小説を読んでいて、音楽を聴いていて、あるいは映画を観ていて、「あ、この作品はあの作品に似ているぞ!」と思ったことが、誰しも一度はあるだろう。
当然、別のジャンルの作品どうしよりは、SF小説ならSF小説、ロック・ミュージックならロック・ミュージックといった同ジャンル内の方が、そういった繋がりを発見することは多いだろう。昨今はインターネットという便利なものがあるので、「ビートルズとボブ・ディランが接触した結果、前者はメッセージソングを歌い始め、後者はフォークギターをエレキギターに持ち替えた」といった詳細な相互関係を、知識によって把握することも可能になった。
ちなみに、ロック・ミュージックのファンであれば、こうした「ミーム的な繋がりに基づいて次に聴くバンドの目星をある程度つけてしまう」という経験には、思い当る節があるだろう。
一方で、ジャンルも時代も国籍も異なっており、その間には何の繋がりも無いはずなのに、同じ匂いを嗅いでしまう作品の組み合わせというのも、確かにある。生物学で言うところの相似器官、ルーツを同じくしないはずの昆虫の翅と鳥の翼のような関係である。
僕は、そうした相似の対を見つけると、つい嬉しくなってしまう。それはきっと、四半世紀もそれについて考え続けている「自分自身」なるものが、まったく別の作品に同じような反応を見せたという事実をもって、少しは自分がその正体に近づけた気になるからだと思う。
今日は、ミーム的な繋がりのない(はずの)相似的な作品のジャンルを超えた組み合わせを紹介することで、僕と似たような感覚を持つ人たちへのリコメンドになればいいなと思う。
1, 【映画】ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』と【音楽】ザ・スミス
『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』は、「アメリカン・ニューシネマで好きな作品を3つ挙げてくれ」と僕が言われたら、必ずその名を挙げるであろう作品だ(ちなみにあとの2つは『イージー・ライダー』と、ニューシネマと呼んでよいのかわからないが『チャイナタウン』)。
主人公ハロルドは自殺を演じることが趣味という19歳の少年。ある日、縁もゆかりもない他人の葬式に参列した先で、79歳の老女モードと出会い、恋に落ちる―。いかにも「カルト映画」と呼ばれる作品にありがちな訳のわからなさが匂ってくるようだが、プロットがとてもしっかりしていて、ニューシネマには珍しい希望を(それも純度100%の希望ではなくコクと深みのあるやつを)受け手に抱かせてくれる作品なのだ。
『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』自殺を演じることが趣味の少年と、白バイを盗んで走り回る老婆。マイノリティである彼らの姿は、彼ら自身が「息苦しいだろうから」と森に植え直した街路樹に重なる。アメリカン・ニューシネマらしい閉塞感がありながらも、生きることの喜びを教えてくれる傑作。
— クヌルプ (@qnulp) 2015年3月4日
一方で、ザ・スミスというバンド。非常に内省的で繊細な音を奏でるバンドだ。「もしロッカーが作家をやるなら成功しそうなのは?」という問いがあるとすれば、僕はザ・スミスのモリッシーとジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスを挙げると思う。ただ、両者を隔てる壁は、(結果論であるが)前者は生き残り、後者は死んでしまったということだ。そういう意味でも、『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』という作品に漂う雰囲気は、ジョイ・ディヴィジョンではなくザ・スミスに近い。
鬱々とした青春時代に、授業をサボって観るのに最高な映画であり、最高な音楽であると思う。
The Smiths: Reel Around The Fountain
小説を読んでいて音楽が思い浮かぶことは、僕の場合ほとんどない。それでもこの両者の名前だけは、挙げずにはいられない。
川上弘美は、これまでのところ女性作家で一番好きだと思える書き手である。これは僕が男だからかもしれないが、女性の方が男性に比べて、その作家特有の心理描写の傾向があるように思う。そこに共感できないと辛いし、共感できるとめちゃくちゃ入り込める。川上弘美以外だと、田辺聖子も好きな作家である。
川上弘美の作品は、ビー玉のように透き通っていて可愛らしくて、僕はそういうラムネみたいな作品にめっぽう弱いのだ。なんとセンチメンタルな我がガラスのハート…ではあるが、そういうのにビンビンに感じてしまうのだから仕方ない。
そしてこの感覚は、完全にスピッツにも当てはまるものだ。特に初期のスピッツの透明感と童話的世界観は半端ない。直接的ではないのにエロいところも似ている。川上弘美とスピッツは、僕の中で絶対に切り離せないマッチングなのだ。
冒頭のくまを始め、この世のものではない存在たちがたくさん登場する、川上弘美の『神様』。そこに合わせていくなら、やっぱり『ウサギのバイク』から始まる、スピッツの『名前をつけてやる』だろうか。
『名前をつけてやる』についてはこちらもどうぞ!→名前をつけてやる - スピッツ / 情けない青春が詰まった、幻想的な絵本みたいな音楽。
3, 【映画】ティム・バートン『シザーハンズ』と【音楽】キュアー
メジャーでオシャレな作風の映画監督を3人挙げろ、と言われたら、『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ、『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソン、そしてティム・バートンのトリオがつい頭に浮かんでしまう。僕なんかは「オシャレ」という概念からほど遠いようなところで幼少時代を送ったものだから、彼らの作品を観ると「オシャレだなぁ」というよりむしろ「これがオシャレというやつなのか…メモメモ」といった感想を抱く。
というわけでティム・バートンである。ここで特に取り上げたい作品は『シザーハンズ』。多かれ少なかれ彼の作品はゴシック・ロックっぽい雰囲気をまとっているが、とりわけ本作はその匂いが強い。そしてなかなかテーマが深い。両手がハサミと化した主人公エドワードの姿は、「僕たちは人を傷つけることなく生きることができるのか」という問いを象徴しているように見える。
キュアーというバンドは、邦楽をよく聴く人にとってはいわゆる「ビジュアル系」っぽくて敬遠してしまうかもしれないけど、なかなかどうして、聴きやすいバンドである。確かに暗い曲は多いが、メロディがしっかりしていてキャッチーだ。僕が『シザーハンズ』と重ねたのは、彼らの屈指の名曲 "Friday I'm In Love"。映画のドラマチックさと温かみが、見事なまでにこの楽曲の中で表現されている。この映画の音楽をキュアーが作っていたらドンピシャだった。
…とここまで書いて、ティム・バートンがキュアーの影響を受けていたと明言している記事を発見してしまった(The Cure 奇才ティム・バートン監督からラヴ・コール)。「ミームレスな相互関係」ではどうやらなさそうだが、それでもこの両者を結び付ける補助線が1本でも多くあった方がよいと思うので、そのまま記載しておく。
4, 【小説】筒井康隆『敵』と【映画】イングマール・ベルイマン『野いちご』
中学生の頃というのは一生のうちで最も「見えないけれど見たい」という欲求に突き動かされることの多い時期ではないだろうか。もちろん第一に来るのは異性の肉体だ。サルのごとく性欲を持て余した男子中学生たちがこぞって河原のエロ本やアパートの郵便受けのピンクチラシに向かう様は今思うと滑稽であるが、当時はそんな客観的な視点なぞ持つ余裕はなかった。ただ、性欲以外にも、自我というものが目覚め、自分以外の人間は何をどう考えて生きているのだろうかと想像して、見えない他人の「こころ」を見たいと渇望する時期である。
中学生の僕にとり、筒井康隆は村上春樹と同じく、「見えないけれど見たいもの」を鮮やかに描いてくれた作家だった。当時僕がハマったのは『家族八景』。人の心を読める魅力的なエスパー七瀬が女中に扮し、現代社会を生き抜いていく物語である。人の心がこんなにも自己中心的で欲望に満ちているものなのかと、僕は賢者タイムに絶望したものである。今思うと、あの作品は夏目漱石の『こころ』へのアンサーだったのかもしれない。
エロチックでグロテスクと称されることの多い筒井康隆だが、今回取り上げたいのは『敵』という作品だ。高齢の域に達した主人公の精神が、次第に狂気に汚染されてゆく様子を描いている。僕はこの本を初めて読んだ時、老人になっても、人は欲望を抱いたままシームレスに狂った世界へ足を踏み入れてゆくのだということを感じ、恐怖を感じたものだ。
そして、『敵』を読んでから10年以上経ったある日、ふと思い立って名画座で観賞したのが、イングマール・ベルイマンの『野いちご』だった。白黒の世界で展開される老人の奇妙な一日を眺めていて、僕はふと「この感覚は昔どこかで味わったことがある」と思った。
『野いちご』授賞式に向かう老教授の1日を描いた作品。白黒なせいもあって、白昼夢と現実が混在する描写が筒井康隆の『敵』っぽいなと思った。苦手なヨーロッパ映画の雰囲気ではあったけど、ラスト20分くらいの「孤独」をテーマにした部分がさすがは名作だなと思った。
— クヌルプ (@qnulp) 2015年11月22日
両作品に共通点は多い。主人公が老人であること、そんな主人公の日常を描写した作品であること、そして現実と幻想を行き来すること、などだ。しかし、この2つの作品を何よりも強く結びつけたのは、「現実を現実として認識できる時間が有限であること」の恐怖だった。
要素だけで作品どうしを結び付けることなら、コンピューターにも可能である。しかし、「恐怖の色あい」で作品を繋げるということは今のところ人間にしかできないのだ。
5, 【映画】相米慎二『台風クラブ』 と【音楽】NUMBER GIRL
相米慎二監督の作品は、ナンセンスな筋書きも多く、「よくわからないものが多い」というのが僕の正直な感想だ(わかりやすいのは『風花』くらいだろうか…)。ただこの『台風クラブ』では、中学生たちの「自分でも捉えきれていない訳のわからない感情」がその作風にぴたりとハマり、奇跡的な仕上がりとなっている。
『台風クラブ』中学生という、半径5メートルの狭い世界しか知らない、それでいて多感な時代の一瞬を、台風の襲来という心沸き立つ出来事に合わせて切り取った問題作。暴風雨のなか裸で踊る少年少女の姿は、自由を追い求めるヒッピーたちのように映りました。青春特有の狂気を感じさせる名作です。
そして世紀末の邦楽ロックを力強く牽引したNUMBER GIRL。彼らの曲は、特に大学時代によく聴いたものだ。徹夜でマージャンをやった後、脳みそがかっとなって冷めやらないところに、不思議とすっと入ってくる音楽なのだ。
「初期衝動」という、正体のあるのかないのかよくわからない言葉が、ロックバンドの音像を描写するのにしばしば使用される。そして、NUMBER GIRLほど「初期衝動」という言葉の意味をわかりやすく伝えてくれたバンドはそうないと思うし、映画において「初期衝動」という形容をするのであれば、『台風クラブ』ほどふさわしい作品はないのではないかと思う。
(2:49あたりから)
「検索エンジンには捉えられない」と書いておきながら、この記事をアップロードした時点でそれは叶わなくなるわけだな…と自嘲気味に笑いながら、文章を書いた。
今日紹介した作品の組み合わせのどちらかが好きなら、もう片方もきっと好きだと思う。そんな風にして、この記事を読んでくれた人の好きなものが増えていけばいいなと思う。
逆に、こいつこういうのが好きなんじゃないか…と思ってくれた人は、ぜひ僕におススメの作品を教えてくれると嬉しい。