」と「センセイ」は、不定期に馴染みのお店で席を隣あって飲んでいるが、それも約束をして一緒に飲んでいるわけではなく、たまたま一人でお店に来て、カウンターで横並びになったから飲んでいるのである。

 

そんな「おひとりさまの達人」でも、寂しさを感じることはある。お正月、家の中で蛍光灯を取り換えようとして怪我をした「わたし」は、積年のあれやこれやを思い出して泣いてしまう。どれだけ孤独耐性が高くとも、人は誰もいない場所では生きられない。そんな時、あたたかく迎えてくれる人がたった一人いれば、どれだけ幸せだろう。作中の至るところで、そんな切々とした寂しさと救われる温かさを感じて、僕は涙を抑えることができなかった。

 

僕はこれまでの経験から女性作家の作品を苦手だと感じることが多いのだが、川上弘美氏の作品はどれもすごく好きだ。夢と現実があいまいになった世界、可愛らしくそれでいて甘ったるくない感じは、僕の大好きなバンド、スピッツと根を同じくしているように思う。『センセイの鞄』が好きなら、スピッツのアルバムの中でもビタースイートな『フェイクファー』なんて、合うんじゃないだろうか。

 

フェイクファー

フェイクファー

 

 

 

 

ようこそ、わが家へ

 

池井戸潤

 

ようこそ、わが家へ (小学館文庫)

ようこそ、わが家へ (小学館文庫)

 

 

サラリーマンをやっていると、時々自分が歯車であることを受け入れざるをえないタイミングというのがある。拒否権などないムチャ振りをいかに解決するかに頭を悩ませていると、「僕は歯車になんてなりませんよ!」と息巻いていた大学時代の自分が思い出されて、自嘲気味に笑ってしまうことがある。

 

しかし、僕たちはただの歯車ではない。熱い心を持ち、どうやったら取引先に価値を提供できるかをひたすら考える、プロの歯車だ。自分でかみ合わせを考え、自分からギアを回してゆく、自律的な歯車だ。

 

金曜日の夜遅く、家の近くの中華料理屋でビールを飲みながら、歯車に少しばかりの油を差していた時に出会ったのが、この『ようこそ、わが家へ』だった。

 

フジテレビの月9でドラマ化されたが、原作はもっと男くさい作品だ。そして何より、第一級の「サラリーマン賛歌」である。冴えない銀行員の中年男が、それまでのサラリーマン人生で学んだすべてを費やして、クソみたいな資本主義社会に一撃を見舞うラストシーンは、社会で歯車となって働くあらゆる人々の胸にエールとなって届くに違いない。

 

何者にもなれない歯車たちが必死になって生きてゆく姿を描いた点で、朝井リョウ氏の『何者』に対するアンサー的作品とも言えるかもしれない(『ようこそ、わが家へ』の方が先だけど)。読み比べても面白い。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 

 

  

一年ののち

 

フランソワーズ・サガン

 

一年ののち (新潮文庫)

一年ののち (新潮文庫)

 

 

仕事終わりの飲み会もカラオケも決して嫌いではないけれど、僕なんかは一度やれば当分はいいかなと思ってしまう。会食の予定をベルトで(=平日5日間すべて)入れてしまう先輩のタフネスさに舌を巻きながら、自分のエネルギーのキャパの小ささに笑ってしまう。だけど、休日くらいは静かに暮らしたい。

 

そんな時、僕が手に取るのはサガンの『一年ののち』。池澤夏樹氏の『スティル・ライフ』と同じく、心の鎮静剤として抜群の威力を発揮する。自宅の風呂に浸かりながら、あるいは布団にくるまりながら読むのもいいし、外で読むならやっぱり神保町の喫茶店だろうか。『ラドリオ』のウインナーコーヒーや『ミロンガ・ヌオーバ』のココアをお伴にこの本と土曜日の午後を過ごせば、ふつふつとエネルギーが蓄えられ、「来週からまた戦える!」という気分になるものだ。

 

『一年ののち』は何度読んでもストーリーが頭に残らない小説でもある。筋を覚えられない、というと作品としてどうなの、と思われるかもしれないけど、少なくとも僕にとっては、それは素敵なことだ。 このブログについて。 でも書いたけれど、僕の中では「良いコミュニケーションは水の如し」である。無色透明で何の味もしない、だけど不思議と良い感じだったことは覚えている、それが僕にとっては「良いコミュニケーション」であり、このブログを『忘れられても。』という名前にした理由の一つなのだ。

 

自由に生きるジョゼ、彼女を愛する男ベルナール、ジョゼがなぜか惹かれてしまう無教養な男ジャック、 女優を目指す美女ベアトリス、ベアトリスに恋した田舎の青年エドワール、彼らが集まる社交場を開くマリグラス夫妻…。様々な人間たちの心の細やかな動きの描写には、「不条理だけど、こういうことってよくあるよな」と思わされる。旅行先にジョゼがやってきたのを見て自分を愛してくれているのだと思い込んだベルナール、一度は成功したベアトリスへの求愛が短い花火で終わってしまうのを成す術もなく見守るエドワール…。男の悲劇にばかり目が行くのは、僕もまた男だからかもしれない。

 

ちなみに、僕はフランス映画の中でもいわゆる「ヌーヴェルヴァーグもの」がどうも苦手なのだが、一方でフランソワーズ・サガンの小説は大好きだ。それは、映画では語られることのない「不条理であることそのもの」を、言葉にしてくれているからだと思う。映画の不条理なシーンでは「なぜこういうことが起こってしまうのか?」と考えてしまうが、小説ではそれが「なぜも何も不条理だから仕方ないのだ」と描写される。「理由があるのか否か」を決定できるのは、心を描写できる文学だけだ。フランス文学をもっと読んでいけば、いつかヌーヴェルヴァーグのおもしろさをわかる日が来るかもしれない。

 

(以下は、例外的にフランス映画で僕が好きな作品です。)

 

天井桟敷の人々 HDニューマスター版 [DVD]

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シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]

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深夜特急

 

沢木耕太郎

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 

深夜特急〈3〉インド・ネパール (新潮文庫)

深夜特急〈3〉インド・ネパール (新潮文庫)

 

 

スポンサーとメディアの板挟みとなり、理不尽にも思える業務に詰められていた頃、「いざとなったら、俺にはこれがある」とビジネスバッグに忍ばせていたのが、この作品だった。

 

特に『深夜特急1 香港・マカオ編』と『深夜特急3 インド・ネパール編』から伝わってくる熱量はすさまじい。それも、スポーツ的な興奮冷めやらぬ感じといった熱ではなく、思考はどこまでも静かでありながらナイフのような鋭さを秘めた「白熱」である。

 

僕は世界一周旅行には二通りあると思っている。一つは、どこに行った、何を体験したという「外界を体験する」ことをメインに据えた旅。Facebookにアップされたウユニ塩湖の写真がその象徴的存在だ。もう一つは、観光名所や名物料理などはそこそこに、そこで出くわす人や出来事を通して、自分との果てしない対話を繰り広げていく旅である。『深夜特急』で語られるのは、まさに後者だ。

 

いつかそう遠くない未来に、僕も「自分との対話の旅」に出てみたい。『深夜特急』は読んだ人が無性に旅に出たくなってしまう本だとよく言われるけれども、僕もどうやら、主人公がマカオやインドで罹患した熱病に、冒されてしまったらしい。そういう意味では、もしもサラリーマンとして不適格な行動を取り締まる「社畜検閲」とでも言うものがあれば、真っ先に取り上げられて発禁に処せられるに違いない作品だ。 

 

しかし、僕は「会社で働くこと」と「世界一周の旅」にはほとんど差はないと思う。なぜなら、どちらにおいても「予期せぬ出来事によって自分自身を知っていく」ことに違いはないからだ。つまり、「周囲へのリアクションによって自分がつくられる」ということだ。

 

そのへんのことは、 死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。 で既に書いたけれど、沢木耕太郎氏が改めて「深夜特急編集後記」とも言える『旅する力 深夜特急ノート』で「アクション(自分から行動を起こすこと)の時代からリアクション(周囲との関わりから人物が形成されてゆくこと)の時代へ」という話をしているので、興味のある方は読んでみるとよいだろう。

 

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

 

 

 

 

荒野のおおかみ

 

ヘルマン・ヘッセ

 

荒野のおおかみ (新潮文庫)

荒野のおおかみ (新潮文庫)

 

 

「自分は大衆にも偉人にもなれない、ひとりぼっちのアウトローだ」

 

テレビ局のどんちゃん騒ぎで消耗し、帰り道のFacebookで友人が総合商社を辞めて起業したという記事を眺めながら、僕はため息をついていた。

 

そこには、誰も本当の自分を理解してくれないという苦悩があった。僕の考えていること、感じていることよりも、僕の外見や雰囲気、トーク力といった「キャッチーさ」で自分が計測されることに、僕は疲れ果てていた。

 

この本と出会ったのは、そんな時だった。

 

荒野のおおかみ』の主人公ハリー・ハラーは、「市民生活に属さないアウトサイダー」である。彼は、当時の新しい娯楽であったジャズや映画やダンスといった「大衆的なもの」を忌み嫌っていた。しかし、この世界と自分との統合に失敗し自殺しようと思い立ったある夜、ハリーは酒場でとても素敵な女の子と出会い、こう激励される。

 

「じゃ、あんたは踊れないのね?全然ね?ワンステップさえ?そのくせあんたは、生きるためにどんなに骨を折ったか、だれにもわかりゃしない、と言いはるのね!大げさなことを言ったのね。あんたの年ではもうそんなことするもんじゃないわ。そうよ、踊ろうとさえしないで、生きるために骨をおったなんて、どうして言えるの?」(p.137)

 

僕はこのシーンで号泣した。大衆的なものに馴染めず、かといってそれを完全に拒否することもできない自分の弱さと主人公の姿とが重なり、自分はまだ少しも生きちゃいない、そのくせ頭でっかちで理屈ばかり並べ立てていたのだと思った。そして僕は、このテレビ広告業界で見れるものはすべて見てやろう、そう奮い立ったのである。

 

僕は今でも「大衆的なもの」を楽しむのが苦手ではあるけれども、そんな自分をさらけ出すことができれば、たとえお互いに理解し合うことはできずとも、様々な人たちと交わってゆくことができるんだということを発見した。それについては、僕が「スクールカースト」から解放された日 や、人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。 で書いたとおりだ。

 

原題の 'Der Steppenwolf' は、アメリカのロックバンド、ステッペンウルフの由来である。アメリカン・ニューシネマの代表作『イージー・ライダー』は、そのステッペンウルフの楽曲を主題歌としている。体制と個人の対立がテーマであったヒッピー文化やアメリカン・ニューシネマのムーブメントに、ヘルマン・ヘッセという作家が寄与していたことも、彼の作品を読めば「道理だなぁ」と納得できるはずだ。

 

イージー★ライダー [DVD]

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「小説など何の役にも立たない」という言葉をよく聞く。「文系は登場人物の気持ちでも考えてろよ」というのも、インターネット上の煽り文句として定着した感のある言葉だ。

 

しかし、自らの生き方を省みて夢と目標を設定せよと説く自己啓発書にも、世界経済を読み解き10年後に生き残るための羅針盤を与えようとする経済学の本にも真似できない力が、小説にはある。

 

それは、自分の心の帰る場所を創造する力である。

 

 

君が今いる環境においては、すぐ手の届くところには、君のことを心底理解してくれる人は、なかなかいないかもしれない。「お前は本当にわからない奴だなぁ」と上司や先輩から言われて、凹むこともあるかもしれない。「わかってもらえないならそれで結構」と言い切れるほど、僕たちは「悪い人間」ではないからだ。

 

そんな時には、いつでも手の届く本棚に、自分の「帰る場所」となってくれる小説を、置いておけばいい。なんなら、僕が『深夜特急』をビジネスバッグに入れていたように、密かにそれを会社に持って行ってもいい。

 

誰にも真似できない、自分だけの味方たちを心に秘めて、社会には馴染めないアウトローなりの戦い方で、戦っていこう。

 

この記事が、誰かの自分だけの味方を探すその手助けになったのであれば、僕はとても嬉しく思う。