「私はこういう人間です」と語れるようになれたら、その大学生活には、意味があったと思う。

年が明けて、成人式の時期がやってきた。

もうすぐ期末試験があって、春休みになって、卒業式があって、そしてまた、春が来る。

僕はついに大学学部6年目に突入するわけだ。(1年半休学していたから、実際の学部在籍期間で言ったら4年目なんだけど。)

18歳の時に、大学でいったい何を学べるんだろう、自分は何者になれるんだろう、そんなワクワクした思いを抱いて、入学式に臨んだ日のことを、僕はよく覚えている。

しとしとと雨の降る、4月にしては寒い日だった。理学部のクラスで自己紹介をした。高校もおもしろい人が多かったけど、ここはそれに輪をかけて変な人がたくさんいるなぁ、と思った(失礼)。入学手続きで僕の前に並んでいた人がルービックキューブを超高速でいじくっていて、「ああ、ここが京大なのか」と思った。

家に帰って、高校時代から何度も何度も読み返していた、立花隆の本をもう一度読んだ。

 

きみたちはいま東大に入ったばかりで、いささか誇らしい気持ちで、自分はすでに何者かになったような気持でいるかもしれません。だけど、きみたちはまだ何者でもありません。ノーボディ(nobody)です。(中略)

東大に入ったということは、ここで勉強する資格を得たというだけのことです。その資格を使って、これからどれだけ自己教育につとめ、どれだけ自分を知的にビルドアップしていけるか。ここのところがいちばん大事なところです。

立花隆「脳を鍛える」p.96)

 

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

 

 

実績のないノーボディから、何かを成し遂げるサムボディ(somebody)へ。

立花隆の知的刺激に満ちた本を読んで、僕は来るべき大学生活への期待を大いに膨らませていた。

 

そして僕は、5年生になった。

講義も、サークルも、バイトも、海外も、自分が興味を持ったことすべてに、手を出し続けてきた。

「何者かになりたい」という焦りにも似た強い思いはいつの間にか消え、代わりに「僕はこういう人間です」と語れるようになった。

 

大学生活で重要なことって、たったそれだけなんじゃないかな、と思う。

 

本を読めとか、いろんな人と話せとか、海外に行けとか、「大学時代にやっておくべきこと」として語られることは、数多い。

そのすべてが、自分を知ることに通じている。

つまり、大学生活で重要なこととは、さまざまな経験を通して帰納的に自分という存在を理解することだ。

あるいは、大学で将来やりたいことを見つけろ、と言う人もいる。

これは、自分を知って、その先に見えてくるものだ。

働くというシーンを想定した時に、帰納的に理解した自分から、どんなことが好きなのか、どんなことが得意なのかを今度は演繹的に考え、将来を決定する、ということができれば素晴らしいのだけど、学生の身分で「仕事とはどんなものか」を体感するのは非常に難しいので(アルバイトやインターンに積極的に取り組んだ学生の意見としてこう述べている)、これはまあ、できればでよいと思う。

 

自分を知る、ということは、未知の物質の正体を明らかにしていくことに似ている。

光をあてたり熱を加えたりしても崩壊しないか、毒性や放射性を有するか、無機物なのか有機物なのかなどを、いろいろな環境に投じたり、試薬を与えたりして、反応を見ていくのである。

そういった「いろいろな環境」や「試薬」にあたるのが、「大学時代にやっておくべきこと」として語られるさまざまな経験である。そして、明らかにすべき未知の物質が、言うまでもなく、自分自身なのである。

 

上で「大学時代にやっておくべきこと」としてよく語られるものとして挙げた、読書、対話、海外について、僕の経験について書いてみる。

 

まずは「読書」。小説に限定して話をしようと思う。

それなりにたくさん本を読んで、よかったなと思うことは2つ。

小説(あるいは、芸術と一般化してもよいと思う)に対する評価は主観的、実存的で良いと感じたこと。そしてその過程で、人生を豊かにしてくれるような本がいくつか見つかったということ。

 

立花隆をよく引用していることからもわかるかもしれないけど、僕は昔、「教養主義」という言葉に強く惹かれ、「どれだけたくさん本を読むか」に血道をあげていた。

「名作」と呼ばれる作品の良さを理解できない人間はダメだ。そんなふうに思っていた。

ひたすらそうやって本を読んでいたのだが、そのうち、どうがんばって読んでも、つまらない小説がけっこうある、と感じるようになった。

それはもちろん、僕自身の理解力や知識が足りないせいで、おもしろいと感じられるフェーズまで達せなかった、ということもあると思う。

それでも、自分がおもしろいと感じるものをおもしろいと言うこと、それが一番大切なのだと、今は思っている。(もちろん、どの作品が好きかということを言い切ることで自分が背負うことになる一種の社会的な評価には、自覚的であった方がよいとは思う。)

誰が何と言おうと、自分がこれからの人生で何度でも読み返したくなるような作品が数冊あれば、それだけで生きていく意味はあるのではないだろうか。

 

僕は「少しずつ大人になっていく若者を描いた作品」が好きだ。

たとえば、「夏の庭」。

「オレ、もう夜中にトイレにひとりで行けるんだ。こわくないんだ」

ぼくと河辺は一瞬、拍子抜けしたけれど、その時、山下が叫んだ。

「だってオレたち、あの世に知り合いがいるんだ。それってすごく心強くないか!」

短い沈黙のあと、唐突に河辺がでかい声で答えた。メガネの奥の目を、いっぱいに開いて。

「だよなーっ!」

湯本香樹実「夏の庭―The Friends」p.208)

 

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

ネタバレになるので細かくは触れないが、物語の冒頭では、山下は「人が死ぬってどんなことなんだろう」と不安になるあまり、夜中にトイレに行くことができなかった。しかし、ひと夏の悲しくも楽しい経験を通して、少年たちは成長する。

「トイレに行けるようになる」という、傍目から見ればなんてことのない一つの行為の裏側に、その人間の人生と成長が透けて見える。

僕はそういった、青春を切り取った成長物語、が大好きだ。

以前も紹介した「ライ麦畑でつかまえて」、それから「ペーター・カーメンツィント」、「ノルウェイの森」。このあたりは、これからもずっと読み返すことになると思う。

 

次に「対話」について。

僕は「さし飲み対談」というものを通して、100人を超える人たちと対話を重ねてきた。

対話をしてよかったなと思うことは、「ゼネラリストタイプ」「ゴール志向に向かない」などなど、自分を表すキーワードをいくつも手に入れられたことである。

もともとこれを始めたのは、「さまざまな人からその人の素晴らしい点を学び、取り入れよう」という理由からだった。

今思うと、ちょっとキモチワルイ理由である。

基本的には、他者から学ぶという姿勢は非常に大切である。

しかし、他人の価値観の部分まで、取り入れる必要はないのだ。

僕はそのことを、多くの人と深く話す中で少しずつ気付いていった。

 

たとえば、僕はやたらといろんなことに興味を持ち取り組むので、「もっと一つのことに集中して取り組めば?」と言われることがある。そうアドバイスしてくれるのは、たいていの場合、ある研究や特定の趣味を深く深く追求しているタイプの人である。

対談を始めた頃は、「そうか、言われた通りやってみよう。まずは自分の専門である生物学の基本書(「Essential細胞生物学」とか)を隅々まで読んで勉強してみよう」とか思うわけである。そして、3日と経たないうちに挫折する。

一応言っておくが、僕は科学の本を読むのは好きだ。しかし、一つの分野のことを頭に叩き込むとか、ずっと同じことを研究し続けるとか、そういったことは苦手なのだ。

あるいは、「人生で成し遂げたい夢を明確に描いて、その実現のために日々の暮らしを設計しよう」と言う人がいたとする。それに従い、やりたいことを、抽象的にではなく、具体的なフェーズにまで(例えばこういうお店がしたいとかこういう本を書きたいとか)落とそうとする。そして挫折。

どうしようもないことを言ってしまうと、挫折するのは、自分がその価値観と「合っていない」からなのだ。

人は、共鳴しない価値観のもとに何かに取り組もうとする時、心の中に必ず違和感を感じている。

僕は初めのうち、その違和感を無意識に押しつぶしていた。「自分が未熟だから、できないんだ」と思っていた。

だが、自分と異なる価値観を持つ人からのアドバイスに従っては挫折し、を繰り返し、一方で自分がなんとなく共感できるなと思える価値観を持つ人から「君の考えは間違っていないよ」と言われることを繰り返すうちに、「他人の価値観に従う必要はないのだ」と思うようになったのだ。

さし飲み対談という対話を重ねてよかったなと思うのは、「自分のタイプが客観的に理解できること」である。

100人の人とそれなりの時間2人きりで話すと、人間のさまざまなタイプが見えてくる。上に挙げた例で言えば、1つ目は「ゼネラリスト」⇔「スペシャリスト」という軸、2つ目は「ゴール志向」⇔「イマココ志向」となる。そのような軸の上のどのあたりに自分は位置するのか、それを考えることができる。

それで言えば、僕は幅広く物事を見たいゼネラリストタイプであり、今ここにあるものを積み上げていくタイプであると言える。

 

そして、「海外」について。

すでに「インドア派が海外に行って思ったこと」で書いたのだが、海外に行ってよかったなと思うのは、「僕はそこまで海外に行って新しい風景を見ることが好きではないんだな」と理解できた、ということ。それ以上でもそれ以下でもない。そういうことが好きな人もいるだろうし、それはそれで、全然構わない。だけど僕はそうではないという、それだけの話。

僕の好きな言葉に、「人生の優先順位は、死なないこと、楽しむこと、世界を知ること」というものがある。これは、冒険家であり投資家であるジム・ロジャーズという人の言葉だ。

漠然とこの言葉に惹かれていた頃は、世界とは文字通り「世界地図」の「世界」だと捉えていた。(おそらく冒険家であるジムがこの発言で意図した「世界」も同様の意味のはずだ。)

だけど、インドに行って改めて理解したのは、僕はそういった「直接触れることができる世界」よりも、「科学的なこの世界の捉え方、小説や楽曲の持つ世界観、一人の人間のこの世界の捉え方、あるいは企業や製品のブランドの持つ世界観」といったような、目に見えない「世界」が大好きなのだということ。

それは、「物語」という言葉に集約される。

小説も、人生も、「物語」を持っている。あるいは音楽も(時間芸術と言われるゆえんだ)、科学も(宇宙はどのようにできたのか、生物はどのように進化してきたのか)、新規事業企画のインターンで必死になって開発した製品も。

僕はそれに惹かれて、これまでいろいろなことに手を出してきたわけだ。

 

と、このように、一見ばらばらに見える経験でも、抽象化して考えると必ず線になっているものなのだ。

以前も挙げたジョブスの言葉をもう一度書いておく。

You can't connect the dots looking forward you can only connect them looking backwards.

(あらかじめ点をつなげることはできない。後から振り返ってそうすることしか。)

(訳はブログ著者)

「何者かになりたい!」と願い、あらゆることに挑戦してみるのは、良いことだと思う。その過程で、いわゆる「意識高い人」と揶揄されても良いじゃん、と思う。

言い換えれば、大学時代というのは、「意識高いヤツ」であっても許される、限られた期間なのだと思う。

だけど、ずっとそのままでは、ただのバカだ。

自分が興味を持ったことは、たとえその時はバラバラに見えても、きっと一本の線でつながっているはず。その線を自分なりに引けるようになることが、大学生活においては重要なのではないだろうか。

 

大学生活でやるべきこと。そんなことは、一つに決められない。あらゆる経験、あらゆる友人、あらゆる環境が、「自分という未知の物質の同定」に役立つ。

いつぞや大学の門をくぐった時に「何者かになりたい」と思っていたのが、同じ門を出る時に「私はこういう人間です」と語れるようになっていれば。

あなたの大学生活には、意味があったと言えるのではないだろうか。