「教育に関心があります」と言う人はまず、「受験勉強の意味」を語れるようになってほしい。

最近、「教育に興味がある」と言う人によく出会う。

 

たいていは、下のような理由で、教育に興味を持っていると言う。

 

「偏差値至上主義ってやっぱりおかしいと思うんですよ。偏差値ではなく、やりたいことで高校や大学を決める。机の上でしか通用しないお勉強じゃなくて、生きる力を身に付ける。先生から生徒への一方通行ではなく、先生と生徒が対話する双方向の授業を行って、生徒が自分で考える力を養う。そんな学校をつくりたいんです」

 

確かに、偏差値で自分の人生を決めてしまうのは視野が狭い。「勉強ができたので医者になりました」と言う医者よりも、「人を助けたいから医者になりました」と言う医者の方が、(腕が同レベルなのであれば)信頼できるだろう。

 

先日亡くなったロビン・ウィリアムズがキーティング先生を演じる『いまを生きる』や、「社会を変えるために、何をする?」とシモネット先生が問う『ペイ・フォワード 可能の王国』など、良い映画にはよく生徒との対話を重んじる名教師が登場する。「教育に関心がある」人たちの心の中には、彼らのような先生がロールモデルとして描かれていることも多い。

 

 

 

だが、こうした「教育に興味のある人たち」は決定的な点を履き違えていると僕は思う。

 

それは、「学校で一方的・受動的に学ばされる勉強は無駄だ」と考えている点だ。

 

 

 

そもそも、「学ぶ」という行為は、「それを行うことでこういうことが得られると確信した上で」始める能動的なものではない。

 

むしろ、「学ぶ」ことの本質は、多分に受動的なものだ。

 

例えば、あなたは今、僕のブログを読んでくれている。

 

が、遠い昔、まだ小学生だった頃、ひらがなやカタカナ、それから漢字を、「将来インターネットでどこかの誰かの書いた個人ブログを読むために勉強しよう」と思って勉強しただろうか?

 

そんなわけはあるまい。

 

このブログを読んでくれている人全員が、先生や親に無理やり漢字やかなの書き取りを課せられ、強制的に覚えさせられたはずだ。

 

だが、今あなたはそうやって「受動的に」学ばされた手段を駆使して、僕のブログを読んでいる。

 

「学ぶ」というのは、本質的にそういうことなのだ。

 

内田樹氏の『下流志向』 は教育に関心のあるすべての人に読んでほしい本だが、そこにはこうある。

 

教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります。

 

(内田樹『下流志向』p.55)

 

自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ということが実は学びの本質だからです。

 

(同、p.179) 

 

学ぶという行為の本質は、 今自分が持っている「価値判断のものさし」をいったん脇に置き、とにかく学んでみるということにある。学び始める時には、なぜ自分がそれを学んでいるかということはわからないのが普通なのだ。つまり、教育は本質的に一方的にならざるを得ないということなのだ。

 

 

 

「受動的・一方向的に与えられる学習機会」の最たるものは、大学の受験勉強だと思う。

 

そして、「教育に関心がある」と言う人は、えてして大学の受験勉強を「知識の詰め込み」だと批判する。

 

しかし僕が思うに、受験勉強というのは絶え間なく続く「自分との対話」に他ならない。そこで得た洞察は、「受験勉強で習得する知識」など遥かに凌駕する、一生ものの財産としてあなたの役に立ってくれるだろう。

 

例えば、 僕個人が受験勉強から得たメリットには、以下のようなものがある。

 

・自分の思考のクセがわかる。

 

解答用紙に書いた答えが間違っていた時、その間違いの起こり方にはいくつかのパターンがある。知識が足りなかった、アイデアを思いつけなかった、単純ミスをした…。間違いが生じる度に、「なぜこの間違いを犯したのか?」と自問し続けていると、自然と「自分のやってしまいがちな間違いパターン」が見えてくる。

 

僕の場合、単純ミス、それも数字・計算のミスが非常に多かった。誤字・脱字のミスはそれほど多くはなかった。これはそもそも、僕が数学に苦手意識を持っているためだ。「解法はこれでいいのだろうか?」と不安になりながら計算を行うと、ミスが出やすくなる。したがって、解法の正否はとりあえず脇に置き、計算をやる時は計算に集中することにした。また、もう少し対症療法的な対策としては、「時間がある時には主に計算結果を見直す」ということを習慣づけた。

 

これは今でも仕事をする上で役立っている。僕の日常的な業務の一つに、お金や視聴率の数字が合っているか検算する、というものがある。自分は数字を扱う際に単純ミスをしやすい、という自己認識を持ち、ダブルチェックをするだけで、相当部分のミスは削れるものだ。

 

人は誰しも「自分はここが弱い」と感じている部分には注意を払う。若葉マークのドライバーがあまり事故を起こさないのは、「自分は運転が下手だ」という自己認識があるためだ。

 

自分はどこが弱いのかを理解するのは、その弱い部分の力を根本から底上げするためではなく、弱いなら弱いなりに、どうやったらカバーできるかを考えて実行するためである。僕はきっと計算ミスを全然しない人間にはなれない。でも、計算ミスを発見して手直しできる人間にはなれる。

 

受験勉強を通して「自分の起こしやすいミスのパターン」を把握できていれば、その後の仕事人生に生かすことができるのだ。

 

・語学の学び方がわかる。

 

大学受験で課される科目のうち、最も多くの人が勉強する必要のあるものは英語だと思う。そして、英語の学び方がわかっていれば、それは他の語学の習得にも存分に生かせる。

 

受験生だった頃、僕は英作文対策として『基本英文700選』という本に載っている英文をかたっぱしから暗記し、そこに出てくる言い回しを組み合わせて回答をつくり、自分の得点源としていた(英作文の前の段階で単語や文法を死ぬ気で暗記しまくっていたことは言うまでもない)。本番の時には、英語(長文読解の大問2つ、英作文の大問1つ)の得点は僕の大きな武器になってくれた。

 

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

 

インドに行ってヒンディー語習得の必要性を痛感した時、僕の力になってくれたのはこの受験勉強の経験だった。単語と文法、それから例文をひたすら暗記していくというスタイルは、ヒンディー語の基礎を習得するのにも抜群の効果を発揮してくれた。もともとリスニングのサンプルはオフィスやステイ先のアパートなど豊富に存在したので、鍛えるべきは特に机上で学ぶ部分だったのだ。半年後には、僕は普段英語を話している地元の不動産業者たちが都合の悪い時だけ交わすヒンディー語の会話の内容を聞き取り、「おい、どういうことだ?」と突っ込めるくらいにはなっていた。その結果、クライアントに不利な情報をいち早く察知し、サービスの質を上げることができた。

 

なお、「単語や文法をやって学べるのはお勉強としての語学ではないか」という批判があるかもしれないが、幼少期をその国で過ごした準ネイティブのような人でもない限り、他の国の言語を実用的に使えるようになるためには「机の上での」語学学習は必要不可欠である。

 

例えば英語。日本ではあたかも「英会話」と「学校の英語の勉強」は別であるかのように思われているが、文法や単語といった無機質な積み上げがあってはじめて、人間味のあるコミュニケーションとしての英語が可能になるのだ。

 

あなたが海外に数年間滞在したという特別な経験を持ち合わせていない人間であるのなら、「お勉強としての英語」(=大学受験英語)を学ぶことは、「実用としての英語」を習得するための強力な一歩になってくれるはずだ。

 

・反復練習でセンスに打ち勝てることがわかる。

 

高校3年の夏に部活を引退するまで、僕の志望校の合格判定はおしなべて最低ランクだった。特に数学と理科はゴミのような点数しか取れていなかった。残り半年で合格するためには、数学ではなく理科にリソースのほとんどを割く必要があると判断した。理科は反復練習による成果が出やすいからだ。ひたすら1冊の問題集の同じ問題を何度も何度も解いた。その結果、本番では理科2科目で狙い通りの点数を出すことができた。

 

「くそマジメに反復練習を突き詰め、センスを凌ぐ」という姿勢は、今でも僕の信念の一つだ。

 

例えば就職活動。僕は当意即妙の受け答えというやつがあまり得意ではない。でも、そういうのが軽くできちゃう人はたくさんいるし、特に広告業界はそういったアドリブに強い人間が多く集まってくる業界だ。

 

その人たちに負けないためには、自分なりの武器をとことん高める必要がある。僕の場合それは、「自己把握能力」だった。面接でどんな質問が来ても、自分のことが理解できていれば必ず答えられる。それは、面白い答えである必要はない。ただ、自分自身という人間に即した答えであることが必要だ。

 

自分自身がどんな人間であるかを知るために、ひたすらOB訪問をし、面接を受け、友達と話した。対話を繰り返して、自分自身についての理解を深めた。きっと就活生の大部分がやっていることだと思う。でも、就活はユニークなことをやった人が勝つわけではない。

 

大学受験では、みんなが使っている定評のある問題集を、愚直に何度も繰り返した人が勝つ。就活も、それと何ら変わらない。

 

僕は今いる会社の最終面接で「君は女の子にモテますか?」という質問を受けた。広告業界について、ある特定のイメージを抱いている人なら、「モテるって答えた方がいいのかなぁ」と回答に悩むだろう。だが僕は「いえ、モテません」と即答した。「じゃあ、好きな女の子を落とすならどうする?」と聞かれたので、「2人でコミュニケーションするのは大好きなので、一緒に飲みに行ってくれさえすれば、好きになってもらえる自信はあります」と答えた。そしたら通った。

 

それは、自分自身のことをギリギリまで突き詰めてさえいれば、「広告業界っぽい感じ」に自分を合わせなくても選考をパスできるんだと感じた瞬間だった。

 

センスのある奴に、同じ土俵で勝負しても敵わない。それなら自分の勝てる場所で、勝てる確率を極限まで上げ続けて勝負すればいい。反復練習は、必ず君の味方になってくれる。それを初めて知ったのは、大学受験の時だった。

 

 

 

長々と「受験勉強から得られたもの」を書いてきたが、当然のことながら、僕は受験勉強に取り組む前からこういったものが得られると思っていなかった。ただ、受かるために死ぬ気で勉強した結果、こういった洞察に至ったのである。

 

それを「受験勉強なんて下らない」と言って退けていたら、絶対にこんな学びは得られていないのだ。

 

だから僕は、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言う人よりも「学校の勉強からたくさんのことを学べた」と言う人の方が、ずっとずっと魅力的だと思う。

 

山田詠美の『僕は勉強ができない』は、勉強ができることよりも女の子にモテることの方が大切だと思っていた主人公が、その勉強からすらも何かを学ぼうと、大学進学を決意するストーリーである。「勉強なんて下らない」と思っている人にぜひ読んでほしい一冊だ。もっとも、僕も(上では「モテません」とか言ってるけど)女の子からモテることはとても大切だと思っている人間ではあるのだけれど。 

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

一方、『僕は勉強ができない』とは逆の方向、「勉強以外のものの価値も認められるようになりたい」と感じている人には、『ボールのようなことば。』の次の言葉を贈りたい。ちなみに言っておくと、僕はルーツとしては完全にこっち側の人間だ。

 

「勉強ができる人」なのにかっこいい人は、「勉強ができる人」であることを克服した人です。

(『ボールのようなことば。』糸井重里)  

 

ボールのようなことば。 (ほぼ日文庫)

ボールのようなことば。 (ほぼ日文庫)

 

 

 

「教育に関心がある」と言うのなら、今ある学校の仕組みを全否定するのではなく、既存の教育システムや受験勉強の価値も、きちんと語るべきだと僕は思う。

 

確かに、ただひたすら先生が教えることを頭に詰め込んでいくだけでは、僕がこの記事で書いた「学びの本質」すら理解しないまま、偏差値だけで物事を判断する人間になってしまいかねない。

 

僕は中高生の頃から、読書や対話を通して人の考えを知ったり、部活や習い事、体験学習の機会を通していろんな世界を知ったりするのが好きだった。そういった経験がなければ、このブログで書いているような「学びの本質」に気付くことはなかっただろう。

 

実際、上でも書いているように、「思考のクセがわかる」ことや「語学の学び方がわかる」ことは、会社に入ったり外国で働いたりしたから、つまりは多様な経験をしたからこそ理解できたことだ。

 

だから、これからの教育を考えるのであれば、「学校の勉強」と「課外的な学習」の両方のいいところをミックスさせる必要があると僕は思う。

 

ただ、「学校のお勉強は無駄だ」「受験勉強は単なる詰め込みだ」と言うのは、教育の本質的な側面を捉えていない、あまりに表層的な批判だと言わざるを得ない。

 

「教育に関心があります」と語るのであれば、まず自分が通ってきた学校の勉強から何が学べたのか、それを自分の言葉で語れる人であってほしい。

 

そうやって「課せられた学習から何が学べたのか」を語れることこそが、「教育の本質」を自分のものにしているということなのだから。