「メディア・プランニング」が意味をなさなくなる時代へ。

昨今、日本では新しい動画サービスが次々と誕生している。NETFLIX・Huluといった黒船勢にはじまり、民放各局の合同キャッチアップサービスTVerテレビ朝日サイバーエージェントが立ち上げたAbemaTVなどがそれに続く。

 

僕も時々NETFLIXTVerを観るのだが、TVerは民放のテレビコンテンツが百花繚乱のごとし、NETFLIXに至っては映画ありドラマあり、国内あり海外ありとあらゆるカテゴリーの映像コンテンツを網羅している。

 

もちろん、日本版ウィキペディアのページすら無いアメリカン・ニューシネマの隠れた名作を観たい時などは、NETFLIXへの入荷を期待するより渋谷のTSUTAYAに行って発掘した方が早いとは思うが、これもウェブに置き換わるのは時間の問題であるように思う。ウェブ進化論で提唱されていた「ロングテール」が、「ウェブのあちら側」で利用できるニッチなコンテンツには適用されるからだ。

 

また、海の向こうアメリカでは、動画プラットフォームの隆盛ぶりを追いかけるようにして、「パリティ」という考え方が登場してきている。

 

パリティ」とはParity、等価という意味合いである。あまり聞きなれない英単語だと思うが、物理学(特に素粒子物理学)をやっている人なら「パリティ対称性の破れ」で知っているだろう。

 

動画広告の世界において、「パリティ」は「TVにおける1回の広告露出とウェブにおけるそれは同じ価値を持つ」という考え方を指す。下記は、今年の5月11日に出た記事である。

 

Will There Be a Multiplatform Upfront? ~Digital Video, TV Industries Face Need for a Common Measurement~ - AdvertisinAge

 

タイトル訳:複数プラットフォームのアップフロント※市場は実現するのか?~デジタル動画とTV業界は共通の指標の必要性に迫られている~

 

※「アップフロント」とは、アメリカのTV広告市場における「先買い」のこと。日本で言う「タイム」に似て、年間を通じて枠を買い付ける市場のことを言う。

 

上記の AdvertisingAge の記事はかなり長いので乱暴に要約すると、「TVとデジタル広告においてはこれまで異なる指標が用いられてきており、同一の指標で計測すること(=「パリティ」)は難しいと思われていたが、デジタルGRPなどの新しい指標の開発により互換性が高まった結果、TVとデジタルが統一されたプラットフォームでの広告取引は決して遠い未来の話ではなくなってきた」といったところだろうか。

 

いずれにせよ、「パリティ」という考え方によって、TV番組もウェブの動画も、同じ価値を持つコンテンツとして認識されてゆくことは間違いない。

 

そうなると、映像コンテンツが巨大なプラットフォームに集約されてゆくという現在の流れは、ますます加速するだろう。TV番組は、民放各局のチャンネルで観るものではなく(そうした習慣も少しは残ると思うが)、NETFLIXかHuluかAmazonプライムビデオかはたまた他のサービスになるかは知らないが、TV・ウェブの両方に接続可能なプラットフォームで観るものとなるだろう。

 

今日の記事では、様々なコンテンツが少数のプラットフォームに集約されていく先にある、「プラン・バイ・コンテンツ」という考え方について書こうと思う。

 

 

 

コンテンツの置きどころが少数のプラットフォームに収斂していった場合、広告代理店のプランニングは形を変えていくだろう。各メディアごとのコミュニケーションの最適化を図る「メディア・プランニング」ではなく、各コンテンツごとのコミュニケーションの最適化を図る必要が出てくる。それを、この記事では「プラン・バイ・コンテンツ」とした(長いので以下PBCとする)。

 

いかにもダサい名前なので、よりよい名前を思いついた人はぜひ共有してほしい。

 

PBCとは何かと言うと、「コミュニケーションの最適化を、メディアごとではなくコンテンツ(の形式)ごとに考える」ということである。

 

具体的に書こう。コンテンツには、様々な形式のものがある。映像、活字、音楽、画像……。また、映像が好きな人、活字が好きな人……と、人によって好きなカテゴリーが異なるのも、周知の事実だろう。

 

例えば僕にとって、最も親和性の高いコンテンツ形式は活字である。子どもの頃から身の回りに本が山と積まれていた僕は 、小学生にして椎名誠の『あやしい探検隊』シリーズに憧れ、筒井康隆の『七瀬』三部作にエロチックな妄想を抱く、ませたガキになってしまった。

 

(僕が子どもの頃から好きだった本については、思春期にみていた世界が蘇る、「またここに戻ってきたい」と思う小説10選。 参照。)

 

あやしい探検隊 アフリカ乱入 (ヤマケイ文庫)
 

  

家族八景 (新潮文庫)

家族八景 (新潮文庫)

 

 

時系列で辿れば、小説と同時期かやや遅れて目覚めたのが日本のポップスやロックであった。それも、「言葉がわかるから」といった理由だった。そこから高校~大学にかけて洋楽も聴くようになった。映像コンテンツは実はずっと苦手で、それこそ社会人になってから、きちんと観賞するようになったと言ってもよい。

 

そんな僕にとって、最も響きやすいコミュニケーションの形は「活字」である。椎名誠が『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』というフィクションだかノンフィクションだかわからないホラーな物語で描いたように、僕もまた「活字中毒者」であるから、そこに文字の羅列がある限り、それを読まずにはいられない。

 

四谷学院の「なんで私が○○大に!?」というおなじみの広告は、常にあの細かい文章の部分を読まないと気が済まないし、迷惑なダイレクトメールはとりあえず最初から最後まで読んでみて「なんて支離滅裂な文章なのだ……」と絶望しながらゴミ箱に放り込む。

 

もし、「活字コンテンツ」のプラットフォームが一元化されれば(その最初の波がKindleだと目されていたが)、こうした「活字中毒者」たちを一網打尽に捉えることが可能だ。これまでのプランニングでは、「雑誌なら、柔らかめで『Pen』や『BRUTUS』に、堅めで『文藝春秋』に出稿しよう」という「メディア選定」が必要だったのが、「活字好き」をターゲットにして一発でコミュニケーションを図ることができるのだ。

 

もちろんそれは活字コンテンツに留まらない。シネフィルやロック中毒の方々も、もれなく捕捉されるだろう。そもそも、映像プラットフォームが一元化され映画とドラマの間の垣根が取り払われれば、「シネフィル」という言葉すらなくなっているかもしれない。

 

PBCが実現された時、マーケティングにおいては「映像が好きな人ってどんな人だろう?」「音楽が好きな人ってどんな人だろう?」と、心理学により接近したアプローチが行われると推測される。もう少し言えば、メディア・プランニングの時代から「より人間の本質に迫ったマーケティング活動を行う必要が出てくる」ということだ。

 

僕は自分が映像や画像といったものに苦手意識を持っていたためにわかるのだが、視覚で情報を捉えるタイプの人は、「形」や「色」にこだわりのある人が多い。反対に、活字が好きな人は「言葉」にこだわりがあると言えるだろう。コンテンツによってターゲットを横断的に観察することが可能になることで、「人間」についての理解のされ方も更新されるだろうし、クリエイティブにおいて力を入れる部分も変わってくるだろう。

 

既に、ウェブに繋がれたメディアにおいては、運用型の広告枠によって一律な広告配信が可能になっている。しかし、現在はまだ、「ターゲットをコンテンツの形式ごとにカテゴライズする」という動きは生じていない。

 

それぞれのコンテンツのプラットフォームが統合された時、それは、広告代理店において人間の捉え方が変わってしまう瞬間になるだろう。

ロボットや人工知能によってアイデンティティが脅かされるのは、「人間より仕事ができるから」ではない。

「ロボットが人間の仕事を奪う未来」というテーマが、マクドナルドの前CEOの発言をきっかけに、話題になっていた。

 

ロボットが人間の仕事を奪う「最低賃金」は15ドル:マクドナルド前CEO発言

 

また、人工知能(Artificial Intelligence、AI)についての議論も、依然活発だ。少し前に行われた囲碁AIとプロの対決は、囲碁を少しでもかじったことのある人にとってはゾクゾクするものだったであろう。

 

圧勝「囲碁AI」が露呈した人工知能の弱点

 

「単純な作業、反復的な思考から解放され、人はより人間らしい、自分にしかできないクリエイティブな仕事に打ち込めるようになる」というのが、ロボットやAIの普及した世界の一つの理想像だ。

 

しかし、はたしてそのようなバラ色の未来予想図は実現するのだろうか?

 

労働の機会が失われることで、人は「自分にしかできない仕事に邁進することができる」どころか、「自分自身が何者なのか知る機会を与えられず、アイデンティティを喪失する」のではないだろうか。

 

それはもはや、個性を持たないロボットと同じ存在に、人間がなりはててしまうということではないだろうか。

 

今日の記事では、「人間に人間らしさを与えるために開発されたロボットやAIが、結果として人間の人間らしさを奪ってしまうこと」について書いてみようと思う。

 

 

 

人間は、労働によって自己自身を発見する。

 

これについては、難しく考えずとも、誰にでも思い当ることがあると思う。

 

大学時代、僕は自分の気になったことにとことん手を出してみようと思い、ベンチャー企業つげ義春の『無能の人』のごとく石を鉢植えにしたネギの家庭菜園セットを売ったり、学祭でドクターフィッシュを手製の足湯にぶち込んで商売しようとしたり、インドのムンバイまで行って高級アパートを日本人の駐在員に売る仕事に就いたりしたが、最も身になったと思っているのは、実はブラックと名指しされる某居酒屋チェーンでのアルバイトだった。

 

僕はそのアルバイトをするまで、ほとんど労働というものを体験したことがなかった。強いて言うなら、塾講師を少しやった程度。そんな僕が、「いらっしゃいませぇ!」と声を張り上げ、「お客さん、飲み放題コースいかがですか?」と営業する姿など、当初は想像することだにできなかった。

 

テーブル番号やメニューの名前、さらにはハンディ(オーダーを取る機械)の使い方を必死に覚えながら、ようやくお客さんの注文が取れるようになった時に僕が発見したのは、「自分は人が欲しいものと手持ちリソースをすり合わせていくことが好きなのだ」ということだった。

 

これに気付いたのは、いわゆる「飲み放題コース」を営業する中でであった。居酒屋には、「飲み放題コース」と呼ばれる、飲み放題付きのコース料理がある。一般的に、「飲み放題コース」は客単価が上がり、かつオペレーションが単純化されるため、お店側としては推奨して売ってゆきたいサービスである。一方で、飲み放題にしたいと思っているお客さんの側にも「この料理は別の料理に変えてほしい」「こんなに食べない」「そもそも飲み放題にするほど飲まない」など、様々な要望がある。

 

「飲み放題コース」はどうやったら売れるのか、というテクニックについては論旨から外れるためここでは書かないが、最終的に僕は、「飲み放題コース担当のホール責任者」として、忘年会シーズンはひたすら「飲み放題コース」を勧める社畜アルバイターと化し、その売上への貢献が認められて社長のW氏の署名の入った表彰状をもらったりもした。そういった結果につながったのは、僕に商才があったとかそういうことよりも、「人が好きなものは何かを探り、それにできる限り近いものを自分の手持ちのリソースの中から提案することが好きだったから」だと思う。

 

僕は今も、人と飲む時には「その人が好きそうなお店」をリサーチしたり、「その人が好きそうな小説や映画の話」を振ったりして、楽しいコミュニケーションの時間を創出するのが大好きだ。これだって、「相手の好きなものと自分のリソースをすり合わせる」ことに他ならない。

 

ヘーゲルは、「奴隷と主人」という関係の中でいかに奴隷が「自主性・自立」を獲得するかを述べた文章の中で、下記のように述べている。

 

物を形成するなかで自分が自主・自立の存在であることが自覚され、こうして、自主・自立の過不足のない姿が意識にあらわれる。

 

物の形は外界に打ち出されるが、といって、意識と別ものなのではなく、形こそが意識の自主・自立性の真の姿なのだ。

 

かくして、一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ。

 

(『精神現象学』p.137) 

 

精神現象学

精神現象学

 

 

労働する(=「物を形成する」) 中で打ち出されたアウトプットが自分自身のアイデンティティなのだ、ということが、この文章の中では書かれている。それは、何も有形のものに限らず、僕が上で例として挙げたような「無形のサービス」においても同じだ。

 

居酒屋のアルバイトというのは、学生が体験する労働の機会の中でも、最もありふれたものの一つだろう。物珍しい経験をしなくとも、「自分自身のアイデンティティ」というものは、いくらでも発掘可能なのだ。

 

 

 

しかし、ロボットやAIによって労働の機会が減ると、自己自身を発見する機会というのは少なくなる。

 

居酒屋の例で言えば、昨今増えている「タッチパネル式の注文」がすべてのお店で普及すれば、オーダーを取りに来る店員は不要となる。僕が自分自身の特性を発見した「飲み放題コースの営業」という仕事も、人間がやる必要はなくなるかもしれない。

 

ロボットやAIの普及が人間の価値を減じてしまうのではないか、という、ディストピアものの小説や映画でよくテーマとなる懸念は、たいていの場合ハード面での比較におけるものだ。つまり、「ロボットやAIの能力」と「人間の能力」を見比べて、「計算ならロボットの方が正確で速い」「過去の事例から現在の課題の最適解を見出す力ならAIの方が得意だ」という事実をもって、「だから人間は無価値なのだ」と結論するのである。

 

それは例えば、こういった広告事例を目にして「自分の投票したのが人工知能の作ったクリエイティブだったらなんとなくゾッとするなぁ」と感じる心にもつながっている。

 

AIがいよいよクリエイティブ領域に進出?!「クロレッツ ミントタブ」が人工知能クリエイティブディレクターにCM制作を依頼世界初!人間VS人工知能のCM制作対決! 

 

しかし、議論すべきより根源的な問題は、労働におけるソフト面、言い換えれば「なぜその仕事をしているのか」というその人のアイデンティティに関わる問題の方ではないだろうか。

 

人間どうしで職の奪い合いをしている今ですら、「自分の代わりとなる能力を持った人間」は、世の中にゴマンといる。ハード面で比較するなら、既にほぼすべての人が「誰かと代替可能な存在」なのである。

 

だが、それぞれの人は、それぞれの人に固有の「労働する理由」を持っている。それが「ソフト面」である。僕であれば、広告代理店で働く理由は「自分のメッセージを知らない人に届ける力を身につけたいから」というものだ。

 

同じ動機で広告業界で働いている人はたくさんいるが、「僕にとってのこの動機を満たすことのできる」人間は、僕しかいない。動機のオリジナリティという点で言えば、能力の比較と同じく代替可能だけれども、「その叶えたい欲望を満たして快感を覚える人間、幸せになれる人間」というのは、誰でもない、自分自身なのだ。

 

また、表面的には同じような動機であっても、掘り下げていくと誰にも真似しえない自身のアイデンティティの鉱脈に突き当たる。事実、僕が就職してから書いた 僕が「スクールカースト」から解放された日死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。といった記事の内容は、「働いてみて改めてわかった、自分自身の価値観」そのものである。

 

労働することで、人は自分自身を発見していく。労働というのは、金銭というものが関係している以上、「嫌だからやらない」「興味がないからやらない」と拒否しづらく、その結果「自分すら知らなかった自分自身」を発見するのである。

 

(学業でも同様の現象が見られることは、「教育に関心があります」と言う人はまず、「受験勉強の意味」を語れるようになってほしい。 でも書いた。)

 

ロボットやAIの存在は、そうした「労働」というプロセスを、アイデンティティを確立する極めて重要な機会を人間からはぎ取り、「自己とは何か?」と問う力を失わせてしまうのではないだろうか。

 

それは、「機械が人間より能力的に優秀だから、人間の仕事がなくなってしまう」などということよりも、遥かに深刻な問題ではないだろうか。

 

 

 

ロボットやAIが、人間の「労働」という機会を奪った時、そこで失われるのは「人間らしさ」そのものである。

 

人間に「人間らしさ」を発揮させるために開発された彼らがむしろ「人間らしさ」を失わせてしまうというのは、なんともぞっとする光景である。

 

願わくば、古代ギリシャ時代の哲学者たちのように、あり余る時間を持て余した人間たちが、新たな「人間らしさ」に辿り着けますように。

『よばなし』、しませんか。

自分はどうやら、「飲み会」なるものが好きではないようだ。

 

そう気付いたのは、大学生になって少し経ってからのことだったと思う。

 

その場にいる人たち全員が楽しめるような、バカ話や恋愛トーク。その瞬間を楽しむために準備され、即座に消費されてゆく、飲食物や出し物の数々。

 

そうやってその一瞬一瞬を楽しく過ごすのが大好きだという人も、世の中にはたくさんいるのだろう。

 

だが、僕にとっては、そういった時間は「消費」以外の何物でもなかった。

 

それでいて、人にノーと言うのが苦手な僕は、飲み会の誘いを断ることもせず、「こんなことをして何の意味があるのか」という問いを頭の片隅に感じつつ、囃されるままに生ビールを飲み下していた。

 

 

 

一方で、どうやら自分は「少人数で飲むこと」がめちゃくちゃ好きみたいだ、と気付いたのも、大学時代だった。

 

その最たるものが、「さし飲み」である。

 

初めは「他の人の価値観や考え方を学びたいから」という、ちょっとキモチワルイ高尚な理由で始めたさし飲みだったが、今では「その会話を通して、その人がどんな人間なのか、自分がどんな人間なのか、知っていくのが楽しいから」という至って快楽主義な動機に落ち着いてしまった。

 

学生時代に150人くらいとさしで飲み、今ではもう、数えることを止めてしまったが、300人くらいにはなっただろうか。今週だけでも、5人と飲んでしまったくらいだ。

 

「最大公約数の楽しさ」を見出さねばならない大人数の飲み会と違い、少人数の飲み会では「個人ならではの外れ値」にフォーカスできる。僕にとっては、それが何より楽しい。僕が「スクールカースト」から解放された日。 でも書いたように、それはきっと、昔人気者になれなかった悔しさの裏返しなのだろう。キャッチーな「最大公約数の楽しさ」を発揮できなくとも、人間の内面には奥深いおもしろさが潜んでいるのだよと、僕は世の中に訴えたいのだと思う。

 

 

 

飲み会は苦手だけど、少ない人数でのんびりコミュニケーションするのは大好きだ。合コンや異業種交流会でも知らない人とは出会えるけれど、もっとじっくり、「会話」が好きな人たちと、話をしてみたい。

 

「パーティーピープル」でもなく「人間ぎらい」でもない、そんな人たちが集まって、どこかの街の片隅にあるお店で、しっぽりと話し続けるだけの会。

 

ありそうできっと身近には見当たらない、そんなコミュニケーションの機会を、つくってみたいと思います。

 

企画の名前は、『東京よばなし』。

 

別にお酒がマストではありません。が、少しでも飲めるのであれば、ぜひ「お酒の味」そのものも、コミュニケーションの潤滑油に変えてもらえればと思います。テレビ局との会食で幾度となく撃沈してきた僕が、身銭を切って試した「弱い人でも飲める美味しいお酒」を教えます。

 

お酒のみならず、お店の雰囲気や、料理の美味しさなんかも、コミュニケーションのきっかけになるとよいですね。

 

決行人数は、僕を入れて4人とします。

 

企画名の通り、まずは東京のどこかで開催予定ですが、そのうち『京都よばなし』や『大阪よばなし』もあるかもしれません。

 

まだまだ企画自体がプロトタイプの段階なので、いろいろと不明な点もあるかもしれませんが、世の中にあまり見かけない「少人数コミュニケーションの場」を、一緒につくっていけたらなと思います。

 

あなたのご参加をお待ちしています。

 

 

 

※後日追記

 

『よばなし』はじまりました!

 

いいね!いただければ、よばなしのご案内を差し上げます。

 

m.facebook.com

 

また、よばなしの様子はこちらで読めます!

 

4874.hatenablog.com

就職活動に「相性」は要らない。

僕が就職活動をしていた頃、「広告業界に行きたい!」という気持ちは誰にも負けないくらい持っていたつもりだったが、一方で、「僕が広告業界の選考にパスできるのか?パスできたとして、はたしてやっていけるのか?」という迷いも、少なからず抱いていた。

 

それは、「広告業界というのは、どんな人とも仲良くやれるコミュニケーション能力があり、流行やムーブメントに敏感で、楽しいことが大好きな『リア充』が行く業界ではないか」と思っていたからだ。

 

実際に入社してみて、その考えは間違っていなかったと思う反面、「あんなに『自分でも大丈夫なのかなぁ』なんて悩む必要はなかったな」とも思う。

 

就職活動では、「企業との相性が何よりも大切だ」という言葉をよく耳にする。「社風が決め手でここに決めました!」「人がどこよりも自分に合っているからここに決めました!」そう語る先輩たちを、僕は就活のイベントやOB訪問などでたくさん目にしてきた。

 

しかし、「とても広告代理店マンには見えない僕」が広告業界で働いてみた結果、「就活において、相性というのは正直どうでもいい要素なのではないか?」と思うようになった。

 

今日は、就活生の頃の僕のように、自分のイメージとはかけ離れた業界を志す人たちに、「迷わずにそのまま突っ走れ!」というエールをおくる記事を書こうと思う。

 

最初に、「自分の雰囲気にそぐわない業界や企業に入ることができるのか?」という疑問について書き、その後で「相性の合わない企業に入ってやっていけるのか?」という疑問について書いていこう。

 

 

 

 

 

まずは、「自分の雰囲気にそぐわない業界や企業に入ることができるのか?」という疑問について。

 

結論は、「自分の学びたい部分にフォーカスして志望理由を語ることができれば、十分にチャンスはある」というものだろう。

 

基本的に、その業界の雰囲気や社風というものはビジネスモデルと密接に結びついている。広告業界で言えば、「マスメディアからCMの手数料を得ること」がこれまでの繁栄を支えてきた。マスに届くメディアを使えば使うほど広告代理店は儲かる。したがって、広告業界では「たくさんの人を動かしたい人、人の気持ちの最大公約数を捉えられる人」が重んじられてきたし、「みんなで楽しいことをやろう!」という雰囲気が醸成されてきたのだ。

 

(参考:広告業界にはなぜ合コン好きな人が多いのか。

 

そういった「ビジネスモデル」と業界の雰囲気や社風を結びつけて考えられている人が、「相性が合わないかも…」と思いながらもなおその業界や企業に惹かれてしまうなら、面接では「どうしてこの業界を志望したのですか?」という問いに詰まってしまうかもしれない。

 

しかし、落ち着いて自分を見つめ直してみれば、その問いへの答えはすぐに思い当るだろう。

 

合わないかもと思いながら、それでもその業界、その企業を志望する理由。それは、「今の自分には持ちえない力を身につけたいから」以外にありえない。

 

僕は、学生時代からブログを書いてきた。「学歴や経験を生かし一流の企業に入って安定した家庭を築くこと」や、「世の中を変革するインパクトを持つような夢を抱き、その実現に向けて邁進すること」のような、世間的に「素晴らしい人生、幸せな人生」と称されるものに違和感を覚え、「自分は超人にも大衆にもなれないアウトサイダーだ」という一心で、文章を書き続けてきた。

 

その不格好なメッセージを、インターネットという大きな海は拾い上げ、届けるべき人たちのもとへ届けてくれた。インターネットを通して、僕はたくさんのかけがえのない友達を得ることができた。

 

一方で、インターネットだけを相手にしていては届かない人もいるということを、僕はいくつもの記事を発信し続ける中で気付いてしまった。だからこそ、すべてのメディアを相手にして、「広く知らしめる」コミュニケーションを築いてゆける広告代理店を志望したのである。

 

奇しくも、広告代理店が「デモグラフィックからサイコグラフィックへ」「セグメントからペルソナへ」「枠から人へ」などといった言葉で語られる転換期を迎えていたことも、僕にとっての追い風となった。

 

自分が「学びたい」と思っていることと、その業界の行く末をシンクロさせ、自分の人生とビジネスの未来を一つの絵の中に納めて描くことができれば、たとえ「その業界らしからぬ人間だ」と思われていたとしても、絶対に内定をもらうことができるはずだ。

 

 

 

余談ではあるが、僕は今いる企業ともう一つ、それこそ「一人ひとりにしっかりと届くコミュニケーションを考えよう」という企業理念のもと動いている、別の企業Rからもお誘いをいただいていた。R社で働いていた経験のある先輩からは、「社風だけで言えば、間違いなくR社の方が君には向いていたとは思うよ」と言われたことがある。

 

そんな相性抜群の世界にお断りを入れてでも、僕は「広く知らしめる力」を手に入れたかったのだ。

 

「自分ととても相性の良い企業」の選考にも本腰を入れて取り組み、その上で「やはり相性よりも手に入れたい力が自分にとっては重要なのです」と言い切れる人間は、どんな会社からも「そこまで言ってくれるのならぜひともチャンスを与えたい」と、諸手を挙げて迎え入れられるのではないだろうか。

 

 

 

 

次に、「相性の合わない企業に入ってやっていけるのか?」という疑問について。

 

これはもう言い切ってしまうが、入社してから自分との相性がどうのこうのというのは甘えでしかない。配属先も、最初に与えられる仕事も、何一つ自分では決められないからだ。

 

(参考:就職先を「人」で決めてはいけない理由。

 

社会人というのは、その仕事でおカネをもらうプロになるということ。プロとして重要なことは、相性や適性がどうこう言うことではなく、相性が悪く適性が無いならばそれなりに、どう結果を出していくかを考えることだ。

 

僕は局担という仕事が自分には半端なく向いていないと思っている。それは、テレビというメディアが「みんなを楽しませる」ことを正義としており、その力を持った人間にとって楽園にも等しい場所である一方、僕にとっては「みんなを楽しませる」ことはこの世で最も苦手なこと以外のなにものでもなく、そんなことより世界の片隅でこぢんまりとした楽しみを味わっていたいと思ってしまう人間だからだ。他店の局担が自慢の宴会芸で会食を盛り上げ、テレビ局のお偉いさんの目に留まる、そんな「人間力」など僕は持ち合わせていないし、やろうと思うだけで吐き気がする。

 

しかし、数字を見たり思考したりすることや、社内の人間とのコミュニケーションを通じて情報を取ることなら、僕にも十分戦える余地はある。テレビのプランニングを考える人間が使うようなツールを自分でも使って、高い視聴率が見込めそうなCM枠をはじき出す。ささいなことでも営業や業推に話を聴いてスポンサーの理解を深める。一つひとつは誰にでもできることかもしれないが、忙しい日々の中で「誰にでもできること」を積み上げていくのはそれほど簡単なことではない。そこには、受験生時代に培った「ペース配分を考える力」「文字や数字の処理能力」や、積み重ねたさし飲みの時間の中で身に付けた「ヒアリング能力」が活きていると思う。

 

自分の弱みを平均点まで持ってくるのは辛いし難しい。であるなら、同じ結果を出すために強みを活かすことを考えればいい。それをひたすら繰り返すのが、プロであるということだ。

 

 

 

「多くの人に広く知らしめる力を手に入れたい」と思ってこの業界に飛び込み、2年弱という時間をかけて、僕がおぼろげながら理解してきたことがある。

 

それは、「広く知らしめるためには、ツッコミを入れたくなるような要素を対象に持たせるのが重要だ」ということである。

 

僕自身の例で話そう。

 

僕という人間は、先輩の言葉を借りれば「およそ広告代理店にいそうもない人間」である。イケメンでもなくトーク下手、今風の洒落者というわけでもないこのネクラ人間を見れば、「なんでお前が広告代理店にいるんだ!」と叫びたくなるのも無理はない。

 

そのままであれば、僕はただの「よくわからない人間」で終わりである。しかし、 人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。 でも書いたように、「デートするとしたらどこ行くの?」「1950年代の映画をオールナイト3本立てで観て喫茶店でお茶します」「なんだそれ!」といった会話を通して、(あるいは、カラオケで自分の入れたポルノグラフィティの『アポロ』が流れる前に「演奏中止」のボタンを押され続けるいじられキャラとして、)「明るいネクラ」というイメージを持ってもらえれば、そのキャラクターはマスにさえ通用するものとなる。

 

糸井重里氏は、『ふたつめのボールのようなことば。』でこのようなことを書いている。

 

『取っ手』

 

「理解されっこない」ようなことに、

 

理解されるかもしれない「取っ手」を見つけて、

 

よその人に持たせてみる。

 

(『ふたつめのボールのようなことば。』p. 29)

 

 

この「取っ手」という概念こそが、マイノリティなメッセージを幅広い人たちにリーチさせる上で必要不可欠な要素なのではないかと、広告代理店に入って2年が経とうとしている今、思っている。

 

 

 

 

 

相性が合わなそう、なんとなく違和感がある…。それでもその業界に飛び込もうと言うのなら、それは相応の何かが胸の内にあってのことに違いない。僕がかつて「ブログでは届ききらない人たちに自分のメッセージを伝える術を学びたい」と思って広告業界に入ったように。

 

そういう人は、ぜひその違和感を抱えながら、行きたい業界・企業に飛び込んでいってほしい。そしていつか、もやもやが言語化された時に、自分だけの言葉でそれを語ってほしい。

 

凡人にとっては、違和感こそが、オリジナリティの種になる。

 

 

いつかどこかで、マイノリティ同志として、ビジネスの世界であなたと相まみえんことを。

4人以下の飲み会が居心地の良いものになる理由を、数学的に証明する。

※この記事の内容は、清書した上で 4人飲みはなぜ面白い?数学で考える飲み会の最適人数 に寄稿させていただきました。

 

 

 

新卒で広告代理店に入り、はや2年が過ぎようとしている。

 

テレビ広告業界の会食や合コンなど、京都の片田舎でPCRなぞを駆使して遺伝子について考えていた頃とは真逆のめくるめく世界に放り込まれることになった僕だが、人間の根本の部分はやはり変わらず、大勢の集まりやパーティーに出ると大量のエネルギーを消費してしまう。

 

「大勢」というと漠然としているが、参加者の数が5人を超えると一人ひとりにフォーカスできず、やや辛くなってくる気がする。

 

一方で、4人以下の場合はとても楽しい会になる。もちろん、最たるものは僕の大好きなさし飲み、2人のケースだ。

 

これはどうしてだろうか。

 

それは、4人以下の飲み会では、深い話のできる「2人でのコミュニケーション」が取りやすくなるためである。 

 

言い換えると、「2人でのコミュニケーション」の割合が、「3人以上でのコミュニケーション」の割合よりも高くなる場合、僕の好きなタイプの飲み会が出現するのである。

 

それでは、「全体のコミュニケーション」に占める「2人でのコミュニケーション」の割合が、4人以下の飲み会では半分以上となり、5人以上の飲み会では半分以下となることを、数学的に証明してみよう。

 

 

 

3人での飲み会の場合、2人でのコミュニケーションは、3人から2人を選ぶ組み合わせに等しいから、2C3=3(通り)。3人以上でのコミュニケーションは、3人から3人を選ぶ組み合わせに等しいから、3C3=1(通り)。3>1で、「2人でのコミュニケーション」が優勢だ。

 

(コンビネーションの考え方がわからない人は、Aさん、Bさん、Cさんという3人を思い浮かべて、AさんとBさんが話しているシーン、AさんとCさんが話しているシーン、BさんとCさんが話しているシーン、AさんとBさんとCさんが話しているシーンの4つを具体的に考えてみてください。4人以上の場合も同じように考えることができます。)

 

4人での飲み会の場合、2人でのコミュニケーションは、4人から2人を選ぶ組み合わせに等しいから、2C4=6(通り)。3人以上でのコミュニケーションは、4人から3人を選ぶ組み合わせと、4人から4人を選ぶ組み合わせの和に等しいから、3C4+4C4=4+1=5(通り)。6>5で、依然「2人でのコミュニケーション」が優勢である。

 

(2人でのコミュニケーションは、A・B、A・C、A・D、B・C、B・D、C・Dの6通り、3人以上でのコミュニケーションは、A・B・C、A・B・D、A・C・D、B・C・D、A・B・C・Dの5通り。)

 

5人での飲み会の場合、2人でのコミュニケーションは、5人から2人を選ぶ組み合わせに等しいから、2C5=10(通り)。3人以上でのコミュニケーションは、5人から3人を選ぶ組み合わせと、5人から4人を選ぶ組み合わせと、5人から5人を選ぶ組み合わせの和に等しいから、3C5+4C5+5C5=10+5+1=16(通り)。10<16で、「3人以上でのコミュニケーション」が逆転する。

 

(2人でのコミュニケーションは、A・B、A・C、A・D、A・E、B・C、B・D、B・E、C・D、C・E、D・Eの10通り、3人以上でのコミュニケーションは、A・B・C、A・B・D、A・B・E、A・C・D、A・C・E、A・D・E、B・C・D、B・C・E、B・D・E、C・D・E、A・B・C・D、A・B・C・E、A・B・D・E、A・C・D・E、B・C・D・E、A・B・C・D・Eの16通り。)

 

実は、5人以上のいかなる場合においても、(2人でのコミュニケーション)<(3人以上でのコミュニケーション)となる。一応下記に証明をつけてみた。興味のない人は飛ばしてください。 

 

【以下証明】

 

5人以上での飲み会において、常に「2人でのコミュニケーション」の割合が「3人以上でのコミュニケーション」の割合を下回ることは、下記の不等式①を証明することに等しい。

 

n≧5のとき、いかなるnについても、

 

nC2<nC3+nC4+…+nCn-2+nCn-1+nCn―①

 

2項係数の公式から、

 

nC2=nCn-2―②

 

①②より、

 

nC2<nC3+nC4+…+nCn-3+nC2+nCn-1+nCn

 

⇔ 0<nC3+nC4+…+nCn-3+nCn-1+nCn―③

 

n≧5のとき、右辺は正の数であるから、③は明らかである。

 

よって、n≧5のとき、いかなるnについても①が成立する。

 

【証明おわり】

 

 

  

本当は、「2人でのコミュニケーション」や「3人でのコミュニケーション」の会話にかかった時間やその内容を数値化して、それぞれの人数におけるコミュニケーションの重みづけを行う必要があるのだろうけれど、さしあたり組み合わせの数だけでも、それぞれのコミュニケーションの割合というのは推定できるだろう。

 

こうしてみると、直感というやつは侮れない。なんとなく「5人以上はしんどいかな」と思っていたら、きれいにそれを裏付ける数字が出てしまった。

 

理論は直感を裏付けるものだと常々思っているけれど、こうして自分で感じたことを数字や理屈で示してみることができると、元理系の端くれとしては嬉しく思う。

 

補足ですが、今日の記事の内容を理解したい人は、高校数学の1年生の教科書を読んでみるとよいと思います。分野的には「場合の数と確率」の「順列・組み合わせ」です。

 

新課程チャート式基礎からの数学1+A

新課程チャート式基礎からの数学1+A

 

 

仕事に疲れ果てた君を救ってくれる、おススメの小説5選+α。

社会人1年目の、10月も終わりの頃だった。新卒で配属された内勤の部署から媒体の部署への異動を、僕は当時の上司から言い渡された。

 

それは、コミュニケーションプランニングの仕事を志望して入社した僕にとって、青天の霹靂だった。

 

深夜まで続く会食、初ラウンドで234という壊滅的なスコアを叩き出したゴルフ、まともにやり合えば確実に利害が対立するスポンサーとメディア、そして何より、自分の長年のトラウマだった「スクールカースト的価値観」との対峙(参照:僕が「スクールカースト」から解放された日。)。異動して最初の頃は、僕にとってネガティブなこれらの要素が絡み合い、仕事のできなさにボコボコにされ、自分でも「このままだとおかしくなってしまうかもしれない」と危惧していた。

 

そんな瀕死の僕を救ってくれた小説がある。

 

多くの人は、小説をエンターテイメントとして読むだろう。僕もそこに異論はない。ただ時として、小説は人を救う宗教書のような存在になりうる。

 

現実逃避ではなく、かといって自己啓発書のような直接的なカンフル剤でもなく、優しく前を向かせてくれる作品を5冊と、それらに関連する作品をいくつか紹介する。

 

 

 

 

 

センセイの鞄

 

川上弘美

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

僕はひとりぼっちが好きだ。それでも時々、一人でいるのが寂しいな、と感じることがある。目いっぱい残業した帰り道、午前0時を回ったコンビニでついホットコーヒーを買ってしまうのは、そういった寂しさを紛らわせたいからだと思う。

 

そんな孤独感を、肯定するでも否定するでもなく、ふんわりと包んでくれるのがこの作品。

 

登場人物たちは、「おひとりさまの達人」である。やがて恋仲になる「わたし」と「センセイ」は、不定期に馴染みのお店で席を隣あって飲んでいるが、それも約束をして一緒に飲んでいるわけではなく、たまたま一人でお店に来て、カウンターで横並びになったから飲んでいるのである。

 

そんな「おひとりさまの達人」でも、寂しさを感じることはある。お正月、家の中で蛍光灯を取り換えようとして怪我をした「わたし」は、積年のあれやこれやを思い出して泣いてしまう。どれだけ孤独耐性が高くとも、人は誰もいない場所では生きられない。そんな時、あたたかく迎えてくれる人がたった一人いれば、どれだけ幸せだろう。作中の至るところで、そんな切々とした寂しさと救われる温かさを感じて、僕は涙を抑えることができなかった。

 

僕はこれまでの経験から女性作家の作品を苦手だと感じることが多いのだが、川上弘美氏の作品はどれもすごく好きだ。夢と現実があいまいになった世界、可愛らしくそれでいて甘ったるくない感じは、僕の大好きなバンド、スピッツと根を同じくしているように思う。『センセイの鞄』が好きなら、スピッツのアルバムの中でもビタースイートな『フェイクファー』なんて、合うんじゃないだろうか。

 

フェイクファー

フェイクファー

 

 

 

 

ようこそ、わが家へ

 

池井戸潤

 

ようこそ、わが家へ (小学館文庫)

ようこそ、わが家へ (小学館文庫)

 

 

サラリーマンをやっていると、時々自分が歯車であることを受け入れざるをえないタイミングというのがある。拒否権などないムチャ振りをいかに解決するかに頭を悩ませていると、「僕は歯車になんてなりませんよ!」と息巻いていた大学時代の自分が思い出されて、自嘲気味に笑ってしまうことがある。

 

しかし、僕たちはただの歯車ではない。熱い心を持ち、どうやったら取引先に価値を提供できるかをひたすら考える、プロの歯車だ。自分でかみ合わせを考え、自分からギアを回してゆく、自律的な歯車だ。

 

金曜日の夜遅く、家の近くの中華料理屋でビールを飲みながら、歯車に少しばかりの油を差していた時に出会ったのが、この『ようこそ、わが家へ』だった。

 

フジテレビの月9でドラマ化されたが、原作はもっと男くさい作品だ。そして何より、第一級の「サラリーマン賛歌」である。冴えない銀行員の中年男が、それまでのサラリーマン人生で学んだすべてを費やして、クソみたいな資本主義社会に一撃を見舞うラストシーンは、社会で歯車となって働くあらゆる人々の胸にエールとなって届くに違いない。

 

何者にもなれない歯車たちが必死になって生きてゆく姿を描いた点で、朝井リョウ氏の『何者』に対するアンサー的作品とも言えるかもしれない(『ようこそ、わが家へ』の方が先だけど)。読み比べても面白い。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 

 

  

一年ののち

 

フランソワーズ・サガン

 

一年ののち (新潮文庫)

一年ののち (新潮文庫)

 

 

仕事終わりの飲み会もカラオケも決して嫌いではないけれど、僕なんかは一度やれば当分はいいかなと思ってしまう。会食の予定をベルトで(=平日5日間すべて)入れてしまう先輩のタフネスさに舌を巻きながら、自分のエネルギーのキャパの小ささに笑ってしまう。だけど、休日くらいは静かに暮らしたい。

 

そんな時、僕が手に取るのはサガンの『一年ののち』。池澤夏樹氏の『スティル・ライフ』と同じく、心の鎮静剤として抜群の威力を発揮する。自宅の風呂に浸かりながら、あるいは布団にくるまりながら読むのもいいし、外で読むならやっぱり神保町の喫茶店だろうか。『ラドリオ』のウインナーコーヒーや『ミロンガ・ヌオーバ』のココアをお伴にこの本と土曜日の午後を過ごせば、ふつふつとエネルギーが蓄えられ、「来週からまた戦える!」という気分になるものだ。

 

『一年ののち』は何度読んでもストーリーが頭に残らない小説でもある。筋を覚えられない、というと作品としてどうなの、と思われるかもしれないけど、少なくとも僕にとっては、それは素敵なことだ。 このブログについて。 でも書いたけれど、僕の中では「良いコミュニケーションは水の如し」である。無色透明で何の味もしない、だけど不思議と良い感じだったことは覚えている、それが僕にとっては「良いコミュニケーション」であり、このブログを『忘れられても。』という名前にした理由の一つなのだ。

 

自由に生きるジョゼ、彼女を愛する男ベルナール、ジョゼがなぜか惹かれてしまう無教養な男ジャック、 女優を目指す美女ベアトリス、ベアトリスに恋した田舎の青年エドワール、彼らが集まる社交場を開くマリグラス夫妻…。様々な人間たちの心の細やかな動きの描写には、「不条理だけど、こういうことってよくあるよな」と思わされる。旅行先にジョゼがやってきたのを見て自分を愛してくれているのだと思い込んだベルナール、一度は成功したベアトリスへの求愛が短い花火で終わってしまうのを成す術もなく見守るエドワール…。男の悲劇にばかり目が行くのは、僕もまた男だからかもしれない。

 

ちなみに、僕はフランス映画の中でもいわゆる「ヌーヴェルヴァーグもの」がどうも苦手なのだが、一方でフランソワーズ・サガンの小説は大好きだ。それは、映画では語られることのない「不条理であることそのもの」を、言葉にしてくれているからだと思う。映画の不条理なシーンでは「なぜこういうことが起こってしまうのか?」と考えてしまうが、小説ではそれが「なぜも何も不条理だから仕方ないのだ」と描写される。「理由があるのか否か」を決定できるのは、心を描写できる文学だけだ。フランス文学をもっと読んでいけば、いつかヌーヴェルヴァーグのおもしろさをわかる日が来るかもしれない。

 

(以下は、例外的にフランス映画で僕が好きな作品です。)

 

天井桟敷の人々 HDニューマスター版 [DVD]

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シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]

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深夜特急

 

沢木耕太郎

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 

深夜特急〈3〉インド・ネパール (新潮文庫)

深夜特急〈3〉インド・ネパール (新潮文庫)

 

 

スポンサーとメディアの板挟みとなり、理不尽にも思える業務に詰められていた頃、「いざとなったら、俺にはこれがある」とビジネスバッグに忍ばせていたのが、この作品だった。

 

特に『深夜特急1 香港・マカオ編』と『深夜特急3 インド・ネパール編』から伝わってくる熱量はすさまじい。それも、スポーツ的な興奮冷めやらぬ感じといった熱ではなく、思考はどこまでも静かでありながらナイフのような鋭さを秘めた「白熱」である。

 

僕は世界一周旅行には二通りあると思っている。一つは、どこに行った、何を体験したという「外界を体験する」ことをメインに据えた旅。Facebookにアップされたウユニ塩湖の写真がその象徴的存在だ。もう一つは、観光名所や名物料理などはそこそこに、そこで出くわす人や出来事を通して、自分との果てしない対話を繰り広げていく旅である。『深夜特急』で語られるのは、まさに後者だ。

 

いつかそう遠くない未来に、僕も「自分との対話の旅」に出てみたい。『深夜特急』は読んだ人が無性に旅に出たくなってしまう本だとよく言われるけれども、僕もどうやら、主人公がマカオやインドで罹患した熱病に、冒されてしまったらしい。そういう意味では、もしもサラリーマンとして不適格な行動を取り締まる「社畜検閲」とでも言うものがあれば、真っ先に取り上げられて発禁に処せられるに違いない作品だ。 

 

しかし、僕は「会社で働くこと」と「世界一周の旅」にはほとんど差はないと思う。なぜなら、どちらにおいても「予期せぬ出来事によって自分自身を知っていく」ことに違いはないからだ。つまり、「周囲へのリアクションによって自分がつくられる」ということだ。

 

そのへんのことは、 死ぬまで死ぬほど自分探し、それでいいんだ。 で既に書いたけれど、沢木耕太郎氏が改めて「深夜特急編集後記」とも言える『旅する力 深夜特急ノート』で「アクション(自分から行動を起こすこと)の時代からリアクション(周囲との関わりから人物が形成されてゆくこと)の時代へ」という話をしているので、興味のある方は読んでみるとよいだろう。

 

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

 

 

 

 

荒野のおおかみ

 

ヘルマン・ヘッセ

 

荒野のおおかみ (新潮文庫)

荒野のおおかみ (新潮文庫)

 

 

「自分は大衆にも偉人にもなれない、ひとりぼっちのアウトローだ」

 

テレビ局のどんちゃん騒ぎで消耗し、帰り道のFacebookで友人が総合商社を辞めて起業したという記事を眺めながら、僕はため息をついていた。

 

そこには、誰も本当の自分を理解してくれないという苦悩があった。僕の考えていること、感じていることよりも、僕の外見や雰囲気、トーク力といった「キャッチーさ」で自分が計測されることに、僕は疲れ果てていた。

 

この本と出会ったのは、そんな時だった。

 

荒野のおおかみ』の主人公ハリー・ハラーは、「市民生活に属さないアウトサイダー」である。彼は、当時の新しい娯楽であったジャズや映画やダンスといった「大衆的なもの」を忌み嫌っていた。しかし、この世界と自分との統合に失敗し自殺しようと思い立ったある夜、ハリーは酒場でとても素敵な女の子と出会い、こう激励される。

 

「じゃ、あんたは踊れないのね?全然ね?ワンステップさえ?そのくせあんたは、生きるためにどんなに骨を折ったか、だれにもわかりゃしない、と言いはるのね!大げさなことを言ったのね。あんたの年ではもうそんなことするもんじゃないわ。そうよ、踊ろうとさえしないで、生きるために骨をおったなんて、どうして言えるの?」(p.137)

 

僕はこのシーンで号泣した。大衆的なものに馴染めず、かといってそれを完全に拒否することもできない自分の弱さと主人公の姿とが重なり、自分はまだ少しも生きちゃいない、そのくせ頭でっかちで理屈ばかり並べ立てていたのだと思った。そして僕は、このテレビ広告業界で見れるものはすべて見てやろう、そう奮い立ったのである。

 

僕は今でも「大衆的なもの」を楽しむのが苦手ではあるけれども、そんな自分をさらけ出すことができれば、たとえお互いに理解し合うことはできずとも、様々な人たちと交わってゆくことができるんだということを発見した。それについては、僕が「スクールカースト」から解放された日 や、人を笑わせて場を盛り上げるのが苦手な人のための、コミュニケーションの戦略。 で書いたとおりだ。

 

原題の 'Der Steppenwolf' は、アメリカのロックバンド、ステッペンウルフの由来である。アメリカン・ニューシネマの代表作『イージー・ライダー』は、そのステッペンウルフの楽曲を主題歌としている。体制と個人の対立がテーマであったヒッピー文化やアメリカン・ニューシネマのムーブメントに、ヘルマン・ヘッセという作家が寄与していたことも、彼の作品を読めば「道理だなぁ」と納得できるはずだ。

 

イージー★ライダー [DVD]

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「小説など何の役にも立たない」という言葉をよく聞く。「文系は登場人物の気持ちでも考えてろよ」というのも、インターネット上の煽り文句として定着した感のある言葉だ。

 

しかし、自らの生き方を省みて夢と目標を設定せよと説く自己啓発書にも、世界経済を読み解き10年後に生き残るための羅針盤を与えようとする経済学の本にも真似できない力が、小説にはある。

 

それは、自分の心の帰る場所を創造する力である。

 

 

君が今いる環境においては、すぐ手の届くところには、君のことを心底理解してくれる人は、なかなかいないかもしれない。「お前は本当にわからない奴だなぁ」と上司や先輩から言われて、凹むこともあるかもしれない。「わかってもらえないならそれで結構」と言い切れるほど、僕たちは「悪い人間」ではないからだ。

 

そんな時には、いつでも手の届く本棚に、自分の「帰る場所」となってくれる小説を、置いておけばいい。なんなら、僕が『深夜特急』をビジネスバッグに入れていたように、密かにそれを会社に持って行ってもいい。

 

誰にも真似できない、自分だけの味方たちを心に秘めて、社会には馴染めないアウトローなりの戦い方で、戦っていこう。

 

この記事が、誰かの自分だけの味方を探すその手助けになったのであれば、僕はとても嬉しく思う。

もうすぐ絶滅するという、広告代理店の「テレビ局担当」の仕事について。

少し前の 電通報 でも紹介された『広告ビジネス 次の10年』(横山隆治氏ほか著)では、次世代の広告業界に必要とされない人材の筆頭として、「メディアの事情通というだけのメディア担当」が挙げられている。

 

僕はこの本を読んでコミュニケーションプランニングの仕事を志したこともあり、会社に入った頃は「バイヤーなど何の付加価値も身につかない肉体労働だ」と思っていた。

 

おそらくその気持ちは、大学1年生時に「こんなメディアをつくってみたい」と憧れた、渡邉正裕氏による有料課金型のメディア My News Japan の一つの記事に端を発している。キラーコンテンツの「企業ミシュラン」でとある広告代理店が取り上げられており、その中で、プランニングの仕事については「統計的スキルなどが身につき市場価値が高い」と評されていたのに対し、バイイングの仕事については肩書とゴルフについての記述しかなかったのを見て、当時の僕は「ふーん、メディアバイイングの仕事ってそんなもんなんだ…」と思ってしまったのだ。

 

しかし、テレビ局担当という仕事を1年間死に物狂いでやってみて、「バイヤーというのは、ビジネスの基礎を身につける上ではまたとないポジションだ」と思うようになった。

 

今日の記事では、20年後にはもしかすると機械に取って代わられているかもしれない「局担」という仕事で得られるものを、書いてみようと思う。

 

 

 

・「情報」を執拗に取りに行く姿勢が身につく

 

広告代理店におけるメディア担当というのは、例えるなら最後まで裏切ることのない二重スパイである。もちろん暗躍する舞台は広告代理店および媒体社だ。メディア担当が代理店と媒体社の双方からうまく情報を引き出し、双方にとって有益な未来を創りだすことができれば、それはメディア担当の付加価値となる。

 

メディアは広告枠を、スポンサーはおカネを持っている。一方、彼らを繋ぐ広告代理店は何も持っていない。「情報」だけが、機能会社である広告代理店に集まってくる唯一にして最大の武器なのだ。

 

例えば、媒体部にはまだオフィシャルになっていないテレビキャンペーンの情報を、社内の営業から入手したとする。すぐにその情報を媒体社と共有して、裏局(同じエリア内のライバル局の意。自分がTBSの担当であれば、日テレ、テレ朝、フジテレビ、テレ東が裏局となる)をどうやって出し抜き、たくさんおカネをもらうのか作戦を練るのもよいし、直近の他のスポンサーであまり出稿がなかったキャンペーンがあれば、「以前のあのキャンペーンであんまりおカネを持ってこれなかった代わりに、この案件を持ってきました!」と言って、媒体社に気持ち良くなってもらってもよい。

 

どんなに末端で下流の仕事であっても、川を遡って情報を取りに行く姿勢があれば、良い仕事ができるようになるものだ。局担というのは、そういった攻めの姿勢が身につくとても良いポジションだと思う。

 

 

 

・負け戦でも諦めない「交渉力」が得られる

 

上では「下流だなんだと言わず上流まで情報を取りに行くこと」などと書いたが、やはり仕事の性質上、会社の上の方で決まったことを確実に遂行しなければならないこともよくある。この時はさしずめゴルゴ13の気分だ。

 

基本的に、局担は「誰かのケツを拭く仕事」が多い。広告代理店というビジネスモデルの性質上、おカネが最後に流れ込むのがメディアだから、おカネにまつわるミスや緊急事態はまず間違いなく媒体部門に絡んでくるのだ。

 

「誰かのケツを拭く仕事」というのは、「普通に考えれば媒体社から怒鳴られてもおかしくない仕事」ということでもある。そこで媒体社を納得させられるだけの交渉が展開できるか否かで、その後の仕事の質は大きく変わってくる。

 

交渉において重要なことは、突き詰めると2つしかない。「武器になりそうな事柄を見出して組み合わせる力」と、「決して諦めずに妥協点を見出そうとする姿勢」。これだけだ。

 

例えば、発注書のキャンペーン期間が間違っていて訂正しなければならないという「尻拭い作業」が発生したとしよう。今CM枠は混み合っているのか、このスポンサーのコスト感は高いのか安いのか、期間が短くなったり混み合う時期に重なったりするのであればGRPを取りきるために号数(買付の基準となる視聴率の時期)を変えることは可能なのか…。そういった下調べを十二分に行った上で交渉に臨むのだ。コストの高いスポンサーなら仕方ないなと言って期間変更を受けてくれるかもしれない。号数が変えられるならできるかもしれない。それ以外にも、相手が「じゃあこうしてよ」と言ってきそうなことを先回りして調べておく。そして「無理だよ」と言われても「どうすればできる?」と食い下がり、妥協点を見出してゆく。バイイングの部隊は、指令を絶対に遂行しなければならないのだ。僕たちはゴルゴ13なのだ。

 

交渉というと、黒いものを白く見せる奇跡のようなマジックや、印籠のごとく相手がひれ伏する魔法の言い回しが存在すると思うかもしれないが、そんなものはない。相手が少しでも喜びそうな材料をあらかじめ見つけて提案する。そんな地味な作業の繰り返しなのだ。

 

 

 

・サラリーマンの「基本のマナー」を叩き込まれる。

 

広告代理店の媒体部門と聞いて最もオーソドックスに思いつくものと言えば「マナーの厳しさ」ではないだろうか。体育会系の極致とも言える業界の中で、エレベーターやタクシーの乗り方から宴席での振る舞い方まで、基本的な社会人マナーはすべて叩き込まれる。

 

こういった体育会系の風土が苦手だと言う人もいるが、僕は「宗教の異なる友人とレストランに行くのと同じだ」と思っている。

 

僕がかつてインドにいた頃、ヒンドゥー教を信じている友人と食事に行く時は、牛肉のみならず肉類は注文しないのが暗黙の了解だった(ヒンドゥー教では基本的に殺生が戒められている)。たとえその日肉が食べたくても、友人である彼ら彼女らの信じているものを尊重し、自分勝手に振る舞うことを慎む。それが互いを尊重し合うということだ。

 

体育会系の価値基準を信じている取引先や上司、先輩と相対する時も、これと同じではないだろうか。その人が「新人はエレベーターの操作パネルの前に立つのがマナーだ」「会食では取引先や上の人間が食べ始めるまで箸をつけないのが礼儀だ」と思っているのであれば、それに従ってやればいいのではないだろうか。どうせその程度の我欲を我慢したところで死にはしないのだ。

 

そういう姿勢を身につけておけば、今後同じような価値基準を持つ人と出会った時も、その人と円滑なコミュニケーションを取ることができるだろう。局担として社会人のマナーを叩き込まれておけば、将来的に絶対に損にはならないのだ。

 

 

 

・豊富な「クライアントリソース」に触れられる

 

広告代理店の醍醐味の一つは、その存在が自社のビジネスを世に展開する「事業会社」ではなくビジネスチェーンの特定の部分を受け持つ「機能会社」であるために、様々な企業のマーケティング活動に携わることができる点にある。コンサルティングファーム投資銀行、総合商社や広告代理店といった業種を希望する学生の多くは、この「機能会社」という点に惹かれているのではないだろうか。

 

その広告代理店の中にあっても、媒体担当は営業担当に比べ、より多くのスポンサーリソースに触れることができる。ぶっちゃけ、テレビのキャンペーンを提案するだけなら、自社で扱いのあるありとあらゆるスポンサーを相手にすることだって可能だ。

 

媒体社経由では、自社では扱いのないスポンサーや、他の広告代理店の情報だって知る機会があるかもしれない。局担というのは不思議なポジションで、業界的にはライバルとされる他店と一緒にその媒体社を盛り上げていくポジションだから、そうした他店の局担とともに局のゴルフ旅行に招かれたりする。そこで尊敬できる広告業界の先輩を見つけることだってある。僕は汐留のベテランの先輩から、会食におけるマナーをいくつか教わったりした。そういった交流があるのも、また局担ならではである。

 

自社のスポンサーのみならず、媒体社や他の代理店経由で知りえた情報すら「クライアントリソース」に数え上げて、それらを横一列に並び替え、自分の作業を過去から未来へと縦一列に並び替えて、媒体社にとってのネガティブな情報をポジティブな情報で味付けし、苦い素材を美味しく飲みこみやすく調理してゆく。それが、媒体担当というコックの価値なのである。

  

 

 

・「自分の存在意義」についてひたすら考えさせられる

 

局担というのは、常に誰かと比べられる仕事である。代理店の営業や業推からは「担当している媒体社を仕切れるか否か」を日々見られているし、媒体社からは「他店の局担と比べて良い作業をしてくれるか否か」を日々見られている。

 

そうして比べられた結果、営業から「お前の担当局はいつも良い時間帯にCMを流してくれるから」と言って発注をたくさんもらえることもあれば、テレビ局から「お前が言うのなら枠を出してあげるよ」と言われてサービス(無料)でCM枠をもらえることもある。もちろんその逆もあって、一度「ダメ」のレッテルが貼られてしまうと、挽回するのはなかなか難しい。

 

タダでさえ、業務内容的には「下流」で「受け身」になりやすいポジションだ。作業だけミスの無いように回して、馬なりに流すことは簡単にできる。だけどそれでは、「そこそこやる局担」にはなれても「コイツのためにやってやろうと思わせる局担」にはなれない。

 

自分のどういう資質を活かし、どういう仕事の進め方をしていくのか。突き詰めて言えば、自分の価値とは何なのだろうか。冗談ではなく、こういったことを日々考えさせられるのが、局担という仕事なのだ。若いうちからそんな風に「自分の存在意義」について問いかけることのできる仕事は、そう多くはないはずだ。そういう意味では、媒体担当になった人間というのは、幸せだと思う。

 

 

 

代理店の社内からは、ともすれば「誰にでもできる」「媒体社への連絡係」的な扱いを受けることもある局担という仕事だが、僕は決して、誰にでもできる仕事ではないと思う。

 

確かにそれは、クリエイティブの「作品」や、コミュニケーションプランナーの「アイデア」や、データサイエンティストの「仮説」のような、「その人にしかできないアウトプット」がわかりやすく見える仕事ではない。

 

だが、局担がやってくる一つひとつの作業の結果は、紛れもなく「その局担にしか出せないアウトプット」である。CMがどこに流れるかという線引き、新規キャンペーンに対する見積もり回答、そのすべてが「テレビ局と局担が二人三脚で考え、スポンサーに提出したメッセージ」なのである。

 

そうした「その人にしかできない作業」が存在する限り、局担という仕事もまた、絶滅することはないはずだ。

 

煽りのようなタイトルを付けたが、僕の本心としては、広告代理店で働くすべてのバイヤーの皆様へのエールを込めて、この記事を書いたつもりである。

 

「バイヤーは不要だ」なんて声をぶっ飛ばすべく、2016年も働いていこうと思う。

 

 

 

関連記事:広告代理店のテレビ担当「局担」の正体

 

 

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