人を「意識高いかどうか」で語るのはやめようぜ

先日、自分が就職活動をするにあたり、とある人に連絡を取った。僕よりも上の学年で、すでに内定が決まっている人だ。

就職活動が本格化するのは12月。今の時期はとにかくいろんな業界の人に話を聴きたいと思っていた僕は、内定の決まっているその人に話を聴こうとアプローチしたのだが、「君のような意識の高い人に聴かせられるような話は、僕は持っていないよ」と言われ、なんとなくフラれてしまった。「どうやったら内定が取れるか」という話を僕が聴きたいと思っていると誤解させてしまったのかもしれない。

このエピソードに少し考えさせられるところがあったので、今回は「意識高い・低い」という言葉について、考えてみようと思う。

 

「意識が高い」というのは、特に就職活動でよく聞かれる言葉である。

きっちりした定義はないんだけど、学生団体やボランティアをやっているとか、英語や資格試験の勉強をしているとか、社会問題の解決に興味があるとか…みたいな、「社会に出ることに違和感がなく、自分の夢やキャリアといったものについて早い段階から考えている人」のことを、意識が高いと呼ぶ傾向にある。たぶん。

実際、僕はいろんな企業で長期インターンをしていたし、3年の時には夏のインターンの選考に夢中で取り組んでいたし、こんなブログで就活とか海外とかについて偉そうに書いてるし、「意識が高い」人種に属しているのかもしれない。

ここまで書くと、「ただ、僕は意識が高いわけではない。なぜなら自分にはこういう部分もこういう部分もあるからだ。だから意識が高いといった言葉を浴びせるのはやめてほしい」ということを言いたいのかな、と思われるかもしれない。

しかし、僕が書きたいのは、もう一段抽象的な話である。「意識が高いとか低いとかで人を判断するのはやめようぜ」ということだ。なぜなら、そうやって人を判断すると、その人の行動や考えをすべて「意識が高いから」という理由で捉えてしまい、より深いその人の価値観・好き嫌いといったものを理解することなく終わってしまうからだ。

 

僕がなぜOB・OG訪問をやるのかということについて考えてみよう。

「意識が高いから」という理由を考えるのは簡単だし(あまり理由になっていない気もするが、要は「あいつはそういうやつだから」というのと同義である)、「内定をもらいやすくするため」という打算も、そりゃ、まったく無いと言い切れるような純粋無垢な人間は後々いろいろと困るだろう。

しかし、僕を突き動かす最も大きな動機は、「自分の知らない世界にいる人の話を聴くことが、めちゃくちゃおもしろいから」である。冒頭で述べた人にも、ただ単純に「その人の話が聴きたいから」アプローチしたのである。

人の話を聴くというのは、それはもう、本当におもしろくて、好奇心を大きくそそられる行為である。

もちろん社会人の方は寸分の暇もないスケジュールの中わざわざ時間を割いてくれるのだから、学生が自分の好き勝手振る舞うというのはもってのほかだ。素人なりに、業界や業務内容について調べ、考える必要はあるだろう。

ただ、僕の場合、そうやっていろいろと仕事のことを勉強している時点で、すでに楽しいと思っている。こんな世界があるんだなぁと、ワクワクする。そして、実際にお会いして話を聴くと、本やネットで調べたことをより深く広く知ることができて、めちゃくちゃおもしろい。

これまで僕は100人近くの人と「さし飲み」をやってきた。自分はもともと「新しい世界を知ること」が好きなのだ。それも、たくさん海外に行って見たことのない世界を見る、といった意味ではなく、どちらかというと、誰かの価値観、誰かの考えといった、より個別的、実存的な世界を見ることが好きだ。視覚や聴覚といった感覚器官からもたらされる一次的な情報ではなく、一度誰かの脳みそを経て練り直された二次的な解釈というか。

これが、僕がOB・OG訪問に勤しむ決定的な理由である。単純に、「それを自分が楽しいと思うから」やっているのだ。就活生という身分にかこつけて、自分が楽しいと思うことをやっているだけなのだ。

 

これは、「意識が高い」といわれるどんな活動に対しても当てはまる。

以前も書いた例だけど、「貧困問題を解決したい」と言う人がいたとしよう。それだけ聞くといかにも「意識が高そうな」人に見えるかもしれない。

だが、そういった社会問題に興味があり、かつ実際に何らかのアクションを起こしている人というのは、僕が知る限り、究極的には「自分自身のために」やっているようだった。「自分と同じ人間が、世界のどこかで、その場所に生まれたというだけで圧倒的にレベルの低い生活を送らざるをえない、その格差が気持ち悪くて、それを無くしたい。つまり自分の中の不協和音を無くすため」と、ある知人は言っていた。それは、そういった問題を解決したい理由として「それで生活が良くなる貧困層の人たちのため」という答えを期待していた僕に、衝撃を与えた。

きっと、どんな活動もそうなんだと思う。

意識が高そうに見える人は結局、自分のやりたいことがたまたま「意識が高いと言われるような活動」に分類されているだけで、その人を突き動かすエンジンはもっと深いところにあるのだ。

もしかすると「意識高くないといけないと思って」「意識高く見えるのがかっこいいと思って」何か行動をしている人がいるかもしれない。それも、きっかけとしては全然アリだと思う。何か行動すれば必ず自分の好き嫌いや向き不向きがわかるからだ。ただ、ずっと他人の評価を気にして生きているのは、僕からすれば「おもしろいのかな?」と思う。誰かから見られていることを気にして行動する人生から、自分が何をやりたいのかを考えていく人生にシフトしていく必要はあるだろう。何よりも、自分のために。

 

「意識が高い・低い」という言葉はよく取り沙汰されるけれど、これは何も就職活動に限って使われる言葉ではない。

僕は理学部に所属している。僕の大学では4年から研究室に所属することになるんだけど、早い人は1年の時から研究室に行って自分のやりたい研究をやったり論文を書いたりしている。そんな人に対しては「あいつ意識高いよな〜」と、ここでも「意識高い」という言葉が、「自分のやりたいことを早い段階から考え、実行していること」という意味で使われる。

しかし、大学1年や2年のうちから、将来霊長類を研究したいからという理由で自費で夏休みにアフリカに行ってゴリラを観察するような人は、就活に勤しむ人からすれば「意識高い」とは言わないだろう。

つまり、「意識高い」と言えるかどうかは、自分がどんな世界に所属しているかに大きく関わってくるのだ。

僕は、何よりも自分の興味ある分野を勉強し研究に励むのが一番とされる世界も、居心地の良い部活やサークルで目いっぱい好きな人たちと遊ぶのが良しとされる世界も、それから、夢や志といった言葉を大切にし、将来どんなことを仕事にして生きていきたいかを深く考えている人がすごいとされるような世界も見てきた。

それぞれの世界で、大切にされている価値観というのは違うのだ。であるなら、今あなたが「意識高いなぁ」と思っているような人が勝負しているのとは別の世界で、あなたは「意識高いなぁ」と思われているかもしれない。「あいつ意識低いよなぁ、あんなんで大丈夫かよ」と思っている人が、別の世界では「あいつすげーな」と言われているかもしれない。それは、その人がどんな世界を大切に思っているかを知らないとわからない。

 

「意識高い・低い」なんて気にせず、もっとその人自身を見てみようよ!というのが、僕が最終的に言いたいことだ。

もしかすると、自分が思っていたのよりもっと個人的な理由で、その人はそういったことをしているのかもしれない。「世界を変えたいから」ではなく、「自分にとって世界はこうあってほしいから」行動しているのかもしれない。

もしかすると、自分の持っているモノサシが偏っていて、その人を測りかねているのかもしれない。自分は何よりも気心の知れた人たちと楽しいことをやりたいと思って生きてきたけど、相手にとってそれは大事ではなくて、それよりもいかに人と競争して勝ち抜くかを大事だと考えているのかもしれない、とか。

間違えてはいけないのが、相手の価値観を尊重するということと、相手の価値観を自分も取り入れてしまうということはまったく違うということだ。一番大切なのは自分の価値観だから。「あいつが好きなあのアーティストだけど、俺はどうにも受け入れないんだよなぁ…」なんて食い違いが起こるのは、音楽好きな人にはよくあるけど、それと同じ。「そっか、あいつはあれが好きなんだな」と理解するだけでよくて、共感はいらないのだ。

 

立花隆は、東大で行った講義の中でこんなことを言っている。

(以下引用)

他人がどう評価しようと、きみ自身がそれをどう評価するかが問題なんです。きみ以外の人全員がほめそやすものでも、きみがダメだと思ったらダメなんです。きみ以外の人全員がブーイングするものでも、きみがいいと思ったらブラボーを叫ぶべきなんです。他人の評価と自分の評価が著しく食いちがうと、誰でも自信をなくしがちですが、そこで自信をなくしてはいけません。評価と言うのはいつでも主体的なものです。ユニークで個別的でいいんです。

立花隆『脳を鍛える』p.46)

 

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

 

 

大学というのは、そこに集まる人が多ければ多いほど、多様な価値観を持った人たちの集合になる。

いろんな人と出会い、話し、影響を受けるだろう。人からもらったものの中に、自分の好きなものが見つかるということも、ままあるだろう。反対に、人から勧められてなんとなく違うなぁと思ったものから、自分という人間の輪郭が浮かび上がってくることもあるだろう。

結局、その価値判断の集積が、自分である。

僕にとって、人生は「自分とは何者なのか」という問いを、ずっと問い続けていく道のようなものだ。程度の差はあれ、この記事を読んでいる人にとっても、これは重要な問いではないだろうか。その問いに答えるには、他人を「意識高いかどうか」なんかじゃない、もっと根源に迫るようなモノサシで測っていく必要があるのだ。

この人は何を考えてこんなことをしているのだろう、という問いを投げかけて、自分には想像もつかなかった答えが得られる。だけどその答えは、もしかするとずっと探していた自分自身という人間の説明としてとてもしっくりくるものかもしれない。あるいは、やっぱり自分とは全然違う人なんだなぁということがわかって、じゃあ自分はこの人の対極にある考え方を大事にしているんじゃないだろうか、と思い至るかもしれない。

もしも、そんな人の根源に迫るような話を引き出したければ、下の本を読むといいかもしれない。

質問力―話し上手はここがちがう

質問力―話し上手はここがちがう

 

人の価値観に迫る質問をするにはどうしたらいいのか、そんな抽象的な問いに対してうまく答えていると思う。

 

人間は、おもしろい。

僕がこの記事で言いたいことは、結局その一言に集約されてしまう。

それが、僕という人間を動かす重要なエンジンの一つなのだ。就活を一生懸命やるのも、こんな記事を書くのも、その気持ちが原動力になっているところが大いにある。

「意識高いヤツ」といったレッテルの下にあるものをもっと注視してみよう。世の中にはおもしろい考えを持っている人が、本当に、たくさんいるはずだから。

 

※海外行ってるやつは意識高い、みたいな短絡的な風潮をぶち壊したいと思って書いた、以下のような記事もよろしければどうぞ。

インドア派が海外に行って思ったこと