コミュニケーションにおいて何よりも必要なのは、「勇気」だと思う。

友人から相談を受けていて圧倒的に多いのは、「好きな人の気持ちがわからない」「付き合っている人の考えていることがわからない」という悩みである。

 

先日も「彼女に振られた」という悲しい知らせを友達から受け取ってしまった。「あの子のことは、最後までよくわからなかった…」と彼は言っていた。付き合う前から彼ら2人のことを知っていた僕は、どうにもやるせない気持ちになってしまった。

 

恋愛に限らず、相手と深いコミュニケーションが取れないというのは、人間の普遍的な悩みの一つであるように思う。

 

僕の大好きな小説の一つである武者小路実篤の『友情』は、主人公が好きだった女性を親友に取られてしまう話だ。主人公には、思いを寄せる女性の気持ちも、親友の本当の腹の内も、物語の最後の最後まで窺い知ることができない。これも、コミュニケーションの不全によって人間関係を失ってしまうという一つの例である。

 

友情 (新潮文庫)

友情 (新潮文庫)

 

 

 

 

いったい、お互いを深く理解し合えるようなコミュニケーションには、何が必要なのだろうか?

 

ある人は「相手の気持ちを想像する力だ」と言うかもしれないし、ある人は「自分の気持ちを言語化する力だ」と言うかもしれない。

 

確かに、相手の気持ちを考えることや、自分の気持ちをうまく伝えることは、コミュニケーションにおいてとても大切なことだと言えるだろう。

 

だが僕は、一番大切なものは「勇気」ではないかと思う。

 

深いコミュニケーションとは「所詮他人でしかない人間同士がお互いの価値観をすり合わせてゆくこと」であり、そのためには「自分の価値観をさらけ出すこと」が必要不可欠だ。

 

しかし、自分の価値観をさらけ出すことには、「相手が自分を理解してくれないかもしれない」という不安や、「自分が相手を傷付けてしまうかもしれない」という恐怖が、常につきまとう。

 

そういった不安や恐怖に打ち勝つための「勇気」こそ、僕は深いコミュニケーションにおいて一番大切なものではないかと思う。

 

 

 

「相手が自分のことを理解してくれないかもしれない」という不安を人生で最も強く感じるのは、もしかしたら就職活動の時かもしれない。少なくとも、僕にとってはそうだった。

 

とある広告代理店の面接でのことだ。(一応、OB訪問という名目にはなっていたけど、まああれはリクルーター面接と呼んで差支えないものだろう。)

 

面接官は僕の「さし飲み対談」のエピソードに興味を持ってくれ、「これまでお酒を飲んだ人の中で一番おもしろかった人はどんな人ですか?」という質問を投げてきた。

 

正直、僕は答えに迷った。自分の中で「この人の話が一番好きだ」というものははっきりしていたのだけど、この会社の面接ではその話はウケが悪いかも…と思ってしまったのだ。

 

今でこそ マジメな人のための、広告代理店での戦い方。 のような記事を書いている僕も、その頃はまだ「広告代理店志望者とはかくあるべし」という呪縛から、逃れられていなかったのだ。

 

結果、なんとなく「人と違う特別な経験をしていて」「相手にキャッチ―だと思われそうな」知人の話をして、僕はその面接に落ちた。

 

別に、その人の話がおもしろくなかったわけじゃないと思う。面接官から見て、その人のエピソードを語る僕自身の価値観が透けてこなかった。そういうことだろう。

 

僕が本当に話したかったのは、とある友人の話だった。

 

彼には、大学に入るまで学校の勉強とゲームしか趣味がなかった。彼に言わせると「毎日を消費するためだけに生きている」ような生活だったそうだ。

 

そんな彼が、大学でギターに出会い、プロの音楽家に指導してもらうようになっていく。

 

回生が上がり、実験や論文執筆に追われるようになっても、彼は日常の中に音楽を楽しむ時間を見出し続けた。

 

プロになろうなどという野望はなかったけれども、就職しても、ささやかにギターを弾き続けることだけは決してやめない、と彼は語った。

 

「だから俺はホワイト企業に行くんだ」と彼はおどけた。「ギターを弾く時間や演奏会に行く時間を取れるようにさ」と。

 

正直、どこがおもしろいんだ、というような話かもしれない。大学まで素人だった人間がプロのギタリストを目指す、みたいなドラマチックな展開があるわけでもない。夢を叶えるためにどこかの企業に就職するわけでもない。むしろその真逆の、地味なエピソードだ。

 

だが、僕はこの友人のなんでもないエピソードに泣きそうになってしまった。新聞やテレビには、絶対に取り上げられることのない無名の人生。しかし、そこにはその人なりの決意や信念が、ひっそりと根を張っている。そういった人生は、伝記に取り上げられるような偉人の人生にも、決して引けを取らないと僕は思う。

 

ただ、僕はそういった自分の価値観を、面接という場所でさらけ出す勇気がなかった。「この人には理解してもらえないかもしれない」という不安に、打ち勝つことができなかった。そして、相手に迎合したようなエピソードでお茶を濁し、すごすごと退散してしまったのだ。

 

 

  

「自分を理解してもらえないかもしれない」という不安だけでなく、「相手を傷付けてしまうかもしれない(その結果嫌われてしまうかもしれない)」という恐怖もまた、深いコミュニケーションの天敵である。

 

この恐怖は、僕がブログで何かを書こうとするといつも生じる恐怖と同じものだ。

 

その昔、mixiアメブロで文章を書いていた頃、僕は「読者から何を言われるか」ということを過剰に意識していた。できれば、自分の書いたものが誰かを不快な気持ちにさせることは避けたい、そう願っていた。その一方で、やっぱり書く以上は反響がほしいとも思っていた。

 

そんな矛盾した気持ちを抱いたまま、良い文章が書けるわけがない。

 

時々、自分が昔書いていた文章を読み返すと、中途半端なペダンチックさと感傷性しか漂ってこない、誰にも届かないオナニー文章だなと感じる。僕自身は読んでいて気持ちが良いのだけど、それではダメなのだ。読んでくれた人と交われなければ、ダメなのだ。

 

恋愛の終わりの場面においても、振る側はよく「どんなふうに伝えてもあなたを傷付けてしまうから…」と、自分の気持ちをさらけ出さずに済ませようとする。

 

だが、 「相手を傷付けてしまうかもしれない」というのは、一見相手のことを思いやっているようでいて、実は「自分が悪者になりたくない」だけなのだ。

 

結局、人間関係を終わらせるというのは、どちらも無傷では済まされない行為なのだから、傷付く、傷付けるのは当たり前だ。「仮に一切自分の気持ちを伝えなくても」振られる側は傷付く。だから、「傷付けたくないから」伝えない、というのは、伝える側の都合の良い言い訳に過ぎない。

 

恋愛関係、友人関係、すべて同じだ。

 

「クソみたいな理由ですれ違って連絡を取らなくなったけど、少なくとも、あいつは最後まで誠実だった」

 

人間関係が終わった時にそう思えるなら、それはとても良いコミュニケーションができていた、ということだろう。

 

  

 

「自分を理解してもらえないかもしれないから」「相手を傷付けてしまうかもしれないから」…。そういった理由にかこつけて自分を伝える努力を怠っていると、いとも簡単に「自分をさらけ出さないコミュニケーション」だけで構成された人間関係ができあがる。

 

しかし、そういった「自分をさらけ出さないコミュニケーション」だけでできた人間関係は、遅かれ早かれ死ぬしかない。

 

 

こういったツイートもあるが、僕は「喧嘩するかどうか」より「自分をさらけ出しているかどうか」の方が大切だと思う。そうして自分自身を開示した結果、喧嘩になるならコミュニケーションを取って解決すればいいし、喧嘩にならないのならそれで問題ない。

 

「喧嘩にならないから相性の良い相手だ!」と思っていたら相手は単に思ったことを我慢していただけで、その我慢が臨界点に達したところで、こっちが何の準備もしていないうちに突然振られた、というような経験は、中学・高校時代の苦い思い出として、多くの人の胸に刻まれているのではないだろうか。

 

 

 

「自分をさらけ出すコミュニケーション」とは、『すべてはモテるためである』(二村ヒトシ著)の言葉を借りれば、「自分の肚を見せる」ということだ。

 

対話とは、相手の言ってることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。それから「自分の肚を見せる」ことです。

(『すべてはモテるためである』p. 132) 

 

「肚を見せる」というのは「相手に対して、みんなに対して、今の自分を開示する」ということです。(中略)

それは、あなたが見せたい自分、かっこつけた自分を「こういう自分だ、こう受け取ってほしい」と押しつけるのではなく、弱いダメな自分を「許してほしい」と押しつけて甘えるのでもなく、そういう自分は「醜い…」と自己嫌悪するのでもなく、ただ「自分を見せて」それがどう受け取られるかは「相手に任せる」のです。 

(同、p.138)

 

対話に必要なのは「決めつけずに聴くこと」と「自分をさらけ出すこと」だ―。

 

この言葉は、コミュニケーションの神髄だと言ってもいいと思う。ただ、5年前の僕が読んでも、「聴くってのはわかるけど、肚を見せるってなんじゃらほい」と思ってしまうだろう。それほど、「自分をさらけ出す」ことは難しい。その姿勢を自分のものにするまでは、誰しも時間がかかるだろう。

 

書店で買うのにはちょっとためらってしまうかもしれないけど、この本は素晴らしい哲学書だと思う。コミュニケーションがどうにも苦手だ、という人には、ぜひ読んでほしい。

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

(ちなみに、こういった本を本屋で買うのは恥ずかしい…みたいに思ってしまう姿をも周りに隠さず見せられることこそ、「自分の肚を見せる」ことだと僕は思う。ま、ちょっと違うかな。)

 

 

 

良いコミュニケーションには、勇気が必要だ。

 

その勇気とは、「自分をさらけ出す勇気」である。

 

「自分を理解してもらえないかもしれない」とか、「相手を傷付けてしまうかもしれない」とか、そういったネガティブな感情を踏まえてなお、自分の気持ちを伝えようとする勇気。

 

その勇気さえあれば、他人である誰かと深い関係を築き、お互いの人生をより良くするというのがどういうことなのか、身を以て経験できるだろう。

 

僕にとって「自分をさらけ出すつもりで」書いているこの記事が、インターネットで、あるいはリアルの世界で、僕と読者の方との「深いコミュニケーション」ができるための一つのきっかけになることを、僕は願っている。