SNSが浮き彫りにした、僕たちが心の底から恐れているもの。それは「他者への無関心」である。

インターネット論壇で時たまテーマとして取り上げられるのが、「嫌われてもいいから自分をさらけ出せ」という話である。

 

僕も以前このブログとは別の場所で「人に嫌われてもいいから、自分の好きなことを発信しよう」といった内容の記事を書いたことがある。インターネットというフラットな場所で、もっといろんなメッセージを発信している人がいてもいいではないか、そう思って、他人の視線を必要以上に気にする自分自身を半ば励ますように、記事を書いたのだ。

 

しかし、最近思う。僕たちがインターネット上で自由に発信できないのは、他人に嫌われたくないからではなく、他人が自分にこれっぽっちも関心を持っていないということを思い知らされるのが怖いからなのではないか、と。

 

 

 

例えば、Facebookで何か写真を投稿するとしよう。僕がまず考えるのは、「このポストを見て不快な気持ちになる人がいたらどうしよう」ということではない。「このポストにいいね!が一つもつかなかったらどうしよう」ということなのだ。

 

「この投稿にリアクションがまったくなかったらどうしよう」という不安は、さらに二つの種類の不安にわけることができる。

 

一つは、「特定のAさんが自分に関心を持っていないことが判明してしまう」ということ。

 

そしてもう一つは、「AさんもBさんもCさんも…Zさんも自分に関心を持っていないことを、αさんが知ってしまう」ということだ。

 

正直、僕は前者については大して気に留めていない。確かに、好きな女の子がSNS上にアカウントを持っていたとして、自分の働きかけに対してその子から何のリアクションもなければ、多少落胆はするかもしれない(『ソーシャル・ネットワーク』のラストシーンで、ザッカ―バーグがひたすら女の子からのフレンド承認返しを待っていたように)。だけど、そんなのはSNSに頼らずリアルの人間関係で距離を詰めればいい話だ。

 

問題は後者である。要するに、「自分が人気者であるか否か」といったことが、SNS上では周囲のユーザーにバレてしまうのだ。

 

この問題を引き起こすのは、いいね!やリツイート、コメントといった、「他者から自分への関心」を数値化した指標が、万人に公開されているためだ。

 

いわば、「自分に対する無関心の度合いが可視化されている」ことが、インターネット(特にSNS)における僕たちの自由な振る舞いを阻害する要因なのだ。

 

 

 

本来、無関心というのは当人には知らされるはずのない態度だった。

 

もし誰かが僕に「お前になんて誰も興味持ってないんだよ」という言葉を吐いたとしたら、その時点でその誰かさんは僕に興味を持っていることになる。「相手と関わりを持つ必要すら感じない」のが、無関心ということだからだ。

 

もともと知るよしもなかった「無関心の度合い」というパンドラの箱を、僕たちは開けてしまったのだ。

 

 

 

中島義道氏の『人を「嫌う」ということ』には、嫌う・嫌われる理由の一つとして「相手に対する絶対的な無関心」が挙げられている。

 

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

 

 

人は誰でも、自分に関心を持ってくれる人のことが好きだし、気にかけてくれない人のことは嫌いだ。

 

問題は、これまでは目に見えることの少なかった「無関心」という「嫌い」の火種を、これからは(インターネット上で「もう1つの人格」を生きるのであれば)直視せざるをえない時代になってゆくということなのだ。

 

 

 

SNSが浮き彫りにした、これまでは見えることのなかったはずの「無関心」という冷たい態度。

 

僕たちが取れる道は、3つしかない。

 

1つは、SNSに背を向けて、「無関心」が目に見えないリアルライフのみで生活してゆく道。

 

1つは、FacebookInstagramでひたすらウケの良さそうなポストを投稿し、風車に挑むドンキホーテのように「無関心」に抗い続ける道。

 

そしてもう1つは、自分に向けられなかった「関心」を追いかけることなく、コツコツと自分のインターネット上の人生を生きていく道。前述の中島義道氏の言葉を借りれば「サラッと嫌いあってゆく」道だ。

 

「他者から関心を持たれないことに恐怖を感じる」人間の性質は、コミュニケーションを取り合い集団で生きてきた祖先たちの時代には仲間はずれにされることがすなわち死を意味したために、発達したものだと思う。

 

しかし、SNS上で「もう1つの人生」を生きることのできる現代では、ややもするとその「無関心への恐怖」が、自身の自由な振る舞いを制限してしまいかねない。

 

「嫌われる勇気」とともに「無視される覚悟」というものも、これからの時代には必要になってくるのではないだろうか。